赤ちゃんがやってきた!



「ねえ聞いて聞いてー」
 昼過ぎ、ヨランダは、友人宅から帰ってくるなり、言った。
「アタシね、一日ママになるの」
『は?!』
 二人の目が点になった。

「誤解しないでよ。友達が一日出かけなくちゃいけないから、赤ちゃんを預かってくれって頼まれただけよ」
「何だ、驚かすな」
 スペーサーは呆れたような声を上げ、アーネストはほっと息を吐く。
「これがその、友達から預かった赤ちゃん。それからこっちがオムツと粉ミルクね」
 ヨランダが抱いている赤ん坊は、生後数ヶ月。首が据わっていない様だ。
「へー、かわいいなー。マシュマロみてーに柔らかいんだな」
 アーネストは、赤ん坊の頬をつんつんとつつく。ヨランダはそれをみて止めさせる。
「止めなさいよ! おきちゃうでしょ!」
 眠っていた赤ん坊は突然火がついたように泣き出した。
「え、え? 起こしちゃった?」
 赤ん坊を抱いたままヨランダは慌てる。逆にスペーサーは慌てずに、荷物を探って粉ミルクと哺乳瓶を取り出し、キッチンへ急ぐ。慣れた手つきで、ちょうどやかんに入っていた湯を沸かしなおして粉ミルクを溶かし、熱湯で消毒した哺乳瓶に入れる。そして水で冷ます。ちょうど良い温度にまで下げると、ヨランダから赤ん坊を受け取り、腕で赤ん坊を支えながらミルクを飲ませる。赤ん坊は大人しくミルクを飲み始めた。
「へー」
 アーネストは目を丸くした。ヨランダも同じく。
「なんで分かったの、泣いていただけなのに」
「泣き声で分かる」
 スペーサーはさらりと言ってのける。そして赤ん坊がミルクを飲み終えると、その背中を軽く叩いてげっぷさせた。
「泣き声にも違いがあるのね……でもあなた結婚してないでしょ? なぜ分かるのよ」
「……聞くな」
「まさか俺達に内緒で隠し子とか作ってたりしてなー、はっはっは」
 一秒後。
「くそー、本気でひっぱたきやがった」
 アーネストは、平手打ちを食らった左頬を押さえる。スペーサーが本気で怒った時に繰り出す平手打ちの威力は、アーネストの正拳突きに匹敵するほど強烈なのだった。

 その夜、何度か赤ん坊の泣く声が響いた。
 一夜明けて、朝食の席で、ヨランダはぐったりとテーブルにふせる。
「結構、ママって大変なのね……疲れちゃった」
 昨夜、何度も赤ん坊が夜泣きして、ほとんど寝ていないのだという。朝食を取り、赤ん坊にミルクを飲ませた後、ヨランダはソファに体を預ける。
「ちょっと寝かして。この子が泣いたらすぐ起きるから」
 そうして目を閉じ、うとうとしているとき、赤ん坊が泣いた。
「もー、寝かせてよ……」
 ヨランダは目を開ける。ところが、赤ん坊は彼女の手の中にはなかった。赤ん坊は彼女の膝の上に転がっていた。後一歩で、赤ん坊は床に落ちるところだったのだ。
「どうして泣くの? オムツは取り替えたし、ミルクはあげたばかりなのに」
「構ってほしいそうだ」
 自分の食器を洗っているスペーサー。アーネストがシンクの側に食器を置いたまま去ろうとすると、すかさずその背中に「自分で洗え」と、スペーサーは叩きつけた。そして、赤ん坊を抱いたままのヨランダのほうへ歩み寄り、赤ん坊を受け取ると、体を軽くゆすってやりながら二言三言声をかける。すると、赤ん坊は三十秒足らずで泣き止んだ。
「何なら、代わってやろうか? その間、寝ていても構わんから」
「じゃ、三十分だけね……」
 ヨランダは安堵し、すぐに寝息を立て始めた。アーネストがやってきて、スペーサーの肩越しに赤ん坊を眺める。機嫌の直った赤ん坊は、腕の中でうとうとし始めた。
「俺にも抱かしてくんねー?」
「駄目。君じゃ荒っぽすぎる」
「えー、そんなー」
 揉めていると、ドアのインターホンが鳴った。手がふさがっているため、赤ん坊をとりあえずアーネストに押し付けて、スペーサーが出て行く。
 朝も早くから誰が来たのかと思ったら、ヨランダの友人であった。赤ん坊を引き取りに来たというので、家に通すと、首の据わっていない赤ん坊を抱くのに失敗したらしいアーネストがうろたえていた。赤ん坊はぐんにゃりと首が倒れて、泣いていた。
「だから抱かせたくなかったんだ!」
「じゃあ抱かすんじゃねえよ!」
 スペーサーは素早くアーネストから赤ん坊を受け取り、あやしてやる。わずかな時間で赤ん坊は機嫌を直した。
 赤ん坊の泣き声で、ソファで寝ていたヨランダが目を覚ます。そして、赤ん坊を迎えに来た友人を見て、慌てて立ち上がる。
「あっ、ごめん! つい寝ちゃった……」
「いいのよ。私だって、いつもこんな具合よ。それより、預かってくれてありがとう。あんたには、いつも面倒かけっぱなしね」
 赤ん坊と荷物を受け取り、彼女はヨランダに言った。
「それにしても、あんたにはいい同居人がいるわねー。赤ちゃんの扱い方をちゃんと知っているみたいで、私以上のおかあさんみたいよ」
 言われたのはヨランダなのだが、スペーサーはぎょっとしたようだ。冗談が通じない性質のため、こんなことを言われると真に受けるのである。

 客人が帰った後、ヨランダはまたソファに座り込んだ。
「結構大変だったわね……でも、ちょっと楽しかったかな」
 そして彼女はまた浅い眠りに入った。
「それよりもなー」
 アーネストは、スペーサーに言った。
「何でお前が、赤ん坊の扱いが上手いのか、いーかげん教えろや」
 その答えは強烈な平手打ちで返されたのであった。