人間と悪魔



「あーもう、何やってんのよ!」
 洗濯物を干していたイリーナは、デヴィットに怒鳴った。
「す、すみません……」
 デヴィットが手に持っているのは、イリーナのマント。だがそれは半分に裂けてしまっている。
「あんたは馬鹿力なんだから、力を入れて洗うなって言ってるじゃないの! どうしてくれるのよ、もう!」
「どうするって……」
「わかってるでしょ、縫ってちょうだい!」
「はい……」

「いたっ、また刺した……」
 修復の術が使えれば、とデヴィットはため息をついた。彼は今、イリーナのマントを縫っているところだが、さっきから何度も指を刺している。
(人間て本当にわからないな。こんな事をしてまで物を使いたいなんて……。魔界じゃあ、使えなくなったものは獣に喰わせたか、修復の術できれいに直していたのに)
 人間世界に召喚されてずいぶん経つのに、デヴィットは未だに人間の事がわからない。魔界とは全くかけ離れた常識で行動する人間たち。魔界の常識で人間を見ていると、理解できない事ばかり。自力で魔界に戻れない上にイリーナに彼を魔界に戻す力がない以上、何とかこの世界になじもうと努力はしているのだが……。
 イリーナは、洗濯物を干し終わってから、ぽかぽかと暖かくなってきた岩にもたれて、朝寝している最中だ。デヴィットは彼女の姿を目に留めると、ぽっと頬を赤く染めた。よそ見したせいで、また針で指を刺してしまったが。
 昼ごろ、イリーナは目を覚ました。
「で、マントは直った?」
 デヴィットがそれを見せる。縫い目は何とか目立たないが、やはりじっくり見ると、荒っぽくて格好悪い。イリーナはぷくっと頬を膨らませたが、
「ま、これならいいか。完全に破られるよりはマシだもんね」
 とりあえずマントを受け取った。
「じゃ、デヴィット。ごはんちょうだい」
「はい……」
 デヴィットは指をパチンと鳴らし、イリーナのリクエストした料理を彼女の目の前に並べ、自分にはボウルいっぱいのレタスの葉をだした。
 食後、すっかり乾いた洗濯物を取り込み、たたんで荷物袋に入れる。
「さ、出発よ!」
 イリーナは元気よく歩きだし、デヴィットは荷物を背負ってその後を追った。

 修行を名目に追い出されたが、長く一緒にいるはずなのに、未だに悪魔の事がよくわからない。デヴィットは悪魔の中ではとても若い方に属しているので、人間世界に馴染むのは早いだろうと思っていたが、そうでもないようだ。デヴィットは魔界へ自力で戻れないし、イリーナ自身も悪魔を元の世界へ戻す事が出来なかったので、彼は人間世界で暮らしていくしかないのだが、人間世界の常識と言うものになかなかなじんでいない。悪魔だとバレると色々面倒なので、フードとマントで角と翼と尻尾を隠すだけでなく、人間らしくふるまえるように、彼女は色々と教えているつもりなのだが……。
(馴染むのに一年はかかりそうねえ)
 ひそかにイリーナはため息をついた。
(逆に、自分が魔界に行ったら、馴染むのにどれだけかかるのかも知りたいわね)
 魔界を直接見た事がないので、デヴィットの話から想像するしかない。紫色の空、喋る植物、地をうごめく不気味な姿の獣、空を飛びまわる悪魔たち。絶対変わることのない階級社会。一度その階級に生まれつけば、二度と変わることはない。上の階級にあがる事も、下の階級に落ちることもない。不変のままだ。人間は下克上でなり上がる事も出来るが、魔界ではそれが絶対に許されない。だが、全ての悪魔に共通して言える事は、人間を見下しているということ。デヴィットもそうだ。何度かイリーナをそんな目で見てくる事がある。他の悪魔たちに見下され続けてきたせいで性格はやや卑屈になっているが、それでも人間の事は明らかに目下の存在として見ている様子。
 悪魔の身体能力や生まれつき備わった術の力に比べれば、人間など矮小なものにすぎない。旅に出てから、イリーナは不思議に思う事がある。なぜ祖先は、悪魔と契約を交わし、それを代々伝えてきたのだろうか、と。
「イリーナさん?」
 後ろからデヴィットが話しかけてきた。
「何よ」
 イリーナは脚を止めて振り返った。
「あの、そろそろ夕飯……」
「あら、そうだったわね。もう夕焼けだし」
 考え事をしながら歩いていたので、時間の経過に気がつかなかったのだった。見れば、西の空はもう太陽が沈みつつあった。
「じゃ、今夜はここでキャンプしなくちゃ。デヴィット、ごはん出して」
 フウと軽く息を吐いたデヴィットは、悪魔の火をともした。小動物や害虫をよけるのに役立つ悪魔の火の傍に荷物を下ろし、デヴィットはイリーナのリクエストした料理を目の前に並べ、自分にはボウルいっぱいのサラダをだした。
「あーもう、そんな風に食べちゃだめっていつも言ってるじゃないの! 手づかみは一番下品なんだからっ!」
「えー、でも……」
「でも、じゃないの! いーかげん、食事のマナーくらい身につけなさいよ!」
 またしても、いつものイリーナのマナー講義が始まった。
(やっぱり人間はわからないなあ。食事するのにこんなに気を使わなくちゃいけないなんて)
 デヴィットは、イリーナに叱られながらも、内心はぼやいていた。
 人間と悪魔の溝は、思った以上に深いものであった。