ある町に到着
「暑いなあ」
ジャックは、手回し式の簡易輪転機でサーカス宣伝のビラを刷りながら、つぶやいた。次に到着する町の人々に配るためのビラだ。もちろん勝手に配るのではなく、サーカスが町に到着する何日か前に、町の役所で許可をもらった上で配布するのだ。
ジャックは、明るいランプの下で、若干汗ばみながらも輪転機を回す。これが終わったら、いつものジャグリング練習をやるつもりなのだ。
「この辺りは気温があがると蒸し暑いんだよなあ」
カラリとした暑さではなく、じめじめした蒸し暑さ。春の陽気を通り越し、夏かと思われるほどの気温が毎日続いている。そして今、ジャックはその蒸し暑い中、熱と光を降り注がせるランプの下で懸命に輪転機を回してビラを刷っているところだ。
「町に着くまであと二日か……」
時刻はもう夜中を過ぎている。あくびをしながらジャックは手回し用のハンドルを回して輪転機を動かし、ビラを刷っていった。
町の住人達は、サーカス団を出迎えた。「サーカス・ジャックポット」は、大通りを練り歩くささやかなパレードをしつつ、ナイト=レイトの手品によって生まれるたくさんの紙吹雪で、それに華を添えた。もちろんその紙吹雪の中には、ジャックが懸命に印刷したサーカスのビラも入っている。たくさんのビラが風に乗って、人々の手の中へと降りていく。
「今夜、ショーが始まります! お誘いあわせの上、おこしくださいませ!」
パレードの先頭をゆく団長が、メガホンもマイクもスピーカーもなしで、しかもそれに負けぬ大声で町の住人たちへサーカスの宣伝をしていた。乗り物や動物たちに乗った団員たちは、手品やナイフ投げ、ジャグリングなどを披露しつつ、宣伝の手助けをした。
もちろんジャックも宣伝に加わってはいたのだが……アガリ症のため、ボールを使ったジャグリングは何度も失敗してしまい、彼の乗っている、四方を透明なガラスで囲んである小型の水槽(もちろん水は入っていない)には何度もボールが散乱して客を笑わせることとなった。サーカスにつきものである道化なのだからわざとミスをして客を喜ばせようとしたのだろうと、客たちは受け止めた。
ジャックは赤面したままで、水槽に散らばったボールを拾い集めた……。
町での練り歩きを終えて、夜のうちにはっておいたサーカスのテントに戻ったサーカス団。
(あー、恥ずかしかった)
ジャックはピエロの衣装をそそくさと脱いだ。全身が汗だくになっているのは、日中の暑さよりも芸を失敗した恥ずかしさが原因だ。
行水して汗を流そうと思い、テントの外にて水を汲む桶を見つけた所で、カボチャのかぶりものをもったままのエリアルと出遭う。彼女はジャックを見るなり「キャッ」と小さく声をあげて頬を赤く染めた。そこでジャックは気づいた。自分が下着姿だと言う事に。
「あわわわわわごごごごめんなさいいいい!」
テントの陰に慌てて隠れるジャック。それでも事情を説明して謝ると、エリアルはまだ赤面したままであったが、納得してくれたようだった。その後エリアルに水を出してもらったが、水はぬるめだった。水の精は、感情の高ぶった状態で水を出すと、水の温度があがるのだ。もっと冷たい水の方が良かったが、体を冷やし過ぎて公演前に風邪をひくと困るので、これでよしとする。ジャックは礼を言って桶を引きずり、木陰で汗を流した。エリアルは顔を赤くしたままどこかへ去った。
汗を流したジャックは体を拭いて服を着、夕食の準備に取り掛かる。公演は日没からだが、それまでに皆リハーサルをし、腹ごしらえをしておかねばならない。
「最近は暑いからなあ。すぐ痛むものは駄目だな。まあ公演が終わったら二回目の夕食になるから、スープは多めに作っておこう。あ、そうだ。少なくなってきた調味料とか書いておかないとね」
ジャックは食料の蓄えを調べて、少なくなってきたものを書きとめる。次の町までの旅は長いのだ、食料や調味料のたくわえはたっぷりあるに限る。メモをとってから、夕食の支度を開始した。それが終わったら客席の掃除、その他雑用。やるべきことはたくさんある。ちんたら作っている暇はない。
『おにーちゃーん』
夕食が出来あがり、さあ次は掃除だと意気込んだ所で、ジャックは双子のスロートに呼びとめられた。双子が話しかけてきた目的は一つしかない。
「おやつですか?」
『うん!』
食べざかりの双子は、両目をキラキラ輝かせた。ジャックは、夕食を作る時に一緒に作っておいた焼き菓子を双子に差しだす。ブドウ入りスコーンを見た双子は大喜び。
『ありがとー!』
「こぼさないでくださいよー、蟻がくるんだから」
『はーい』
双子は焼き菓子をほおばる。ジャックはその間に公演用の大きなテントに入り、観客席の掃除をした。舞台のセッティングが終わったところで、ジャックはだいぶくたびれていたのだが、これから公演が始まる。サーカス入場のチケットを受け取る役も兼ねているジャックはピエロの衣装に着替えると、サーカスの公演用テントを囲む簡単な柵の入り口に立つ。
「いらっしゃーい、いらっしゃーい」
アガリ症なので、声はあまり大きくはない。それでもマイクを使ってようやっと人々に聞こえる声を出す。赤面しているピエロに、客たちは大勢、入場料を払って中へ入る。中には入場料をごまかそうとする者もいるので、その対策のために、非常に「目の良い」団長がジャックと一緒に料金を受け取っている。団長は、料金をごまかす者の襟首をふんづかまえて、ポイと柵の外へ放り投げてしまうのだ。それが大人だろうが子供だろうがおなじこと。サーカスの収入は団員の生活を支える大事なものなのだから、それをごまかされるわけにはいかないのだ。
最後の客の入場料を受け取ってから、「満席」と書かれた札を柵に吊り下げる。ジャックはフウと息を吐いて、団長に、入場料を渡した。
「御苦労さま。じゃ、公演の方をお願いしますね」
「ハイ」
団長が去ってすぐ、ジャックは裏方へ走った。
公演は無事終了した。客たちはワイワイガヤガヤ談笑しながら外へ出ていく。
「今回も無事終わってよかったなあ」
空中ブランコや綱渡りのような危険な曲芸では、怪我人が出るのを防ぐために安全ネットをきちんと張ってある。もちろんネットがゆるんでいないようにショーの前には団長自ら厳重に点検するのだ。それでも、舞台の隅にいるとはいえ、ジャックは芸を見ていてハラハラしている。
「転落の危険に慣れてる人ばかりって知ってるけど、それでも怖いんだよな」
ジャックはぶつぶつ言いながら掃除を終え、夕食のスープの残りで腹を少し満たしてから、夜中の練習に取り掛かる。疲れた体ではあったが、習慣となっているので、やめないわけにはいかない。
「今日も忙しかったな。最後の日はたっぷりと買い物して、出発の準備を整えておかないと」
そう呟いた時、ボールを受け止め損ねて、慌てたジャックの頭に残りのボールがポコポコと当たった。
この町での公演の初日が、終わりを告げた。