湿原の夜
「もう十三年も経つのです、そろそろ解いてくださってもよろしいのでは?」
「まだ十三年しか経ってないじゃないか。あんたもユトランドに馴染んできているとはいえ、まだその根っこは異国のもの。まだまだ観察しがいがあると言うものさ」
「……」
魔法樹でつくられた杯に満たされた、不思議な色の古い酒をちびちび飲みながら、ガードナーのリーダーは不満そうな目を向ける。
「いつ私に飽きて下さるのですか?」
「さあねえ。あんたが死んだ時じゃないかね」
相手はクスクス笑った。
「あんたはいつかクランを解散して引退するかもしれないけど、そうしたらここに呼ぼうかと思っているんだよ。本格的に呪いを強化してみるのもいいかもしれないからねえ」
「今も充分呪いは強いものです。私の依存心は月日を追うごとに強くなる一方……」
「まだ弱いよ、坊や。あんたはこの呪いの強さを全く知らないから、強いと感じられるんだろうけどね」
「私はもう三十路前です。坊や呼ばわりはそろそろ止めていただきたい」
「アタシからすれば、坊やだよ。ふふ。たった三十年ぽっちしか生きていないんだから。それに、寿命を延ばそうと思えば、何とかなるものさ。百年くらい生きたらあんたを坊やと呼ぶのを止めてあげるよ」
「そのころにはもう私は年老いておりますが?」
「いいんだよ、それでも、ふふ」
リーダーは軽くため息をついて、空になった杯をテーブルの上に置いた。
「もう一杯どうだい?」
「いいえ、もう結構……」
この酒はいつ飲んでも、一杯しか飲めなかった。酔う事はめったにないのだが、それ以上杯を重ねる気がしないのは口の中や喉に残る独特の苦味のせいだろう。パブで飲む酒とは全く違う苦味だ。しばらく何も口にしたくない。
「では、そろそろお暇させていただきます。おやすみなさい」
「ふふ、おやすみ、坊や」
(だから、その呼び方はいい加減やめてくれと何度も言っているのに……)
移動の魔法陣の力で宿に帰ってきたリーダーは、またため息をついた。
(結局、呪いは解いてもらえそうにない。魔女が飽きるのが先か、このまま私が寿命を迎えるのが先か――)
そのまま彼は眠りについた。
トラメディノ湿原に住む、あらゆる呪術に精通した魔女。ガードナーのリーダーは、十三年も、彼女のかけた呪いに縛られている。まだ少年だった彼に、魔女がかけたものだが、別に魔女を怒らせたわけではない。本来は心や魂すらも支配下において意のままに操る呪いだが、弱めてかけてあるため、魔女への依存心が強くなっているだけ。呪いをかけられてからは、彼は魔女の元へ頻繁に訪れるようになった。そのうち毎晩行くようになり、それが今も続いている。その身に移動の魔法陣を刻まれているので、彼はいつでも、どこにいても、望めば一瞬で魔女の元へ着けるのだ。
リーダーが彼女の元へ訪れる時は、おもに薬を作ってもらったり、古代の術に関するちょっとした情報をもらう。それ以外はただ単に雑談をするか、クランのメンバーには言えない悩みを打ち明ける事もある。魔女に呪いをかけられている事を知られたくないので、出かけるのはいつも夜中だ。
彼としては、魔女に呪いを解いてもらいたいのだが、魔女にそんなつもりは全くない。そのうち彼も半ばあきらめの気持ちは出てきており、むしろ無料で色々してくれるのだからこのままでもいいかもしれないと思い始めていた。そのぶんのツケは必ず払わねばならないだろうけれど。
激しい雷雨の夜。
「おや、ようやく来たのかい」
湿地の魔女は、すでに椅子に座り、二つの杯に酒を注いでいるところだった。ガードナーのリーダーはちょうど、小屋の床に描かれた魔法陣の上に現れたところだ。本当ならば、彼らガードナーはロアルにいるのだが、魔女がその身に刻ませた魔法陣の力は海を隔てた場所にも届くのだった。
「夜分お邪魔いたします。はあ……」
「おやおや、今日はなんだか悩みでもあるようだねえ」
椅子に座ると、リーダーは堰を切ったように話を始める。悩みと愚痴が同時に飛び出す。魔女はじっくり聞いてやり、一言も口を挟まない。そうして長い話が終わるとしばらく小屋の中は沈黙が支配する。外で激しく荒れ狂う嵐の音は、結界の力であまり届いていない。話せるだけ話をぶちまけた相手が落ち着いてから、魔女は口を開くのだった。
一段落。
「やっぱり坊やは綺麗な髪をしているねえ。うらやましい」
特に手入れもしていないのに、脂っけの無い彼の髪は枝毛もくせ毛もない、綺麗なストレートヘアーだ。リーダーは髪を褒められても嬉しくない。武術の腕を褒められるならばともかく……。
「でも、切ってしまったのは惜しかったねえ」
「邪魔になりましたので……」
彼としては、魔女へのささやかな抵抗のつもりだった。昔も、髪を誉められた事があったのだから。魔女がほめた髪をバッサリと切り落としてしまう事で、魔女への抵抗を現したつもりだ。背まで伸びていた髪は、肩あたりまでの長さになってしまっている。動きやすくするためだ、とクランのメンバーには説明した。さいわい、皆は納得してくれた。
「髪などまた伸びるものです」
「それもそうだけれど、今度はあんたが切ってしまわないうちに、『保管』しようかねえ」
魔女の言葉はどこまでが本気でどこまでが冗談なのか、未だにわからない。いつも不気味に笑っているポーカーフェイスのため、リーダーは判断できないのだ。
「それはそうと――」
杯から口を離して、リーダーは問うた。
「前々からおたずねしようと思っておりましたが、貴方は私の何がお気に召したのですか。異国から参った私の言動など、物珍しいのは最初だけ、すぐに飽きてしまわれるでしょうに」
「いいや、飽きないねえ。あんたは十年以上アタシを楽しませてくれてる。それくらいあんたは面白い奴なんだよ。言動は確かに異国のもので珍しいけど、それ以上にアタシを引きつけるのは、あんたの性格そのものだねえ。ちょっと前までは底抜けのお人よしで人の言葉をたいてい鵜呑みにしていた、それこそ本当に子供だったねえ」
リーダーは赤面した。魔女の言う「ちょっと前」が十年以上前を指していることは明らか。
「クランを開いてからはそうでもなくなってきたけどさ、そうやって顔を赤らめるのはちっともかわりゃしないねえ」
ユトランドに来た時はただの世間知らずな少年だった彼も、十年経てば変わるものだ。クランを開く前は旅をしており、色々な事を経験した。クランのリーダーとなってからは、「リーダーとはどのようにあるべきか」と悩み始めた。裏切りにあった事もあるし、自分の判断ミスでクラン壊滅の危機に陥った事もある。紆余曲折の末にメンバーから信頼されるリーダーとして成長し、人を見る目も養われたものの、魔女から見れば根っこは全く変わらないのだそうな。
「やっぱりあんたは、何年経っても変わらない。異国の者は何人か見てきたけど、あんたが一番面白いよ、根っこが一番子供っぽいからねえ。ふふふ」
魔女は笑い、リーダーはまたその顔を真っ赤にした。普段は冷静沈着なリーダーも、魔女の前では子供に戻ってしまい、いいように遊ばれてしまうのだ。
「また私を子供扱いなさる……」
「本当のことじゃないか、何をいまさら照れているんだい? だからあんたを観察するのは面白いんだよねえ。いつまでも、『子供』っぽいところを残しているんだからねえ」
「うっ……」
こうして、今夜もトラメディノ湿原の夜は更けていくのだった。