スラム街



「久しぶりじゃねえか、お前さん。また戻ってきたのかえ」
 国が管理するはるか西の小さなスラム街。売春、麻薬、強盗、殺人、詐欺、ありとあらゆる犯罪を詰め込んだといっても過言ではない犯罪都市だ。地べたはごみだらけ、酒のにおいや麻薬の甘い臭いが鼻をつき、汚水が路地裏を流れ、ところどころには血のあとも見える。死体も転がっていて、ハエがたかってタマゴを産みつけている。
「できれば、こんなとこもう二度と来たくねえよ」
 黄色い八重歯の老婆に、アーネストは冷たく言い放った。だが老婆は不気味に笑う。
「そうかえ。じゃが懐かしいじゃろ? この濁った空気も、汚らしい町並みもなあ」
「だからこそ、戻りたくねえんだよ」
 アーネストは歩き出した。
「たとえ、依頼であってもな」

 このスラムでは、他の管理区よりも生存競争が最も激しい。法律も存在せず、暴力と金だけがスラムを支配している。生き残りたければ逃げ、殺し、だますしかない。……最初に殺人を犯したのは十三歳のとき。殺した相手は病を患っていた強盗。それだけは覚えている。この嫌なにおいの空気が、その記憶を嫌でも呼び覚ましてしまう。
(フン。他は皆、殺しすぎて顔すら覚えてねえぜ)
 進むたびに強盗が襲ってくる。返り血に染まって血のにおいを放つ《危険始末人》の制服から血を拭うこともせず、アーネストは記憶を頼りに路地裏を歩く。記憶が確かなら、この路地裏の先に目当ての建物があるはずだ。あそこが、強盗団に占拠されていなければの話だが。まあ占拠されていたら、そのまま引き返して報告すればいいだけ。
(あの建物は昔っから麻薬と売春の巣窟だったかんな。俺も一年くらい入り浸ってたっけ……)
 襲い掛かる強盗たちを得意の体術でなぎ倒し、ナイフで正確に相手の急所を切り裂く。
(女を知ったのも男を知ったのも十になるかならねえかくらいの時だったなー、そういえば)
 背後から襲いかかる強盗のナイフを、急所を突かれて死亡した別の強盗の死体で防ぐ。その死体を放り投げるついでに、また襲ってきた強盗を蹴飛ばす。
(で、十六の時に、警備の手薄なところを見つけてスラムを出たんだったなー。初めての都会にビビッたっけ。でも最初は、手に何にも技術がないからしばらくは強盗で食いつないで――)
 最後の強盗を壁に叩きつけて背後からナイフを急所に突き刺した。
 アーネストは何事もなかったかのように歩き出す。
(そんで《レース》にしばらくいて、そこも嫌になって抜け出して、最後には《危険始末人》になったんだったなー。それまで、何回ブタ箱に入ったっけか?)
 五分後。血まみれの道に強盗団の死体の山を築き上げたアーネストは、目的の場所へとたどりついた。
「懐かしいな。まだ建ってたのか」
 市役所を思わせる薄汚れた建物。他の建物よりは少しだけ綺麗だ。アーネストは迷わず中に入った。
 中は、既に寿命の切れた蛍光灯がさびしく天井に引っ付いたままくもの巣を張り巡らせている。室内は酒と血と麻薬のにおいが溢れている。中にいるのは麻薬の常習者、アルコール中毒者、梅毒を患った売春婦。まるで中世時代を思わせる。皆、中に入ってきたアーネストに驚愕の目を向け、体が固まっている。
「久しぶりだな。十年くらいかあ」
 アーネストは、受付と思われるデスクの向こうにいる男に言い放つ。椅子に腰掛けているのは、体重百キロを軽く越えたとてつもない肥満男。脂ぎったその手には宝石のついた指輪がいくつもはめられ、にやりと笑ったその口には無数の金歯が光る。きている服はそこそこ上等の素材で作られているがデザインが安っぽすぎる。禿げ上がった頭は薄い毛が数本伸びている程度で、これまた脂ぎっている。不自然なほど、その体には点滴が……。そのくせブタを思わせるその体型が維持されているのは、酒の壜のせいなのか……。
「おう、いつかの小僧か。ふひひひひひ」
 男は、売春婦たちを押しのけ、やっと椅子から立ち上がる。
「またこのわしに、クスリを売るルートを教えてもらいたいのかね?」
「そんなのもう要らねーよ。ヤク中から抜け出るのにどんだけ苦労したかを考えりゃあなあ」
 アーネストは、デスクにどっかと片足を乗せた。
「んで、俺がここに来た目的ホントは知ってんだろ? このスラムで、お前の知らねえ事はひとっつもねえんだからよ」
「もちろんわかっとるよ」
 男は金歯をちらつかせた。
「お前は、わしを殺りにきた。管理局の命令でな」
「その通り」
 周囲を喧騒が支配する。が、男が周囲を睨みつけると、その騒がしさは途端に静まった。
「よかろう! そろそろわしも引退しようと思っておったんじゃ。跡継ぎも決まったことだし、それにわしは、数ヶ月前から癌をわずらっておる。痛み苦しんで悶え死ぬより、貴様に一瞬でカタをつけてもらえるほうが苦しまずに済むわい」
 派手に大笑いする。
「跡継ぎがいるなら、俺も心置きなくお前を殺れらあ。管理局の連中は、お前さえいなくなりゃ何とか成るなんて思ってんだろーな。このスラム街じゃあ、根こそぎやらなきゃ駄目だってのに」
 アーネストは言いながら、腰から銃を出す。
「お前の好きだった旧式のリボルバーだ。わざわざ取り寄せてやったんだ、ありがたく思いな」
 周りがまた騒がしくなる。何人かが止めようと駆け出すが、アーネストは即座にレーザーガンで射殺する。肉のこげる臭いがあたりに漂う。男が周りをじろりと睨むと、手を出そうとする者は縮こまってしまった。
「わしの好きなものを覚えていてくれるとは嬉しいのお。さあ、遠慮なく引き金を引くがいい」
 辺りは緊張に包まれた。
「じゃあな。天国でもヤク漬けで過ごしな」
「そうじゃな」

 管理局。血まみれの姿で戻ったアーネストを出迎えた職員は、失神してしまった。アーネストは構わず報告書に必要事項を記入後、さっさと基地へ戻った。
 基地の入り口をくぐるが、他の連中が出払っているのか、誰とも会わなかった。そのまま自室へ戻り、血だらけの制服を脱いで洗濯機へ突っ込むと、洗濯機は勝手にグワングワンと洗い始めた。彼は浴室でシャワーを浴びて血を洗い流すが、どんな上等の石鹸を使っても、血のにおいだけは流れ落ちなかった。どんなに綺麗に洗っても、自分の体を血で洗っているような気すらした。
(殺し慣れてるせいだな。いつだって俺の体は血まみれだ)
 銃弾に倒れた、あの男の最期が、彼の脳裏に浮かぶ。額を正面から撃たれたあの肥満男は、幸せそうな笑みをその脂ぎった顔に浮かべていた。そしてアーネスト自身、後悔などしていない。あの男を殺す事は、自分をあのスラム街から完全に解き放つカギだったのだから。
(おっさん、あの世で達者に暮らせよ。そこなら、いくらシャブ漬けになろうとも誰も怒りゃしないしな)
 アーネストは浴室から出て行った。
 排水溝へ流れ落ちる熱い湯は、うっすらと赤い色を帯びていた。