ダイエット



 ある十月の、早朝五時半。
「いやああああっ!」
 家中にヨランダの悲鳴が響き渡った。
 その悲鳴で、眠っていたスペーサーが目を開ける。だがアーネストはまだ寝たまま。彼はちょっとやそっとのことでは目をあけないほど、深く眠るのである。寝巻きのままスペーサーは、悲鳴の聞こえたと思しき場所へ、寝ぼけ眼をこすりながら歩く。
「こんな朝早くから――」
 バスルームのドアを開けた彼に、ヨランダが飛びついてきた。シャワーを浴びた後らしく、バスタオルを体に巻きつけただけという格好である。
「どうしよどうしよどうしよう!」
 肩をつかまれ体をゆすぶられ、彼の眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。ヨランダは涙目で彼に訴えかけた。
「体重が増えちゃったよ! 二キロもっ」
「体重が増えたって……先月もそれで騒いだろうに」
 スペーサーは呆れた目でヨランダを見る。だがヨランダは真剣な目である。
「女にとっては、体重が増えることは一大事なのよ! 元から痩せてるあなたにはわかんないだろうけど!」
 ヨランダの目に、決意が浮かんだ。
「食欲の秋だから食べすぎちゃったけど、これからダイエット始めるわ!」
(長続きすれば、の話だがな)
 目に炎を宿す彼女の傍らで、スペーサーは心の中で冷たくつっこんだ。

 朝六時半きっかりに、スペーサーにベッドから落とされて叩き起こされた後、アーネストは、頭の痛みで眠気を払う。そして寝巻きのままで朝食をとりに階下へ降りてきた。その途中、洗濯籠を持って二階の洗濯場へ向かうスペーサーとすれ違う。平日ならばヨランダがやっていることなのだが、今日に限って彼がやっている。アーネストは不思議に思い、階段を登っていくスペーサーの尻尾を引っ張った。
 痛みで、ぎゃっとスペーサーが悲鳴を上げる。
「何をするっ!」
「いや、何でお前が家事やってんのかなって」
 一点の曇りもない純粋な目で、アーネストは彼を見上げる。引っ張られて痛む尻尾をさすりながら、彼はしぶしぶ言った。
「ヨランダがダイエットを始めた」
「あ、やっぱり?」
「わかっているなら、聞くな!」

「よしっ!」
 ヨランダは部屋の壁に貼った用紙を見る。スペーサーのデスクの中から一枚失敬してきたその用紙には、ダイエットの日程や今後の食事の内容などが細かく記されている。
「これでオッケー! あとはこの予定表に沿っていくだけね」
 その手には、アーネストの部屋から失敬してきた、ダンベルがある。しかも五キロ。
「重いけど、これだけ負荷をかければ、痩せるのも早くなりそうね!」
 ヨランダのダイエットの内容を簡潔に説明すると、このようになる。朝五時半からのジョギング、食事、ダンベルでの運動、再度ジョギング、美容体操。これの繰り返し。
 今回が初めてのダイエットではない。以前にも二、三度やった事はある。だがそのダイエットの成果が出る前に止めてしまう事が多いので、リバウンドばかりである。
「今度こそ、目標達成してやるわ!」

「ダイエットというのは、長期的にやってこそ初めて成果が出るものだ。一週間やそこらで痩せるというものではない」
 スペーサーはアーネストに言った。
「食事を抜くなどして体に負荷を与えすぎると、かえって体を壊すし、リバウンドで余計に体重が増える。あるいは食事の抜きすぎや拒食症で骨と皮ばかりにまで痩せこける事もある。だから、短期間で理想のスタイルにしようと考えるのは愚の骨頂でしかないのだ」
 アーネストはトーストを口にくわえたままで、大人しく相手の話を聞いていたが、いったんトーストを口から放す。
「じゃお前はどうなんだよ。結構痩せてるじゃねえか。それってダイエットしてるってことになるんじゃないのか?」
 途端に、相手からすさまじい殺気が放たれた。
「私がダイエット?! 冗談も休み休み言え! これは、日ごろから度重なるストレスによる長期間の食欲不振の結果だ!」
 怒り心頭の、般若のごとき形相で怒鳴りつけたスペーサーの剣幕に負け、知らぬ間にアーネストは椅子の上で正座していた。

 それから二週間が過ぎた。ヨランダは相変わらず精力的にダイエットを続けていたが、目に見えて痩せてきたとはいえない。一日二食で、その食事量も普段の半分以下。
「もー、なかなか痩せないわねえ」
 五キロのダンベルを使って運動している。筋肉はつくだろうが、そう簡単に体重は減らないものである。その上食事の回数と量を減らしたとあっては、減量運動にも支障がでる。
「何だか、頭がぼーっとしてきた……ちょっと休もう」
 重いダンベルをなんとか床におろし、彼女はそのまま、ベッドに倒れこんだ。
「なんだか、目が回ってきたような……」
 血の気がすーっと下がっていくような感覚のあと、彼女の意識は、ゆっくりと途切れた。
 次に目覚めたとき、ヨランダを覗き込む二つの顔があった。
「メシだって呼んでもちっとも降りてこねえから、見にきたんだ。そしたらお前が血の気引かせて倒れてた」
 アーネストが、あきれ返ったように言う。ヨランダは起き上がろうとするが、体が上手く動かなかった。
「食事の抜きすぎだ。ほら」
 彼の脇から、スペーサーが顔を出す。差し出されたトレーの上に、暖かい湯気のたつ粥入りの器がある。ヨランダは何とか起き上がると膝の上にトレーを置く。
「……!」
 暖かい粥が、栄養不足の彼女の体に活力を与えた。体が温まり、力が沸いてくるのに従って、彼女の眼から涙がこぼれた。
「ありがとう……」

 一週間後、ヨランダの体調はすっかりよくなった。それどころか、ダイエットする前より一キロ痩せたというのである。
「すごいわ! 一キロも減るなんて! 療養ダイエットが効果を発揮したのね」
 療養ダイエットとは彼女の造語である。ヨランダの体調が戻るまで、アーネストとスペーサーが交代で看病していた。無理をさせてはならないと、三食を少なめに食べさせたために、彼女の体重は減ったのである。
「ってことは、また看病してもらったら、今度は二キロ痩せるかもしんないわねー!」
 だが、そうは問屋がおろさなかったようだった。
「いい加減にしろ!」
 新たなダイエット計画を立てるヨランダに、男二人の怒号が叩きつけられたのだから……。