4:サイコ
「金星人? 馬鹿な。そんなものなど信じないぞ、ありもしない存在など」
くだらない。
サイコハウスの連中と、私を一緒にして欲しくない。
地下水道から戻ってきたとき、コロニー自体の異変に気がつく。妙に空気がピリピリしている。皆、どこか緊張した面持ち。審判の訪れ。それを乗り切れるかと言う不安が、こうした空気を作り出しているのだろう。そんな中で、サイコハウスの連中は、全くと言っていいほど私の理解の範疇を超えた存在にすがり付こうとしている。
金星人など、いるはずがないモノにすがって何になる。
「ひょひょひょ。お前はどうなのだ」
目の前に、スピリットマンが姿を現した。
「お前は、サイコハウスの連中を見下しているようだな。ひょひょ。お前はどのみち金星人など存在しないと考えておるわけだな?」
「ああ、当たり前だ。そんな存在しないものにすがって何になる」
「ひょひょひょ」
どうもこの笑いは好きになれない。スピリットマンは、私をからかうように、右へ左へ飛ぶ。蜂の求愛ダンスじゃあるまいし。
「ならば、お前に聞こうか。お前は、不安や恐怖を感じた事があるか?」
ない、といえば嘘になる。
「ない、という輩などおるまいて。ひょひょひょ。そして、その不安や恐怖から逃れるために、人は何かにすがりつく。自分を守ってくれる存在、柱のようにしっかりとした存在、あるいは自分を超越した存在を求めるものだ」
「……」
「そして、その傾向は、特に頭の良い奴ほど顕著になる。知れば知るほど現実に嫌気がさしてきて、その嫌な現実から逃れるために、架空の存在を求め始める。お前は金星人を在りもしないものと考えておるがな、サイコハウスの連中にとっては、金星人は神同様の存在だ。そして、ひょっ、神に匹敵しなくとも、それに近いものならば見たことがあるだろう?」
地下水道で見た、トールボーイ。リバーはあのイーブルマインドのカタマリを神様と呼んでいた。リバーにとっての絶対者という位置づけであったかはわからないが、とにかくリバーはあのいかがわしいモノを信仰していた。
「現実を知るからこそ、現実にないものを求める――か」
私は、知らず知らずのうちに呟いていた。
自覚はある。
たまに私は、頭を休めるためにとりとめもない考えにふけることがある。子供の空想遊びのようなものだ。
実際にはない世界を頭の中で作り上げ、その存在が現実にあるかのように考える。だがその世界はあくまで空想上の存在。空想が実体化するなどありえない。
火星に来るまではそう思い続けていた。だがこの星はイーブルマインドが全てをゆがめ、具現化してしまう。この星ではあらゆる常識が覆され、私自身頭の中がカオス状態だ。何か一つの秩序さえあれば、私はもう少し平静を保てるはずなのだが――
「ひょひょひょ」
頭痛で目の前が一瞬ぐらりと揺れた。スピリットマンがいつのまにか、私の目と鼻の先の距離にまで近づいている。
「秩序がほしい、お前はそう思っただろう」
「ああ、それがどうした!」
なぜか怒鳴っていた。だがスピリットマンは臆した様子も無い。
「この火星に秩序は存在しない。善悪という価値観すらこの星では存在しない。そしてお前は、度重なるショックで、頭の中がこんがらがっている。だからお前は秩序を求めている。何でもいいから、秩序となるものを、律となるものを求めている。違うか? ひょひょ」
「……」
「自覚はしておらんようだな。おまえ自身、その兆しを持っているのだぞ。お前が普段頭の中で作り出す空想の世界が、イーブルマインドに触れたら最後、その世界は具現化され、たちまちお前を飲み込んでしまうだろう――」
背筋を、冷や汗が滑る。
「そしてお前は、色々と考え込むクセを持っている。考えれば考えるほど現実が見えなくなっていく、そういう奴だな、ひょっ」
「私の空想の世界が、私を飲みこむ? そんな馬鹿なことが――」
「この星では、何でも起こりえるのだ。ひょひょひょ。あのイーブルマインドのカタマリが意思を持つ事も出来たくらいだからな。お前が頭の中で作り出している世界が実体化することも珍しい事ではないのだ。もうわかっているだろう?」
いるはずが無いものが作り出される。自分の中にしか存在しないものだからこそ、自分にしかその価値はわからない。リバーの作り出したトールボーイ、サイコハウスの連中が生み出した金星人、記憶の谷……。他の者から見れば異常な存在なのに、作り出した当人から見れば、自分にとってなにものにも変えがたい存在。
「ああ、わかっているとも。だが私はそんな連中とは――」
「スペーサー、お前が何者であるかを示すただ一つの柱は、お前の行動次第では、簡単にへし折れてしまう。この意味はわかるか?」
スピリットマンはいきなり話題を変えた。
「その柱がへし折られたとき、お前の存在も、いや、ライカの存在も消えてしまう。これだけ言えばわかるだろう? お前が『お前』であること、それが今のお前が持つただ一つの確かな柱だ。その柱をどう扱うかは、お前にしか考えられんことだ。司令塔殿、ひょひょひょ」
スピリットマンは、笑いながら消えていった。
「私が私であること――確かに私は名も姿も持っている。それは間違いない」
呟いている自分。
「だが、私は現実には存在しない、架空の人間。存在する人格同士のバランスが崩れれば、私だけではない、彼すらも消えてしまう……。所詮はもろい楔の存在だ。だが」
私がスペーサーである事は間違いない。人格達だけではない、彼にとっても、私は司令塔なのだ。それだけは、間違いない。これが、私の持つ、唯一の律だ。