ある時
バン！
はあっ、はあっ。
激しい動機と息切れ。
背中をくっつけているドアを隔てて、廊下からは、「あら残念ねー」という声が聞こえた。やがて足音が遠ざかっていき、廊下は静まり返る。音を立てないように気をつけて、ドアの鍵穴から廊下を覗くと、足音の主が、巨大な採血用注射器をかかえて廊下を歩き去っていくのが見えた。
ほー、っと安堵のため息が漏れる。
キャサリンを振り切る事が出来た。さすがに、この部屋に入ってくることは無いようだが、それでも、見つかって追いまわされる度、寿命が縮む思いをする。一度彼女に捕まって『採血』された上に、やっと手に入れたばかりの魂を奪われた時の、あの絶望とショックはもう二度と経験したくない。
とにかく、精神的に疲れてしまった。少し休憩しよう。
グレゴリーのショップで手に入れたハーブティーを飲みながら、手帳に、次のターゲットの情報を書き込む。次は、不気味な少女ロストドール。人形がないといつも泣いているが、彼女の姿は少女というより人形そのものだ。また、彼女の裏側にはもうひとつの般若のような顔が付いていて、あの恐ろしい顔に変わった途端、不気味に笑いだすのだ。あれを鍵穴から覗き見た時には心底から仰天し、腰が抜けてしまった。驚愕のあまり叫び声は出なかったものの、腰が抜けて床にへたりこむ音を聞かれ、ロストドールがドアを開ける前に、必死で這って、曲がり角まで逃げのびることができたのは本当に運が良かった。あんな不気味な少女とは近づきになりたくない。だがタマシイを取り返すためには、彼女を誘い出すしかないのだ。ショップでハーブティーと一緒に買った、人形を使って。
ハーブティーの良い香りが、体の疲れを癒してくれる。緊張も次第に解けてくる。手帳を閉じて引き出しにしまう。ちょっと空腹になったのでバナナを食べる。そうだ、後で、いつも腹ペコのネコゾンビに何かさしいれてあげよう。チョコレートが好きだと、初めて会ったあの夜、言っていた。もちろん、グレゴリーがホテル内を巡回する時間がもうじきやってくるから、その後で……。
それまでは、時間つぶしのために、本を読もう。このシリーズ、やっと全巻揃ったのだ。読み終わる頃には、グレゴリーの巡回も終わっているだろう……。
部屋を出る前、鍵穴から廊下を覗く。物音もしないし、誰の姿も無い。遠くで、審判小僧が歌っているのが聞こえてくるだけ。そっとドアを開けて廊下に出ると、すぐ隣の、ネコゾンビの部屋に入る。
「チョコレートだニャ！ これ大好きなのニャ、ありがとうニャ！」
空腹で錯乱状態のネコゾンビ。だが、そのカカオのかおりを嗅ぐとたちまち大喜び。チョコレートを受け取ってむさぼり食うネコゾンビ。それを見ていると、こちらも嬉しくなる。だけど、体のあちこちを縫い閉じられたネコゾンビの体は、いつ見ても痛々しい。縫われている糸の下から懸命に目と口を見開いて、チョコレートをがつがつ食べるネコゾンビは、まだ何か食べたそうだったが、それ以上ねだる事は無かった。
「気をつけるのニャ」
部屋を出る前に鍵穴から廊下を覗いて誰もいないことを確かめ、ドアノブに手をかけた所で、ネコゾンビが声をかけた。空腹が多少おさまったおかげか、錯乱状態が嘘のようだ。（深夜に一度差し入れをした事があったが、その時はあまりの空腹に耐えかねたのか、殴られてしまい、さしいれの金平糖を食べられてしまった。）
「このホテルの住人達の行動パターンをよく観察しておかないと、以前みたいにまた捕まる事になるのニャ」
キャサリンに捕まった時のことを言っているのだとわかった。顔から血の気が引いたような気がした。
「審判小僧は中立だから、タマシイを自分から渡したからと言って、追いかけてくることは無いのニャ。でも、他の連中はそうじゃないのニャ。隙あらばタマシイを取り戻そうと、キミが姿を現すのを狙ってるのニャ。それと、グレゴリーやジェームスにも気をつけるのニャ。どんなに用心しても、しすぎることは無いのニャ」
わかってる。不気味な笑い声をあげながら何かつぶやいている老獪なグレゴリーと、人懐っこいのだがその本性は無邪気とはとても言えぬ悪ガキのジェームス。なるべく接触しないように気をつけてはいるつもりだ。
もう一度、鍵穴から廊下を覗く。誰もいない。そっとドアを開けて廊下へ出、すぐ隣の自室へ滑り込んでドアを閉めた。カチャリとドアを閉めた所で、誰かの足音が廊下に響く。鍵穴から覗くと、グレゴリーが蝋燭と掃除用具を持って、どこかへ向かうところだった。遠くで、グレゴリーの孫ジェームスの笑い声が聞こえる。
ほっと、安堵のため息をついた。
部屋の外に出ること自体が命がけと言ってもいい状態になってきた。タマシイはある程度集まる度に死神にわたしている。だが、取り返した数だけ敵も増えてきて、のんびり廊下を歩く事もままならない。キャサリン、ミイラ親子、カクタスガンマン、カクタスガール……おそらくロストドールもそれに加わる事になるだろう。あの般若のような恐ろしい顔をむき出しにして、追いかけてくるのだろう。
とにかく今日はもう疲れた。もうこんな時間だし……寝よう。
ベッドに寝転がる。上等とは言い難いが寝心地の良い布団に体をうずめると、眠気がたちまち襲いかかってきて、まぶたが勝手に降りてくる。閉じかかった瞼の隙間から、机の上に置かれた蝋燭の炎がゆらめくのが見える。
必ず、このホテルから逃げ出そう……。