故郷を目指して



「めんどくせえ魔物どもだったな」
 刀に付着したどすぐろい嫌な臭いのする血を丁寧にぬぐって、鞘に収めた。同時に、体から発されていたすさまじい殺気もおさまり、血のような赤だった瞳の色はいつものルビー色に戻る。
 ディンの周りに散らばった、狼の姿をした小型の魔物たちは、いずれも急所を正確に斬られて事切れている。
「フー、だいぶくたびれちまった。もう歳だからなあ」
 今年で十九歳。平均寿命がわずか十七歳という、極めて短命の種族なのだから、他の種族から見るとその体は若くても中身はヨボヨボの老人とあまり変わらない。いつ死んでもおかしくない。
「さて、行こうか」
 ディンは東に向かって歩き始めた。

 人間と魔族の間で起こった《トゥアラの戦い》は、条約による戦争終結から八年程経過しているにもかかわらず、その爪痕を残し続けている。草がぼうぼうに生い茂っている、何の変哲も無い平原にさえ、人骨がいくつも転がっている。旅先で行き倒れたのではなく、全て戦争の犠牲者たちだ。魔物が死体を食い荒らし、骨をしゃぶってもなお、平原に転がるむくろの数は減らない。
 この場所は、かつての激戦区。さび付いた武器や防具、弔われずに放置されている無数のむくろ。それらを餌にしている魔物。
 トゥアラ平原を横切るには一週間はかかるだろう。無数の死者に見られ、魔物に新鮮な肉と血を狙われながらの旅は、生易しいものではない。
「けっ。死体なら、うんざりするほど見てきたぜ」
 ディンは、はき捨てるように呟いて、平原に足を踏み入れた。彼はこの平原を越えてさらに東へ進まなくてはならない。その命が尽きる前に、戻らなければならない場所があるから。
 しばらく歩いていく。目の前には草地が広がっている。道もなければ道しるべも無い。魔物の気配は無い。草を踏む柔らかな感触に混じって、何か固いものを踏んでいる感触も伝わってくる。それは石ではないが、確かめる必要は無い。
 空はうっすらと曇っている。やがて、背後からうっすらとオレンジの光が差してきたので、後ろを向いてみた。わずかな雲の切れ目から夕日がこちらに光を投げかけているのが見える。
「もう夕方か」
 フウと息をはく。そろそろ休む支度をしたほうがいいだろう。だが、曇りの風は少し湿っぽく、雨の臭いがした。今夜から明日にかけて雨が降るかもしれない。ちょうどいいところに、キノコのような形の出っ張った岩を見つけたので、その下で休むことにした。雨風しのげればそれで構わない。
「んあー、くたびれたあ」
 どっかと岩の下に腰を下ろして、はーっと派手にため息をついた。
「やっべ。最近こいつが口癖になっちまったぜ。でもしょうがねえか」
 水筒の水を一口飲み、残り少ない干し肉を齧る。食べている間も周りの気配を探るが、今のところは何もいないようだ。吹いてくる風は湿気を含んだものに変わり、空気が重くなる。オレンジの光は少しずつ消えうせ、少しずつ辺りに闇の帳がかけられていく。夜間は魔物の天下。野宿していても気をつけねばならない。眠っている間に囲まれて朝を迎える頃には骨と皮ばかり、という無惨な死をとげないためにも。
(あと、どのくらいだ?)
 灰色のジャケットの前をあわせ、ディンは思う。
(オレの故郷までは、どのくらいだ?)
 既に《トゥアラの戦い》によって滅び去った、己の故郷。戻っても彼を出迎えるのは無数の石塔と瓦礫の山だけ。目を閉じれば、倒れた家屋の下敷きになった兄姉の最期の声と、人間の兵士に切り殺された母親の最期の姿すらも鮮明に思い出せる。血のむせ返るような臭い、爆ぜる炎の音、ガラガラと崩れていく納屋の残骸。何もかも、まるで昨日のことのように思い出せる。そしてそれを思い出すたび、彼はブルッと身を震わせる。
 それでも、ディンは戻りたいと思っていた。二十歳の誕生日を迎える前に。

 雨の臭いが強くなると、同時にディンは周りの気配を探る。刀を腰から外し、鞘ごと握り締めて、いつでも抜刀できる体勢を整える。何も気配は無い。徐々に周囲は闇に閉ざされるが、夜目の利く魔族ならまだ大丈夫。周囲の景色がはっきりと見える。風でそよそよと草が揺れるほかには、何もない。魔物の気配もない。魔物の中には気配を消せる者もいるので、何も察知できないからといって、油断は出来ない。
 辺りがほとんど闇に閉ざされてしまうと、ポツポツと雨の降る音が聞こえてきた。やがてポツポツという音はサーサーという音に変わる。ディンの座っている岩は、ちょうどいい屋根の役割を果たしてくれている。岩の縁からポタポタとしずくが垂れていく。岩の下はちょうど緩やかな坂になっているので、雨が水溜りを作ることも無い。
 ディンはジャケットの前をもう一度合わせなおし、刀を持ち直す。そしてそのまま目を閉じて、深い眠りに落ちた。

「!」
 目を開けるや否や、ディンは抜刀した。
「ギャオ!」
 前方にいる何かを刀が切りつけ、手ごたえがあった。何かは悲鳴を上げて後退する。いつのまにか雨は止み、薄くなった雨雲の隙間から月の光が辺りに降り注いで周囲を照らしている。先ほど斬りつけたものは、狼の形をした魔物。
 ディンは内心で舌打ちし、ざっと周りの気配を探る。岩の周囲を複数の魔物が取り囲んでいる。数は六体と言ったところ。気配を消せる連中ではないが、数を頼りに襲ってくる。疲れているときには厄介なタイプだ。
 ディンは岩の屋根の下から飛び出し、岩壁を背にする。
「オレは寝るのを邪魔されるのが一番大嫌いなんだよ!」
 最初に襲い掛かってきた魔物の急所に刀を深く突き刺し、そのまま絶命した魔物を刀ごと振り回して投げ飛ばす。次に飛びかかろうとした魔物は、振り回されて刀からスッポぬけた死体にぶつかり、ギャンと悲鳴を上げて落ちた。ディンは懐に手を入れて鋼鉄の棒手裏剣を取り出すや否や、体をねじって背後の敵に投げつける。正確に急所を刺し貫かれた魔物は、彼に牙を突きたてることなくそのまま絶命した。
 魔物たちは彼に飛びかかろうとしたが、急におびえた声をあげ、尻尾を股の下にたらした。それもそのはず。戦いの中で魔族たちは人並みはずれた殺気を放ち、瞳の色も血の色に変わる。その殺気たるやすさまじく、気弱な者はすぐ失神し、戦い慣れている戦士ですらも背筋を総毛立たせるほど。群れを成さねば敵を襲えない弱腰の魔物ならば――
 キャンキャンと惨めな鳴き声を上げ、魔物たちは逃げていった。
 ディンはフウと息をはき、刀の血を拭って鞘に収めた。
「最近は疲れがたまりやすいんだ、寝るの邪魔すんじゃねえ!」
 それから再び眠りにつく。今度は、魔物は襲ってこなかった。

 朝日があたりを照らす前に、ディンは起きた。東の空は晴れ渡り、地平線がハッキリと見えるほど綺麗に澄み切っている。雲ひとつ無い空に、薄いオレンジの朝日の光がちょうど頭を突き出したところ。
 ディンは立ち上がると、うーんと背伸びをする。刀を腰に差しなおし、ジャケットの水気を振るう。
「さ、急ぐか」
 太陽の光を目指し、朝露の残る草を踏みしめた。