第6章 part2
燃え上がるモノは、氷雪と紅蓮による激しい戦いの末に、冥府によって、闇の中へ封印された。だが、冥府の傷口を喰って直接冥府の力を取り込んでいるため、そう長い事封印は持ちそうにない。燃え上がるモノが得た力の大半は紅蓮が何とか消耗させたが、それでも冥府の力を直接取り込んだ以上、ただの獣や《忌まわしいモノ》をはるかに上回る力を得ている。封印を食い破ることもたやすいはずだ。
――一刻も早く回復させて目覚めさせねばならぬ。
冥府は、獣や《忌まわしいモノ》の数が減っているのを好機ととらえ、傷の回復を開始する。紅蓮と氷雪は、燃え上がるモノとの戦いで《カリビト》も魂も激しく消耗しすぎ、眠って力を回復させるしかなくなってしまった。だがただ眠るだけではだめなのだ、冥府が直接力を送ってやらねば回復は早まらない。結局、冥府は己の傷口と《カリビト》と魂の三つに、力を送ることになった。封印も可能な限り強固にしているが、これ以上力を封印に割くわけにはいかない。《意思》に命令された通り、傷口の回復が最優先だからだ。
冥府はふと、言葉を漏らす。
――《意思》はなぜあの魂を繰り返し我が体内へ呼び戻すのか……。
冥府が気になる事は、《意思》が何度もヨランダを呼びよせている事だ。《意思》がどんな考えに基づいて彼女を冥府に呼び寄せているのか、冥府にはさっぱりわからない。《意思》が何か行動を起こす時はちゃんとした考えがあっての事だが、こればかりは、冥府にはわからない。《意思》が特定の魂に固執した事など一度もなかったからだ。同じ冥府に近しき魂であるというのに、《意思》はヨランダに固執している。氷雪はわけあって冥府にとどめねばならないが、ヨランダは違う。一度冥府の獣によって傷つけられたとはいえ、ちゃんと傷を癒して冥府の力を失わせ、生者の世界に戻した。だがそれ以降も《意思》は彼女を何度も冥府に引きずり込んできた。冥府はヨランダを、転生させるべきと判断したのだが、《意思》はそれを止めさせた。
――あの魂に《意思》は未練を持っているのだろうか。
ヨランダを冥府に留めておきたいのか、それとも早く転生させようとしているのか。どちらにせよ、《意思》は彼女を何度も呼び寄せて何かさせようとしているのだろう。あるいは何かを見せようとしているのだろうか、冥府でこれから起こることすべてを。
冥府は、それを望んでいない。《意思》の命令一つで、生者の世界と冥府の均衡が崩れてしまうかもしれないからだ。
――あの魂が喰われてしまえば、奴は生者の世界の力も取り込むことになる。奴を完全に滅することができるのは氷雪だけだというのに……。これ以上力をとりこまれてしまっては、何も手が打てなくなる……。
燃え上がるモノを完全に封印することは、今の冥府では出来ない。どうしても、回復に力を注がねばならない。さらに、燃え上がるモノに食われてしまった分力は失われている。冥府自身も消耗しているのだ。
――《意思》は何を考えているのだろうか。
冥府にとって、創造主たる《意思》は絶対たる存在。その命令に逆らう事は決して許されない。だから《意思》が何を命じようとも、冥府はそれに従うしかないのである。その命令の内容がどんなに理不尽なものであろうとも。
――そう、どんなに理不尽なものであろうとも、我はそれに従うのみ。
冥府にとって、《意思》の命令は絶対。それに逆らう事は、決して許されないのだ。
冥府の傷口。
燃え上がるモノに食われた傷口は、強い力を注ぎこまれて、徐々に回復していく。冥府の獣や《忌まわしいモノ》が近くにいないので、安心して回復に専念する事が出来る。これまで傷の回復に十分な力を注げなかったのは、冥府の獣や《忌まわしいモノ》が生者の世界へ逃げる新たな出口を作るのを防ぐために冥府全体に強力な膜を張り巡らせていたからだ。傷口から逃げる獣は紅蓮が残らず狩るとはいえ、たまに取り逃してしまう事もある。だが今は違う。燃え上がるモノが己の糧として獣たちを片っ端から喰ったので、傷口には冥府の獣や《忌まわしいモノ》はよりつかない。近づく者や逃げ出す者がいなくなったおかげで、傷の回復に力を注げる。
――傷の回復を急がねば……!
傷口の回復は冥府の考えていたより、早く終わりそうだ。
燃え上がるモノが封印を食い破るよりも前に、傷口をふさいでしまわねばならない。冥府は可能な限り、傷口に多く力を注いでいった。傷口は光に包まれ、光に包まれた箇所から少しずつふさがっていく。
冥府の奥底。
深い深い闇の中で、《カリビト》が眠りについている。その不気味に脈打つ球体の周囲は青白い光に包まれている。冥府が力を送って回復させているのだ。だが、消耗は激しく、まだまだ眠りから目覚める様子はない。脈は弱弱しく、停止寸前の心臓のようだ。冥府はその脈を回復させるべく力を送り続けている。
――欠けている紅蓮の記憶……。《意思》が命じねば、戻すことは出来ぬ。
脈は強くなったり弱くなったりを繰り返していたが、徐々に安定し始める。だが、目覚めるにはまだ力が足りない。燃え上がるモノとの戦いで消耗したぶんを取り戻すには、まだまだ冥府が力を送らねばならない。さいわい、冥府の獣や《忌まわしいモノ》による邪魔が入らないので、回復に力を注げる分傷口は順調にふさがっている、傷口が完全にふさがりきったら、《カリビト》にさらなる力を送る事が出来る。目覚めを早め、燃え上がるモノに対抗できるようにしなければならない。封印が長くもたない事を、冥府は知っているのだから。
――急がねば。あの封印を完全に破られる前に、回復させねば!
不気味に脈打つ球体は、少しずつ冥府の力を送られ、回復し始めている。だが目覚めには、まだ遠かった。
――紅蓮の欠けている記憶をもとに戻した時、氷雪にとっての本当の戦いが幕を開けることになる。事実は伝えたが、奴が受け止めきれているとは思えぬ。
ため息にも似た音が、冥府の奥底にひびいた。
――そして、紅蓮自身もそれを受け止める事は出来まい……。
魂の樹木。
樹木の放つ青白い光は弱まっている。その代わり、氷雪に送られている力は強くなっている。紅蓮と同様、冥府には、氷雪に目覚めてもらわねば困るのだから、回復を早めているのだ。
青白い光を放つ水晶の中で、氷雪は深い眠りについている。今は、夢は見せていない。今のところは回復させるのが先なのだ。目覚めの時が来たら、その時に告げればよい。少しでも長く眠らせて回復を早めねばならないのだ。
――奴を滅するには、回復させるだけでは足りぬ……。
氷雪は目覚めてもただの魂でしかない。浄化の力を授けたとはいえ、魂の状態では反動があり、冥府の力を吸収してしまい、獣に変わるリスクがある。氷雪に《カリビト》と同じくらいの戦闘能力を持たせなければ、あの燃え上がるモノには太刀打ちできない。あの燃え上がるモノと対等に戦うには、どうしても死神と同化させる必要があるのだ。《カリビト》は、あの燃え上がるモノと戦う事は出来ても、とどめをさすことは出来ない。完全に滅する事が出来るのは、氷雪だけなのだ。紅蓮もヨランダも死神も、それが出来ない。
――死神の同化も長くは続かぬ。もし、戦いが長引いて同化が解けてしまえば、氷雪も同じ道をたどるであろう。
冥府は言葉を漏らした。
――そうなれば、この冥府と生者の世界との均衡は崩れかねない事態に陥るかもしれぬ。《意思》はそれを知っているはずではないだろうか……。
青白い光を放つ水晶の中で眠る氷雪は、冥府の考えなど全く意に介さぬ様子であった。深い眠りについた彼は、冥府から力を注ぎこまれ、徐々に体力を回復させている途中であった。だが目覚めにはまだ遠い。死神の同化に耐えるだけの体力を持たせねばならないのだ。普通に歩きまわったりするだけの体力しかないようでは、とてもではないが、同化による激しい消耗には耐えきれないであろう。冥府は、紅蓮よりも氷雪の目覚めの方を望んでいた。だからこそ彼を目覚めさせるべく、紅蓮に注いでいるよりももっと強い力を、彼に送っているのだ。
――氷雪。一刻も早く目覚めるがよい。貴様が冥府から転生するには、あの敵と対決し、貴様が奴を滅する以外に、方法は無いのだからな。
冥府の入り口。ケルベロスがあくびをしている。
紅蓮が狩りに連れて行ってくれないので、退屈しているのだ。
紅蓮が消耗しすぎて眠っている事は知っている。しかし、狩るべき獣が激減し、生者の世界に逃げ出そうとする者がいない今、ケルベロスは本当に暇でしかたがないのだった。いつもなら、紅蓮が狩りにつれて行ってくれるのに、眠っているせいでどこにも行けやしない。
三つ首の番犬は、もうひとつ大きなあくびをしてから、背伸びをする。たまに魂が訪れると、炎を吐いて浄化してやる。浄化された魂は自ら魂の樹木へ向かって飛んでいく。決まり切った作業は退屈なもので、こんな時こそ狩りに行きたいのに……冥府は紅蓮を眠らせている。
「クゥン……」
不満をあらわにした小さな鳴き声だが、誰も聞いてはいなかった。紅蓮が目覚めて召喚するまで、ケルベロスはここから動けないのだった。番犬だからこそ、この冥府の入り口をしっかり見はらねばならない。それはわかっているのだが……。
「!」
不意にケルベロスは全身の毛を逆立てた。何かを嗅ぎつけようとするかのように鼻をヒクヒクさせる。
においがある。
獣の臭いではない。《忌まわしいモノ》の臭いに近いが、それよりさらに嫌なにおいだ。あまり吸い込みたくない、鼻のひん曲がりそうなにおい。ケルベロスは尻尾を股の間にはさみこんでしまう。どんな相手にもひるまない冥府の番犬が、この臭いを吸い込んだだけで、たちまち怯えてしまった。
このにおいは、あの、燃え上がるモノのにおいだった。
ケルベロスは、小刻みに体を震わせた。あれは、紅蓮との激しい戦いの末、封印されている。それはもう冥府から知らされているので知っている。だが、ケルベロスは、野生の勘とでもいうべきものをちゃんと持っていた。その野生のカンは、冥府の番犬に告げた。
アレハ、オソロシイモノ。チカヅイテハ、ナラヌモノ。
冥府の番犬は、本当に怯えていた。冥府が出動命令を出しても、おそらく今のケルベロスは拒否したであろう。それほどに、怯えていたのだ。
アレト、タタカッテハナラナイ。アレヲウチヤブレルノハ、ワタシデハナイノダ。
においは少しずつ強くなってくる。遠くから漂っているはずなのに、強くなるそのにおい。ケルベロスは大きく身震いした。
燃え上がるモノは、封印を中から破ろうとしているのだ。冥府は力を回復のために使っている。封印にはそんなに使っていないぶん、たやすく破られてしまう。ケルベロスはそれを知ってしまった。だからこそ、番犬は余計に怯えてしまった。
メイフ、イソイデクダサイ。アノフウインヲヤブラレテシマッタラ、ワタシデハ、タチウチデキナイノデス。ワタシガタタカウベキアイテデハナイ、ヤツニフサワシイモノナラバ、ホカニモイルハズデショウ。イソイデ、ソノアイテヲカイフクサセテクダサイ。ワタシデハ、タタカエナイ……。
冥府の番犬は、縮こまってしまった。三つの首がいっぺんに上を向き、助けを求めるかのようにその口からか細い鳴き声が漏れた。本当に、ケルベロスは助けてほしかったのだ。燃え上がるモノに対抗できないから……。
冥府の音が、降ってきた。まるで番犬の鳴き声にこたえるかのように。ケルベロスをなだめた冥府だが、番犬の不安をぬぐい去ることは出来なかった。相変わらず、ケルベロスは尻尾を股の間にはさんだまま、体を小刻みに震わせている。
また、においが強くなった。
――封印は長くは持たぬ。だが貴様が戦うのではないぞ、ケルベロス。戦う者は、まだ目覚めさせるわけにはいかぬのだ、消耗が激しすぎるのでな。
「クゥン」
――回復には力を注がねばならぬ。今は、我が体内の傷口をふさぐのが最優先。それが完了した後に奴らを目覚めさせるべく本格的に力を注ぐ。それまで封印をもたせておくことは出来るはず。
できるはず、では説得力がない。だが冥府自身も、そうとしか言いようがないのだ。封印はなるべく長くもたせておきたい。傷口の回復が終わったら、すぐ紅蓮と氷雪にさらなる力を注ぐつもりでいるのだから。今のままの力では目覚めに時間がかかりすぎる。傷口の治療が終われば、それに割いていた力を二人に注ぎ込む事が出来る。それまで、封印をもたせることができれば……。
冥府自身も、本当は不安であった。
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