物思い
「あー、雨降って来ちゃった!」
安宿の一室にて、イリーナは窓から外を見る。
「お買いもの行こうと思ってたのに。まあいっか。デヴィット、おやつ――」
デヴィットは、部屋の隅にあるガタガタと文句をつけるオンボロ椅子に座って、寝息を立てているところだ。
「んもう。ハニーパイを食べたかったのに。まあいっか」
イリーナは自分の荷物から魔道書を取り出し、ベッドに腰掛けて読み始めた。が、すぐ顔を上げる。精霊たちの声が聞こえてきたからだ。彼女はそれに耳を傾ける。
『ウフフ。アレ、ミテゴラン』
『アッ、アレネ。コノセカイノ、ジュウニンジャアナイワ』
『ノンビリ、オヒルネナンカシチャッテ、ナカナカカワイラシイコト。ウフフ』
精霊たちは皆、昼寝しているデヴィットを見ている。精霊たちにはわかるのだ、デヴィットが魔界からきた悪魔だということが。イリーナは、何処へ行っても精霊たちがデヴィットの噂をするのをいい加減聞きあきてきていた。だが、彼女は精霊の声を聞くことのできる、極めてまれな才能の持ち主。その才能があるからこそ、従来の魔術に手を加えてアレンジできる技術を生まれながらに持っているのだ。
精霊たちのおしゃべりは、今度はイリーナに向けられた。精霊の姿を見ることはできないのだが、声だけは聞こえてくる。そのため、何について彼らが喋っているかを推測するのは簡単なことである。
『アノコ、ホラ、ホンヲヨンデイル、アノコ』
『マア、ワタシタチノオハナシガ、キコエテイルミタイネ』
『ウフフ。シカモ、コッチヲミテイルワ。ワタシタチノイルバショ、ナントナクサッシガツイテイルヨウネ』
笑い声を残し、精霊たちの声は聞こえなくなった。
「ふあーあ」
あくびが聞こえたのでイリーナが目をやると、デヴィットが目を開けて大あくびをしているところであった。
「あ、おはようございます、イリーナさん……」
「おはようじゃないわよ、まだお昼よ。それより、おやつだしてちょうだい、小腹がすいちゃった」
イリーナの注文で、デヴィットは指を鳴らしてハニーパイを出す。彼が食べたのはパイ丸ごとではなく、切り分けられて皿に乗せられた一切れだったので、一切れ分のハニーパイしか出せなかった。が、イリーナにはそれで十分だ。
長く歩いたのでよほどくたびれていたのか、デヴィットはまた眠ってしまった。イリーナはおやつを食べ終えると、窓から外を眺めた。雨が入りこまないように窓を閉めて。
(ずいぶん遠くまで来たんだなあ)
召喚の儀式で、魔界のおちこぼれたるデヴィットを召喚。悪魔たちから嘲笑され、一族からは眉をひそめられた。そして、その翌日、イリーナは修行と称して、自力で魔界に戻れないデヴィットとともに家を追い出されたのだった。
(うん、ずいぶん遠くへ来ちゃったんだなあ。家の方じゃ、弟が跡取りとして任命されたから、きっと今頃椅子にふんぞりかえって笑ってるでしょうね)
精霊たちの噂話は、イリーナの家のことも届けてくれた。それを思い出すたびに、イリーナは気持ちが沈む。家族の期待にこたえられなかった。最低ランクの悪魔を召喚したその時から、家族は彼女につらく当たった。まるでこのことをもみ消そうとするかのように、お前は未熟者なのだから修行してこいと言い放ち家からたたきだした。
(最初は、自分のせいだって思いたくなかった。だって、召喚される悪魔は)
召喚者の力量に比例する。つまり、おちこぼれの悪魔を召喚してしまったイリーナの、召喚士としての力量はおどろくほど低いということ。魔術それ自体への才能はあふれているのに、彼女はそれで満足することはできなかった。召喚士の家系に生まれたからこそ、両親の期待にこたえたかった。だが、現実は残酷だった。彼女が必死で力を振り絞って、やっと呼ばれたのが、おちこぼれ。追い出された後は、何度もデヴィットを責めた。自分に非があると認めたくなかった。
イリーナは頭を振った。部屋の隅から、悪魔の寝息が聞こえてくる。
(でも、今はもう諦めがつきかけてる。未練はちょっぴり残ってるけど)
外の世界を知ったイリーナ。一族秘伝の召喚の力より、自身に備わった魔術の才能がものをいう世界。これまで住んでいた大きな屋敷はちっぽけな世界と変わった。世界は、彼女の生涯をかけても歩き切れないほど大きいものであった。それでも彼女が召喚士の家系に生まれた事は変わらない事実。後継ぎの未練より、両親の期待にこたえられなかった事を、彼女は多少引きずっている。
雨は、いつの間にか止んでいた。かわりに、空は少しずつオレンジ色に変わっていく。そんなに長い間考え事をしていたとは。ハニーパイを食べた後なのに、腹が鳴った。
イリーナは振り返る。デヴィットはまだ眠っている。翼を乱暴にひっつかむと、彼は痛みで目を覚ます。
「あ、イリーナさん――」
目をこする悪魔に、イリーナは言った。
「デヴィット。ごはん出して」
ドラゴンのステーキセットがイリーナの目の前に並ぶ。そしてデヴィットは自分のために大きなサラダボウルを出した。その中にはたっぷりサラダが入っている。
(ま、屋敷で食べていたものが今も食べられる事だけは、デヴィットに感謝しないとね)
イリーナはそう思いながら、夕食を口に運んだ。これだけは、デヴィットのおかげなのだから。