ネイス
「いい気持ねえ」
天然の温泉につかって旅の疲れをいやしながら、ネイスはひとりごちる。
「そうだわ。ねえ、おふたりさーん。私の服、洗って乾かしてくださったあ?」
「やっといたあ」
こたえたのはソウシュであった。ネイスは湯気の中から「そう、ありがとう」とシンプルに礼を言って、再び温泉を楽しみ始めた。
「本当に世間知らずだなあ。使用人でもない赤の他人に、自分の着てるもんを洗わせるなんてよ」
ソウシュは、火の魔法で洗濯物を乾かしながら、ぶつぶつ言った。
「高い報酬は払うというが、道中の金使いは荒いし……」
「うん……」
ウルティーは半分上の空で、ひらべったい岩の上に座って空を見ているだけ。長く離れていたとは言え自分の実の妹のことを悪く言われているのに、なぜか怒ろうとしない。
離れている期間が長すぎたか、それとも、久しぶりに会ったのに「貴方は私の兄ではない」と眉根一筋動かさずに言われたせいか。
ソウシュは、洗濯ものが乾いたのを確かめ、たたむ。ちょうどネイスが湯からあがり、岩陰で体を拭く。
「乾いた服はその岩においてください」
ソウシュはネイスを見ないようにしながら、ひらべったい岩の上へ服を置いた。服はさっと岩陰に消え、しばらくしてからすっかり着替えたネイスが出てきた。
「はいおまたせ。じゃあ行きましょうか」
ネイスに護衛として雇われた後の旅は、お世辞にも、楽しいとは言えない。護衛なのだから依頼主である彼女を守るのが仕事なのだが、道中出現するであろう盗賊や山賊、魔獣などよりも、町や村にいる時のネイスの行動のほうがよほどハラハラさせられるのだ。なにしろ、金遣いが荒い。魔術士の家系は貴族と同列の扱いとなり、どこで得ているのか多額の金も持っている。そしてネイスが財布から出すのは全て金貨。到着した町では最上の宿で部屋をとる代わり、護衛の二人は安宿。傷薬など旅に入用なものは何も買わず、装飾品と本ばかり買っている。そして彼女の荷物袋は既にはちきれんばかり。装飾品は毎日つけかえて楽しんでいるのに、どういうわけか服は変えていない。魔術士の家系の家紋が、その服の背中に入っているからなのだろう。なお悪い事に無防備。スリに彼女の財布をひったくられそうになった事もたびたびあった。
しかしこの金遣いの荒さで、本当に到着時に護衛の報酬を払ってもらえるのだろうか。
それでも、護衛の二人にとって救いがあるのは、護衛の旅が間もなく終わるということ。目的の町が、徐々に近づいてきているのだから。
町に到着した朝。
「ここですわ! ああ、やっとつきました!」
町の門をくぐるなりネイスは歓声を上げる。護衛の二人は、ふーっと安堵のため息をついた。
「やっと着いたか」
目的地へ到着し、はしゃぐネイスは、そのままのテンションで図書館へ向かおうとするが、ソウシュが呼びとめる。
「ちょっと待った」
「はい」
「目的地へ着いたんだ。護衛の報酬、払ってくれよ」
そこで、ネイスは思い出したようだ。
「あ、そうでしたわ、ごめんなさい」
彼女は懐から財布を出すと、開けて、中から金貨をひとつかみ取り出し、数えもせず、ソウシュに差しだした。こんな大金いいのか、とソウシュは口の中で呟いたが、ネイスが受け取ってくれというので、結局は受け取った。それでもまだ金が財布の中にあるらしく、彼女が懐にしまいこむ時の財布の音は、たくさんの硬貨がぶつかりあっているものであった。
「おい、何か言わなくていいのかよ」
ソウシュはウルティーをこづいた。小突かれて、上の空のウルティーは我にかえった。
「えっ、あ、ああ――」
旅の間、ウルティーはネイスに自分から話しかけた事はなかった。彼女が彼に話しかけた事もなかった。互いに言葉をかわさぬまま旅をしてきたのだ。
ウルティーはネイスの目をなかなか見る事が出来なかった。それでも、
「お、お元気で……」
かすれた声でそう告げた。ネイスはふいっと顔をそむける。
「そう、ありがとう」
ソウシュの時と比べ妙に冷たく感じる声だった。そのままネイスは図書館へ向かって去っていった。
町の酒場にて。
「ようやっと言えたんだな、その言葉」
ソウシュは、ビールの入ったジョッキから口をはなし、ウルティーに言った。ウルティーは向かいの席に座って、酒に口をつけずに、半ばぼんやりしていたが、その言葉で我に返った。
「えっ、な、何を言ったって?」
「さっきの言葉だよ」
「え、あ、ああ、あれね」
ウルティーは半ば放心した顔だったが、フウと息を吐いた。
「本当は、ずっと、なんて言ったらいいか分からなかったんだ。長い間離れていたのに会えた時は嬉しかった。でも、《彼女》は――」
それ以上言葉が出てこない。ウルティーとしては、もっと言いたい事があった。胸のうちにたくさん言葉がしまわれていたはずだった。旅の間ずっと一緒にいたのだから、話をする機会は何度もあったのだ。それなのに、出てこなかった。
黙りこくってしまったウルティーを、ソウシュは何も言わずに見つめる。非難しているわけでも軽蔑しているわけでも、同情しているわけでもない。ただ見つめているだけ。周りはとても騒がしいのに、彼らのいるテーブルだけ静かだった。
「……」
ウルティーはやがて顔をあげた。
「声だけはかけられたんだ、それでいいってことに、したい。今は……」
「そうか」
ソウシュはそれ以上何も言わず、肴をつまんだ。ウルティーはそれがありがたかった。根掘り葉掘り聞かれたくなかったから。ウルティーは自分のジョッキを取りあげる。
「自棄酒はよくないとわかってるけど、ちょっと飲ませてくれないか。いったん、飲んで頭をからっぽにしたいんだ」
「好きにしな。帰りは俺が連れて帰るからよ。でも、吐くのは勘弁してくれよな」
「ありがとう」
それからウルティーは飲んだ。体の許す限り。
今は、何もかも、酒で流し込みたかった。何もかも。
ウルティーが酔い潰れてソウシュに担がれて宿へ運ばれた頃、ネイスは図書館で書物を探しているところだった。
「そういえば」
書物のページから顔をあげる。
窓から、差しこんでくる日差し。
「あの人やっぱり銀の髪だったわね。でもあの不吉な色の髪は」
明るい日差しを見ながら彼女はつぶやく。頭の隅に残るその銀。
ふと頭の中をよぎる光景。
薄暗い倉庫の中にいた、痩せた男の子。
ネイスは自分がずっと一人っ子だと聞かされて育ってきた。だが屋敷の倉庫にいたあの子供の存在を知ってから、自分が本当に一人っ子なのかと頭の中で密かに考えるようになった。その子供はそのうちいなくなり、時が経って自分もその子供の存在をほぼ忘れたころ、その子供は現れた。輝く見事な銀の髪と、魔術士の家系の者だけが持つアクアマリンの瞳を持って。
(アクアマリンの瞳は確かに魔術士の家系だけが持つけれど、あの銀の髪は――)
不吉の象徴。この髪の色は、一族に災いをもたらすという言い伝えがある。そして、この銀の髪を持つ者が生まれるのもこの一族だけ。
険しい表情でネイスは本を閉じた……。