見習いピエロの1日



「よっ。ほっ」
 公演の終わった夜。ジャックはひとり、月明かりが辺りを照らす中、自分のテントから出てジャグリングの練習をしているところだった。八本のピンを空中に放り投げては片手で受け止め、もう片方の手にすばやく投げわたす。綺麗な弧を描いて、八本のピンは空中でダンスを踊った。
「おっとっと」
 あやうく受け止め損ねるところだった。ジャックはすぐに受け止めた。でなければ頭上の六本ものピンが自分の頭の上に降り注ぐからだ。
 しばらく練習してから一休み。草地に腰を下ろした後、今日の公演を振り返る。今はピエロ見習いのためにまだ舞台には出してもらえないので、用具の運搬やステージ準備で、舞台用テントの端っこにいた。そこから見ているサーカスの一軍メンバーは、素晴らしい芸を披露した。空中ブランコ、ナイフ投げ、人形コントと動物ショーなどなど。観客の拍手、アンコールを求める声。それらを思い出すと、今の自分にはとても無理だなとジャックは思う。何と言っても彼の弱点は、大勢の人がいるとアガってしまうこと。運動神経はよいし、玉乗りならこなせるのだが、アガって芸を失敗してしまっては恥ずかしい。ピエロという役柄、観客は笑って済ませてくれるかもしれないが……。
 元々ジャックはこのサーカス団の団長にスカウトされた身。スカウトしてくれた団長のためにも芸は失敗したくない。アガり症を何とか出来れば、舞台に立ってもちゃんと司会や進行役をつとめられるのだから。
「なんでアガるんだろうなあ。失敗して笑われるのが、やっぱり怖いのかなあ」
 ジャックは立ち上がると、ピンを集めてテントに戻った。夜風が冷たい。もう眠ったほうがいいだろう。私服を脱ぎ捨て、寝間着代わりのだぼっとした服を着ると、ギシギシ音を立てるベッドに潜り込んで眠りについた。

 翌朝、太陽が昇り始めるよりも早く、ジャックは起きた。着替えて、倉庫テントに走っていく。これから朝食の支度をしなければならない。これは新米の役目だ。近くの井戸で水を何とか汲み上げ、次に大皿に入れたたくさんのジャガイモの皮むきをして、細かく刻む。最初は指に切り傷を山ほど作っていたが、今はもう慣れたもの。皮むき作業の合間に、鍋に井戸水を入れて湯を沸かす。沸いたところでジャガイモを入れてゆでる。
 朝日が昇るころ、小さめのテントからキャッキャと子供の声。元気よく、寝癖のついた髪のままテントから駆け出してきたのは、年齢八歳頃の双子。姉はルウ、弟はエクゥと言い、姉弟である。ジャックが町に買出しに行く際に毎回ついてくる双子。
『おはよう、おにいちゃん!』
 双子だと完全な意思疎通が可能な種族なので、意識がピッタリしていれば二人同時に同じことを喋ることもできる。ジャックは最初それを知らず、同じことを同時に喋るこの双子に驚いたものだ。
「あ、おはようです」
 ジャックはソーセージをあぶりながら挨拶を返す。相手が先輩ゆえに幼子に対しても丁寧語を忘れないジャックであるが、相手が幼いのでその丁寧語は砕けている。
『今日のごはん、なあに?』
「ソーセージとゆでたジャガイモと目玉焼きです」
『わー、目玉焼き大好き!』
 双子は嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。
 皿に料理を人数分よそってから、食事用テントに皿を運ぶ。すでにテントの中の木製テーブルには、起きたばかりのサーカスのメンバーが一人。
「おはようございます」
 食堂テントに入ったジャックが声をかけると、相手も挨拶を返した。
「やあ坊や。いい朝だな」
 マジックショーを担当する、ネコ族のナイト=レイトが優雅にひげを撫でている。エクゥとルウは彼の助手であり、「おししょー」と呼んで慕っている。
 ジャックは、そうですねと応えて、テーブルの上に皿を並べた。双子がキャッキャとはしゃぎながらテントに入ってきて、「おししょー」に挨拶した。それから早速、気に入りの青い皿に盛られた朝食を食べ始めた。
 テントに、サーカスのメンバーがぞくぞくと入ってくる。ショー用のナイフを見つめてニヤニヤしているエッジは、食事用ナイフとフォークを使わずショー用のナイフだけを使って食事を始めた。サーカスの華・マリシアはジャックに優しい微笑を向ける。動物の世話係・ハッティは欠伸交じりにテントへ入ってきた。最後にこのサーカスの団長が入ってきた。相変わらず黒の服で身を包み、顔は半分ベールで覆い隠されている。団長の完全な素顔を見たことのある団員は、誰もいないらしい。
 食事が終わると、夜の公演に向けて各自練習を開始する。ジャックはまず後片付けをした後、これから買い物に行かなければならない。練習はその後だ。
「あの……」
 食器を洗おうと井戸に向かっていると、何処からか声が聞こえた。ジャックは周りを見回して、その声が井戸から聞こえたことを知った。見ると、桶に汲まれたままの水の中から、誰かが姿を現した。
「あの……おはようございます」
 どこにいても水を呼び出すことの出来る水の精・エリアルはすけるような水色の肌を赤く染めながら、ジャックに挨拶する。ジャックより少し前に、水中ショーを担当するために団長にスカウトされたのだが、いかんせん恥ずかしがりやで、ショーの時には必ずカボチャのかぶりものをつけている。水の精は基本的に恥ずかしがりやだが、彼女はそれに輪をかけて恥ずかしがりや兼はにかみやであった。特にジャックの前では。
「あの……お手伝いします」
「え、いいんですか?」
「ハイ……」
 エリアルに水を出してもらいながら、ジャックは皿を洗う。井戸の水を汲み上げるよりずっと楽だ。水の入った桶は重いのだから。が、彼女が赤面しながら水を出しているせいか、冷たいはずの水はぬるま湯のような温度であった。

 町の市場が開くころ、ジャックはハッティから馬を借りて買い物に出かけた。大量の食品を買わなければならないのだから、ジャック一人で全部持ち帰ることはできない。エクゥとルウが、お菓子目当てでついてくる。人々が行きかい、にぎわう市場。野菜、果物、おもちゃ、日用雑貨。
 団長から渡されたメモのとおりに、ジャックは買い物をする。日持ちする野菜と乾物、調味料、固焼きパン、その他諸々。
『おにいちゃーん、これ買って!』
 買い物の帰り、双子は町の公園付近の小さな屋台を指差している。屋台には蜂蜜を使った焼き菓子が並んでいる。
「ハイハイ。いくつ欲しいんです?」
『ふたつ!』
 ジャックは代金を払ってから、町外れにテントを張っているサーカスまで戻る。双子はそれぞれ熱々の菓子を頬張りながら、上機嫌で後をついてきた。そのころには、日は高く昇り、南に差し掛かっていた。
「やあ、もう昼か。支度しなくちゃ」
 倉庫テントへ入ったジャックは大急ぎで馬の荷物を解いて、買ったばかりの食料を大きな木箱につめた。それから馬を簡易馬屋へ返す。また戻ってきたジャックは、今度は調理用具を引っ張り出して食事の支度を始めた。
「ああ、忙しいなあ」
 干し肉を水につけ、たまねぎを刻みながら、ジャックはぼやいた。食事が終わったら夕方にかけて舞台のセッティングをしなければならないのだ。雑用係のつらいところだ。
「やっぱり夜にしか練習できないや」

 その夜の公演が終わり、舞台の片付けと掃除が終わって初めて、ジャックはやっと練習する事が出来た。月明かりの中、ピンを使ってジャグリングの練習を始めた。
「フウ。今日も忙しかったなあ」
 草むらに寝転び、ジャックは一息ついた。
「明日も頑張ろう」
 ジャックはテントに戻り、眠りについた。