13:善人と悪人と 1
完全な善人が誕生した。
善人は不安定のため、瓶に入れて保管する。
「……」
ロケットの操縦室の床の上に、小さな瓶が置いてある。
その瓶の中には、この調査隊のクルー・機関士のヌーンが詰められている。
手のひらに乗るほど小さな瓶の中に人間を詰めるなど、普通ではありえないことだが、メディスンマンにしかできない技術を使ったのだろう。
瓶を持ち上げてみる。中のヌーンは特に表情を変えない。どこか虚ろな顔で、宙を見つめたままだ。
真っ白な布にはしみがつきやすいし、真っ黒な布には白い汚れが目立ちやすい。それと同じように、こんなふうに瓶につめて、イーブルマインドをシャットアウトしているんだろう。外からの刺激を決して受ける事がないように。
――善人は染まりやすいと。悪に陥りやすいと。
彼はそう言っていたっけ。
彼なりの解釈かと、その時は思ったけれど、瓶入りヌーンを見ていると、彼の言葉が間違いではないと感じられてくる。イーブルマインドに満たされたこの火星で、その影響が少ない場所といえば、このロケットくらいしかないだろう。そして、瓶につめて外気に晒されないようにすれば、完全な善人は悪に染まる事もなくなる。どうせならメディスンマンたちが直接ロッジで保管すればいいのに。
瓶の中のヌーンは、瓶越しに自分を見つめる僕が眼中に入っていないかのように、視線を宙にさまよわせる。何も見えていないのか、それとも何も見たくないのか――
わからない。
虚ろな表情からは、何も読み取れない。怒りも、悲しみも、喜びも、何も――
わかるのは、瓶の中で、ただ存在しているだけ。
完全な善人として。
火星人の悪意・イーブルマインドに満たされたこの星で『完全な善人』といわれても、いまいちピンと来ない。悪意が支配するこの星にいるだけで、何を持って善悪の判断をするかすら今の僕にはわからなくなっている。しかし、ヌーンが完全な善人だといわれているからには、彼は『完全な善人』なのだろう。
記憶の谷で見た町長屋敷で、母親のトラウマに苦しんでいたあの場面が思い浮かぶ。耐え難いほど苦しく、忘れてしまいたいはずの記憶だったのかもしれない。
その時のヌーンの表情を、まだ僕は覚えてる……。
あんなトラウマにまた触れるくらいなら、この瓶の中にいるほうが、ずっといいのかもしれない。
完全な善人として。
瓶を床にそっと置いて、僕は去り際に振り返る。
「幸せそうだね」
瓶の中で、ヌーンが、首をかしげたように見えた。