悪夢か現実か
「終わったぞい、小娘や」
呪術師の老婆は、ヨランダに言った。魔法陣の上に立っていた彼女の手から、彼女の手に食いこんでいた不気味な文様のコインが落ち、魔法陣の上に落ちて、チィンと音を立てた。
「ありがとう、おばあさん」
「礼にはおよばん。それに、未熟者のセラにやらせるわけにはいかないからのお、まだしばらくはわしが現役じゃぞい」
老婆はぼろぼろのローブをはたいてほこりをはらう。
「それにしても小娘や、お前のその手くせの悪さは何とかならんのか? しょっちゅう呪いを受けておるんじゃからな、いいかげん懲りたらよかろうに」
「そんなこと言われても、これがアタシの本業だもの」
ヨランダはふくれっ面をした。
酒場で一杯飲んだ後の帰り道。そういえば、酔いざましを作ってもらうのを忘れていたとヨランダは思い出し、町の研究所に寄った。何気なくドアを開けると、室内から嫌なにおいが漂ってきた。
(何これ……)
血の臭い? ヨランダは中に入り、そっとドアを閉じた。室内からは誰の気配も感じられない。使い魔のカラスもいないということは、彼は留守なのだろうか。それとも、奥の方に誰かいるのだろうか。ヨランダは足音を忍ばせて先へ進んでみた。階段を慎重に降りて行く。地下には火がたかれているらしく、壁には、つりさげられた薬草の影ができている。その中に、人間と思われる陰を見つけ出した。そっと数段降りて、壁の角からそっと覗いてみる。
思わず、ヨランダは息をのんだ。
薬草を煎じて薬を作るための地下室。だがその床には、薬や水ではなく、真っ赤な鮮血が広がって小さな水たまりを作っている。壁にも血しぶきが飛び散って、薬草のいくつかに赤い斑点が出来ている。そして床の真っ赤な水たまりには、誰かが倒れている。だが、彼女の覗き見ている場所の傍に棚があって、その棚がその誰かの顔をかくしてしまっている。ヨランダは周りの気配を確かめ、誰もいないとわかると、そっと階段を下りた。つよい血のにおいが嫌でも鼻に飛び込む。彼女が階段を降り切った先にある血だまりの中に横たわっていたのは、彼女の知らない女だった。
そして女の傍に誰かが立っていた。そしてその誰かは、ヨランダが見つけるよりも早く彼女を見つけた。
ヨランダが目覚めた時、ギルドの自室にいた。朝日が、彼女の顔を明るく照らしている。
「い、嫌な夢……」
ヨランダは汗びっしょりだった。研究所の地下に誰かが血だらけで倒れていた夢。あれは夢なのだろうか、それとも現実だろうか。夢にしては現実感がありすぎた。
「あれって、本物? それともただの夢……?」
記憶をたどるが、研究所の地下に降りて謎の女の死体を見つけたところまでしか覚えていない。それからいったいどうやって戻ってきたのだろうか。ショックが大きすぎて記憶が飛んでいるのだろうか。ギルドの皆にも聞いてみたが、いつ彼女がギルドに戻ってきたのか、門番すらも知らなかった。一体どういうことなのだろうか。
「酔いざまし作ってほしいんだけど」
いつものようにヨランダは言った。机に羊皮紙や書物を散らかしている研究所の主は、目の前にいる彼女を疑いのまじった目で一度見てから、面倒くさそうに椅子から腰を上げた。使い魔のカラスは気に食わなさそうにガアと鳴いた。
スペーサーが地下に降りて行ってしまうと、ヨランダはしばらく待って、後を追った。階段を下りていく。昨日の血のにおいはない。壁に血しぶきもない。床に血だまりも広がっていない。女の死体も何もない。大きな鍋には、刻まれた薬草が放り込まれていく。血のにおいなど、やはりない。いつもの、薬草くさい研究所だ。ヨランダは安堵した。やはりあれはただの夢だったのだ。
(やっぱり、アレは単なる夢だったのよね。お酒の飲み過ぎで変な夢みたんだわ、きっと)
上に戻って、誰もすわっていない椅子に腰かけ、内容のよく理解できない書物を取り上げ、読み始めた。とはいえ、心の底に残るわずかな不安をぬぐい去ることは出来なかった。
ハッカのにおいがきつい薬を受け取ってから、ヨランダはいつもの通り呪術師の老婆の家に向かった。
「何じゃ小娘。まだ昼飯には早いぞえ」
縫物をしていた老婆は、ヨランダの顔を見て、言葉を変える。
「どうしたんじゃ。悪い夢を見た時の顔しとるのお、セラと同じじゃわ」
実際そうだった。ヨランダは青ざめた顔のまま、薬瓶をしっかりと握りしめ、肩で息をして、汗びっしょり。雨も降っていないし、暑くもないのに。
「な、何でもないのよ。た、確かに悪い夢を見たんだけど、ただの夢よ……」
笑うヨランダだが、青ざめた顔のままで明るく笑っても、意味はなかった。バレているとはわかっているのだが、どうしても顔に出てしまって隠しようがなかった。せめて本当に悪い夢を見ただけなのだと老婆が思ってくれればいいのだが。
老婆はそれ以上問わなかったので、ヨランダはほっとした。
「どーれ、煎じ薬を作ってやろうかえ。夢なんか見ないで、よおく眠れるぞい」
「あら、おばあさんも調合できるの」
「わしを何者だと思うておるんじゃえ。呪術師は魔術師とさほど変わらん。幽霊を祓う以外にも薬草や術のことはちゃんと心得ておるわ!」
「あら、そう……じゃ、お願いしようかな」
夜中過ぎ。セラが夢の世界に旅立ち、ヨランダがギルドへ戻ってしまった後。
「また何かやらかしたのかえ」
「……」
老婆の問いかけに、彼は答えなかった。
「あの小娘に記憶操りの術と睡眠の術をかけたうえで目的地へ飛ばす。お前さんらしい事じゃないかえ。しかし、それだけの事をやっちまうんじゃからな、お前さんはよほどまずいものを見られたんじゃの」
「……」
老婆の向かいに座る、歳とった老人は、ため息をついた。
「その通り」
「何をしていたんじゃ」
「もう一つ罪を重ねただけの話」
相手の言葉はそれだけだ。老婆は目を細めた。
「そうか。またあの薬を作っておるんか。あれの効果を得るには薬だけじゃなく、忌まわしいものを食わねばならんからのう」
「そう」
歳とった老人の手には、小さな瓶が握られている。そして、その瓶には赤黒い液体がなみなみと入っており、その中に、心臓が浮いていた。
ヨランダは薬を飲んでから眠りに落ちた。本当に何の夢も見ず、朝を迎えた。さっぱりした気持ちで目覚めた彼女は、おとといの悪夢のことなどすっかり忘れ去っていた。
「あー、いい朝! ホントにあの薬よく効いたわ! 何の夢も見なかったし、こんなにすがすがしい気持ちで目覚められるんだもん、またつくってもらおうっと」
彼女はスキップしながら部屋を去って行った。
彼女の部屋の窓の外。カラスが一羽、飛び去った。