1:火星の悪意
この星に降り立ってからなのだろう。
時折ひどい頭痛が襲いかかる。それにともない、声が聞こえてくる。二度と聞きたくもない、あの声が。
――まだ聞こえるのか、いい加減にしろよ、くそったれ!
――仕方あるまい。彼が覚えている限りは、何度でも聞こえるのさ。
――あーら、アタシはもう嫌よ、あんな奴の声なんか聞きたくもないわ!
頭の中で時折聞こえてくる人の声は、昔から変わらない。それでもこの星に降り立ってからは頻繁に聞こえるようになった。なにやら興奮しているような、あるいは嫌がっているような、そんな感じだ。
頭の中で聞こえる声と同じことを、考えていた。
あの声はもう二度と、聞きたくない。
帰納の丘へ出ると、西空がわずかにオレンジ色を残して少しずつ暗くなっていくのが見えた。エイプリルと一緒に見た、火星の夕焼け。地球ではもう夜なのだろう。宇宙服を通して、気温が少しずつ下がってくるのが感じ取れる。少し寒くなってきた。暗くなってくる。だが気のせいだろうか、周りが少しずつ、赤く染まり始めたように見えた。
続いて訪れる頭痛。
イーブルマインドの靄が、あたりを包み始めていたらしい。辺りが暗くなってきたので、紫の靄が赤っぽく見えたようだ。慌ててきびすを返し、コロニーに向かった。
いつの間にか駆け出していた。イーブルマインドの靄から離れているのだろう、少しずつ頭痛が引いていく。
サクッ。
砂の上に何か落ちたらしい音。
――おい、落ちたぞ!
頭の中で聞こえるいつもの声が、言った。
――早く拾ってこいよ!
この声に命令されるのもいつもの事だ。素直に足を止め、落とした何かを探す。暗くなってきたので、明かりになるものがほとんど無い。コロニーのライトが辛うじて届く程度。
砂を撫でていると、手に、砂以外の何かが触れた。落としたのは、きっとこれだろう。
拾おうとして、改めて手を伸ばす。
一抱えもある、大きなロケットの玩具に――。
「!」
反射的に手を引っ込めた。
ここに『こんなもの』が、あるはずが無いのに。
ロケットの玩具は、ゆらりと揺らめいた。陽炎のように揺らめき、続いて、また姿を現しなおす。だが今度の玩具は、壊れていた。
『まだそんなもので遊んでいるのか?』
声が聞こえた。
『セルゲイにいさんを見習え! この出来損ないが!』
いつの間にか、周りが紫色の靄で包まれていた。落し物を探しているのに夢中で、気がつかなかったのだ。濃くなり続けるイーブルマインド。引き続いて訪れる頭痛。今度のは、割れるような痛みが走った。
目の前に置かれた、大きなロケットの玩具。大事にしていたあの玩具。だがあの大きな手は、その玩具を乱暴にひっつかみ、床へと叩きつけた。
金属音とともに、壊れた音が部屋に響く。
飛び散る部品。
ひび割れていく視界――。
――おい、どうした! またなのか!?
頭の中でかすかに、あの声が聞こえた。
――ちっ。仕方ねえな。おい、出てもいいだろ、司令塔さんよ。
――……ああ。
意識が戻ったとき、目の前には大きな鏡があった。コロニーの住人は誰一人として近づかない、鏡の間だ。
いつのまにこの場所へ戻ってきたのだろうか。
わからない。
「!」
手の中に何かを握っている。見ると、それは、銀色のカプセルだった。いつの間にこんなものを拾ったのだろうか。全く覚えが無い。ひょっとするとこれが、帰納の丘からの帰り道で落としたものなのだろうか。
わからない。
とりあえず、銀のカプセルをしまい、プリズン4へと向かった。
エイプリルが記憶の谷から帰ってきているかもしれない。
コロニーの入り口をくぐったとき、誰かの声が聞こえた。
――全く、ついてない日だぜ。