悩み



 胃が痛い。

 最近の、スペーサーの悩みはこれである。
 しょっちゅう耐え難いまでの胃痛に襲われ、それが日に日に痛みを増してくる。一度や二度ではない。一日に何度も、特にストレスを感じたときには強い痛みが走る。薬を服用しているものの、治る気配はいっこうにない。
 気絶しかねないほどの痛みを抱えながら、診察を受けたところ、多大なストレスによる胃炎であると診断された。ストレスを普段から溜め込みやすい環境下に置かれているようだから、環境を変えてはどうかと医師から言われた。
 キリキリ痛む胃を抱えて帰路についた彼の頭の中には、ストレスの原因がしごくはっきりと浮かび上がっていた。
「環境など……変えられるはずがないだろうが」

 帰宅したあと、部屋でパソコンを立ち上げる。大学は夏休みを迎えているし、彼の担当する講義には集中講義がない。かわりに、学会の研究発表などでこの時期は忙しいのである。助教授の地位についている彼もまた参加する必要があった。元々彼はマイナーなテーマを研究してきているので、発表も研究者からの質問もすぐに終わってしまうことが多い。
 教授会からメールが届いている。今回の発表会の日時と開催場所を伝えるものであったが、それは、彼の家からかなり遠いところであった。発表会の開催期間はわずか二日だし、行った事のない場所ではないのだが、行きと帰りに半日以上かかる。開催の二日前には現地へ着いておかねばならない。学会の開催日時は今から一週間後である。
 ここでスペーサーはほっとした。ストレスの原因たる、あの二人からしばらく離れられるからだ。
 その夜、学会のために留守にする事を二人に伝えるが、別段二人は残念そうな顔にならない。が、代わりに目を輝かせた。帰りがけに買ってきてくれる土産を期待しているのだ。学会へ行くのであって、観光に行くんじゃないんだぞ、とスペーサーは忌々しそうに心の中で呟いた。長い付き合いなのだから、二人が土産としてほしがりそうなものは、見当がついている。アーネストはその地の名物料理だし、ヨランダは(貴金属とは言わぬにしても)可愛らしいアクセサリーや小物を好む。学会から帰って、土産がないからといって家からたたき出されるのは嫌なので、彼は仕方なしに土産を買ってくるのだが、それを選ぶのにもかなり苦労させられているのだ。
 また、胃が痛んだ。

 さて、ちゃんと痛み止めも持参して学会へ出席したスペーサーだが、壇上に立って発表している間、内心、不安だった。別に発表に緊張しているわけではない。大勢の前で話をすることには慣れている。彼が不安に思っているのは、留守中の自宅なのだ。綺麗好きなヨランダはちゃんと掃除してくれているだろうが、問題は部屋を散らかしっぱなしにするアーネストだ。隅々まで徹底的に掃除しても、わずか二日で元の雑然とした部屋に戻ってしまう。
 だが彼が不安に思っていることは、彼の留守中に勝手に部屋に入られることだ。立ち入り禁止にしてあるのだが、アーネストがそれを守ったためしはほとんどない。彼が勝手に部屋に入る理由はいたって単純。部屋においてあるパソコンを使ってインターネットサイトを見るためである。しかもちゃんと履歴を消してしまうので、どこを見たのか全く特定できない。以前、アーネストがドジを踏んで研究データを全部消してしまったことがあったが、それを除けば、何度もアーネストはスペーサーの部屋にこっそり出入りしている。彼が使ったあとでパソコンの電源を消し忘れていることとマウスが動かされていることから、そのことはすぐわかってしまう。
 痛み止めの効き目が切れてきたのか、また胃が痛み始める。
(ああ、駄目だ駄目だ、余計なことを考えては。発表に集中しなければ……!)
 原稿を持つ手が震え、額に汗が浮かんだ。

 学会へ出る前よりも、発表を終えて大量の土産を抱えて自宅に帰ってきたときの方が、胃の痛みが増していた。壁に手を当てて体を支えなければ立っていられないほど。
 やっとのことでドアを開ける。そして、両手にさげている特大サイズの袋を玄関に置いたところで、リビングのほうから、ヨランダが顔を出す。
「あ、おかえりなさ〜い」
 続いて、アーネストが上の階から降りてくる。重い袋をさげて帰ってきたスペーサーよりも先に、袋のほうに目をやった。
「で、何買ってきたんだ?」
 つかつかと歩み寄って、重い袋を二つとも、いとも軽々と持ち上げる。くたくたになって帰ってきた自分よりも土産の方を重要視するところは毎度のことであったが、なぜか今回ばかりはひどく腹が立った。胃痛を抱えていたせいもあるだろうが、ついにスペーサーは堪忍袋の緒を切らした。
「いい加減に……!」
 その言葉は途中で止まった。喉の奥から何か熱くて苦いものがこみ上げ、目の前がゆがんだように見えたと思った途端、彼は吐血していた。
「あ……」
 ヨランダとアーネストが、同時に彼を見た。
 スペーサーはめまいを起こして、床に倒れた。遠のく意識の中で、名前を呼ばれたような気がしたが、それもやがて聞こえなくなった。

 目を開いた。上から降り注いでくる光の眩しさに思わず目を細める。自分の体がどこかに寝かされているのが分かる。
 意識がだいぶはっきりしてきた。誰かの声が耳元で聞こえる。気がついたみたい、これなら大丈夫だ。そう聞こえた。
 起き上がろうとすると、腹がひどく痛んだ。いつもの胃痛ではなく、なにかちくちくと刺されるような痛みである。
「起きないほうがいいわよ」
 枕元にきたのは、ヨランダである。その肩越しに、アーネストの顔が見える。
「ここは……」
「病院に決まってるわよ。だっていきなり血を吐いて倒れたんだもの。慌てて病院に担ぎ込んだら、胃炎がひどくなってたって。アタシたち知らなかったわ、あなたがそんなにストレスためてたなんて」
 心配してくれている。ひょっとしたら、二人とも、自分にストレスを溜め込ませてきたことをやっと自覚したのかもしれない。スペーサーは思った。
 が、
「きっとストレスの原因は閉じこもりの研究生活にあるのよ。アタシたちは別にあなたにストレスなんか感じさせてないはずだし。何かあったら相談にのったげるから」
 全然自覚していない。
 怒りで、ベッドの上に飛び起きたスペーサーは口を開きかけるが、腹の痛みで遮られた。
「別に無理して起きるこたねえだろ。胃をかっさばいたんだからな。それよか、退院したらまた部屋掃除してくれよ。あまりの雑さに、ヨランダじゃ手がまわんねえんだとよ」
 入院患者を前に平然と言うアーネスト。スペーサーはちくちく痛む腹を押さえつつ、痛みと怒りで歯軋りした。
(こっ、こいつらはぁ〜……)
 この二人と一緒に住んでいる限り、スペーサーが二人から離れていようがいまいが、この胃の痛みからは逃れられそうになかった。


マイタケさんのリクエスト「プラネットライカ」か「クーロンズゲート」の小説を、とのことで
よく知っているライカの小説にさせていただきました。
影の主役たる(笑)スペーサーを、主役として出すか脇役として出すか、
ギャグ話にするかシリアス話にするかに迷いました。
結局、スペーサーの苦労話になってしまいました(汗)

リクエストありがとうございました!