第1章 part2
スペーサーは欠伸をかみ殺しながら、カルテの整理をしていた。
この病院の医師の中では唯一の若手であり、先月、研修期間を終えた新米の医師である。新米と言っても熟練の医師に相当するほど腕は良い。ただ、干渉系の能力を持つゆえに、少々不便な生活を強いられている。金属製のものに素手で触れられないので、家具や道具を非金属製のものに取り替えるか、どうしても使わねばならない場合は手袋をはめている。うっかり素手で触れてしまい、メスやパソコンを駄目にした経験があるのだ。《捕獲屋》に対して隙の出来やすい事務作業は、連中の奇襲に備えて素手で行うので、鉛筆かボールペンを使い、診察の際には手術用の手袋をはめている。それ以外では取り外ししやすい手袋を使っている。手術用のそれは細かい作業には向くが、取り外ししにくいのだ。
眠い目をこすりながらの事務作業の最中、カルテを運んできた助手が、スペーサーの背後に音もなく近づいてきた。そして何かを握り締めた手を振り上げて素早く下ろし――
バキン!
スペーサーの首に刺さるはずだった、麻酔の注射器が、プラスチックのクリップボードに阻まれた。
「仕事の邪魔をしないでもらおうか」
椅子に座ったまま、首の後ろへクリップボードを突き出した姿勢で、スペーサーは冷静に言った。助手は逃げ出そうとするが、それよりも早く、スペーサーがデスクの金属文鎮に触れる。文鎮は水あめのごとく伸び、助手の足をぐいっと掴んだ。
「さっさと失せろ、《捕獲屋》」
悲鳴を上げる《捕獲屋》を、彼は容赦なく、三階の窓から放り出した。
「全く、院内にまで入り込んでくるとは。院内の安全対策をさらに強化するように、院長に申請しておこうか……」
欠伸した後、彼は部屋の窓を閉めた。
「頼まれたもの買ってきたよー」
医院の個室のドアが勢いよく開いて、ヨランダが顔を突っ込んだ。その手に、コンビニの袋を持っている。袋の中には、サンドイッチやらパック飲料やらが入っている。
「って、いないじゃないの」
ヨランダは部屋をきょろきょろ見回した。そして、ベッドの側に歩み寄る。
「あらま」
ベッドで大の字になって、アーネストが眠っていた。が、気配を感じたのか、目を開ける。眠そうな目で、彼女を捉えた。
「……あん?」
「あんた、なんでここで寝てるの」
ヨランダの言葉に、アーネストはベッドに寝転がったまま答えた。
「いーだろ、別に。眠いんだ」
その眠そうな目がヨランダの持っている袋に移ると、彼はぱっと起き上がり、喜びで目を大きく開けてキラキラと輝かせた。
「それ、食いもんだろ? 俺に買ってきてくれたのか?」
「何バカなこと言ってんの! これはスペーサーに頼まれたのよ、買い物する時間がないから代わりに買ってきてくれって。で、肝心の本人はどこ行ったの」
ヨランダはこの病院でアルバイトをしている。アルバイトといっても、要は病院の雑用係だ。受付の手伝いもするし、院内の掃除もする。時には医師に頼まれて買い物に出ることもある。
袋の中身がもらえないとわかったアーネストは、むっと不機嫌そうな表情になる。
「診察だろ」
「あらそう」
ヨランダはすっと息を吸い、
『じゃ、戻ってくるまでに、あんた出てってよ。じゃないとせっかく買ってきたものが、あんたの胃袋の中に入っちゃうしね』
彼女の言葉と同時に音波が発され、アーネストは思わず耳を塞いだ。
ヨランダの能力は音波系である。声や吐息と共に特殊な音波を発する能力で、音波の強さ次第では人の脳を簡単に破壊することも可能である。変身系についで数の多い能力であるが、意図せずとも音波を発してしまう恐れがあるため、音波系の能力者は幼少の頃から自身の能力コントロールを行っている。
「やめろっ!」
『じゃ、出てって』
また脳を刺激され、こりゃたまらんとばかりに、アーネストはジャケットを引っつかみ、窓から飛び降りる。くるりと宙返りして駐車場に降り立ち、彼はそのまま帰路についたのであった。
通りの大時計は、昼の十二時を指したところだった。
空っぽの胃袋を抱えたまま、アーネストは歩いていた。
「くそー……。そういえば、朝飯も食ってなかったよなあ」
獣が吠えるごとく、彼の胃袋は食料を求めて激しく鳴った。ジャケットのポケットを探ってみるが、財布を忘れてきたようで、入っていたのは銅貨が一枚だけ。
「これじゃ何にも買えやしねえなあ。せめて銀貨なら――」
いつも立ち寄る店の、日替わり定食が食べられるのだが。
今日は一体何のメニューかと、献立を想像しながら、近道のために路地裏へ入る。そこは《捕獲屋》が昼でも多数出没するため、よほど護身術に自信のある者以外、住人は足を踏み入れることがない。
日の光がほとんど差さず、道の脇には汚水の流れていく細い溝がある。アーネストは歩きながらも、《捕獲屋》の襲来に備えて、神経を研ぎ澄ましていた。
「!」
ぴた、と止まる。
《捕獲屋》の気配と、もう一つの気配。能力者の独特の気配とは違う。感じ取ったことのないものだ。前方から来る。アーネストは前方を睨んだまま、身構える。
急いだ足音。走っているらしい。だが《捕獲屋》は足音を立てない。ではこの足音の主は、能力者だろうか。
「……てぇ〜」
どこか情けない声が聞こえる。これは子供の声である。
「たすけてぇ〜」
こんな路地裏を通る子供なんかいるのか、とアーネストは訝った。子供がこんなところを、例え昼間とはいえども通ることなどありえない。命知らずにも程がある。だがその声の主は、間違いなく子供のものだった。なぜなら、彼の前方から、一人の少年と、その少し後ろを《捕獲屋》が走ってきたのだから。
少年は、必死で走っていたが、何かにつまずいて転んだ。そして《捕獲屋》たちは、起き上がろうとする少年に、一斉にとびかかって――
こなかった。
鈍い打撃音と、何かがゴキリと折れる音が何度も聞こえたと思うと、最後にバタバタと何かが倒れたような音が聞こえた。
少年が恐る恐る振り返ると、先ほどまで彼を追っていた《捕獲屋》たちは皆、首の骨を折られて事切れており、その傍らに《捕獲屋》を倒した男が立っているのが目に入る。
「よお、怪我ねえか?」
《捕獲屋》を倒した男・アーネストは、少年に問うた。そのついでに少年を観察する。
少年の服装は、この地区内では見ることの出来ないようなものであった。走りにくそうな皮革製の靴に、純白のワイシャツ、紺の背広と半ズボン。肩まで伸びた黒髪を首の後ろで束ねている。彼の体からは嗅いだ事のない匂いがかすかに発せられている。だが、心地良い匂いである。第五地区の住人の匂いとは違う。この地区の人間は、その環境ゆえに、ある匂いがどうしても抜けないのだ。変身系の能力を持つアーネストは、鼻が人一倍利くのである。少年の奇抜な服装と、その心地よい匂いを嗅ぎ分けた上で、この少年が別の地区の人間だと判断した。
一方、目に涙を浮かべた少年は、倒れている《捕獲屋》と、アーネストとを交互に見る。何が起こったのかわからないようだ。
「お前、他の地区の奴だろ?」
アーネストは言った。少年は、びくっとしたが、こっくりとうなずいた。それからまた、《捕獲屋》とアーネストを交互に見る。
やがて、事情が飲み込めてきたのか、体を震わせた。
「あ、ああああ……」
「あん?」
アーネストは少年の側に屈み込んだ。少年は震えていたが、やがて気を失った。
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