ドッペル・ドッペル



 本物そっくりに変化する奇妙な生き物、ドッペル・ドッペル。あらゆる形体に変化できるゼリーのような薄い水色の体を持ち、一見はスライムと間違われるほどだ。
 もちろん、人間にすら変化できる。唯一の欠点は、どういうわけか相手の顔までそっくりコピーできないことだ。だから、ドッペル・ドッペルが人間に変化したときは、顔を見ればすぐわかる。なにせ、のっぺらぼうなのだから。

 医務室。
「で? その珍奇な生き物を掃除用バケツに入れて持ってくるとはどういう了見だ? ここが医務室とわかっての行為か?」
 相変わらず機嫌の悪い医師・スペーサーは、目の前の床に四散したゼリー状の水色の物体と、それを掃除用バケツに入れて持ってきた張本人とを交互に睨みつけた。
「これしか入れ物ねえんだよ! 文句垂れるな!」
 アーネストは相手を怒鳴りつけるが、医師は臆した様子もない。
「その入れ物に入れた珍奇な生き物を医務室の床にぶちまけておきながら、『固形剤を打ってくれ』といわれても困るな。クーラーボックスならまだしも、よりによって雑巾バケツ――」
「掃除に使うんだからいいだろ! それよりさっさと薬打てよ! 捕まえておかないと、ステーションのいろんなものに化けちまうんだぞ!」
 相手に胸倉を引っつかまれても、スペーサーはまだ臆した様子も見せない。が、何やら呟きながらアーネストの手を振りほどき、アシスタントロボットに指示を出す。
「薬は打ってやる。その代わり、床を掃除して、その珍奇な生き物をバケツに一滴残らず戻せ! 一滴でも残すと、どんどん増殖する生き物だからな」
 これにはアーネストは逆らえなかった。現に、このドッペル・ドッペルを床にぶちまけたのはアーネストなのだから。仕方なくモップを持ってきて、床を掃除する。その間にスペーサーはアシスタントロボットの持ってくる薬を、宇宙動物図鑑を見ながら、調合する。そして、液状生物専用のカプセルに入れる。アーネストはモップについたドッペル・ドッペルをバケツの中に落とす。
「ほれ、終わった」
 スペーサーは、うぞうぞ動くゼリー状の生き物の内部に手を突っ込み、カプセルを押し込んだ。ゼリーを触っている感触だが生暖かくて気持ち悪い。
「薬は入れたが、本当にこれで全部なんだろうな?」
 スペーサーは念を押す。アーネストは、全部だと答えた。それでもなお疑いの眼差しを向ける医師に、彼は怒鳴りつけた。
「そんなに俺が信用ならねえなら、お前が調べろよ!」
 その時、管理課の一人が大慌てで医務室に飛び込んできた。
「大変だ! ステーションの中に、ドッペル・ドッペルの一部が落ちたらしいんだ!」

「バケツなんかに入れる時点で間違っていたんだ! あんなこぼれやすいもの――」
「ぐだぐだ言ってねえで、さっさと来いよ!」
「トラブルメーカーが偉そうに……」
 アーネストがバケツに入れたドッペル・ドッペルの一部がこぼれたらしく、現在、ステーション内部でいろいろなものに変化を始めたというのだ。何かの器に収まっているか、何かの形に変化しなければ安定できない生き物のため、どんなものに化けるか、全くわからない。生体反応も出ない極めて特殊な生命体なので、探知機を使うこともできない。
 アーネストは、固形剤を持ったスペーサーの腕を無理やり引っ張り、ドッペル・ドッペルが変化を始めたらしい場所まで急ぐ。人間に化けたなら、顔を見ればわかる。しかし、物に化けた場合は目で見ただけではわからない。唯一の判別方法は、火を近づけてみる事だ。熱でドッペル・ドッペルはとろけてしまい、正体を現す。だが、ステーションでそんな事をすれば、火災報知機が即座に作動する。そのため自力で判別するしかない。
「この場所なんだよな?」
 医務室に飛び込んできた管理課の一人は、頷いた。ここは、倉庫前通路。ちょうど整理の真っ最中で、様々な機材が通路に出されている。倉庫の入り口はふさいであるし、シャッターを作動させてあるので、この通路の先にも後にも行く事はできない。そして、この通路の機材のどれかが、ドッペル・ドッペルの化けたものらしい。医療器具、修理器具、事務用品の山など。
「どれなんだ? そっくりすぎてわからんな」
 アーネストは早くも音を上げる。彼らを案内した管理課の一人は、総務課から緊急の呼び出しを受け、さっさと行ってしまった。通路にはまたシャッターが作動させられ、こちらも進退窮まる状態。もっとも、誰かに追い詰められているというわけではない。
「地道に探すしかないだろう」
 音を上げたアーネストに同情するそぶりすら見せず、医師は冷たく言った。
 アーネストは舌打ちした。

 様々な器具をひっくり返し、ときには叩いてみる作業が始まって一時間。整理中という事もあり、様々な種類の器具が、通路いっぱいに置かれている。足の踏み場もなくなりそうだ。
「よりによって物体に化けたのかよ。面倒ばっかり――」
「バケツで運んだりするから、こぼして当たり前だ」
 アーネストの愚痴を、医師は容赦なく遮った。アーネストは、ちょうど握り締めたレンチを持ったまま振り向き、怒鳴ろうとして口を開く。
「あ……!」
 声はそこで止まった。
 スペーサーが、二人いる。片方は立っているだけで、片方は器具をあれこれいじっている。ちょうどアーネストに背を向けた状態の二人だが、器具をいじっているほうのスペーサーが何か用かといわんばかりの表情で振り向く。
「!」
 自分の背後にいるもう一人の自分を見つけ、固まる。

 のっぺらぼうの、もう一人のスペーサー。

 口を開くまでしばらくかかり、動けるようになるまで更に時間がかかった。のっぺらぼうのスペーサーの体が突如水色に変わり、ドロドロと溶け、液体になる。
 ドッペル・ドッペルだ。
 先に動いたのは、アーネストだった。その水色の塊を捕まえようとするが、ドッペル・ドッペルは動いて彼の手の中からスルリと抜け出す。ようやっと動いたスペーサーは、白衣のポケットから固形剤を取り出し、逃げようとするドッペル・ドッペルの体に腕を突っ込んで薬を押し込んだ。
 ドッペル・ドッペルは薬で体が固まり、逃げられなくなった。

「全く。とんだトラブルに巻き込まれたな」
 スペーサーとアーネストは共に医務室へ戻る。アーネストは、ドッペル・ドッペルを丸めて固め、持ち運んでいる。これから、本体の入ったバケツにこの水色のボールを突っ込むためだ。
 ドアを開ける。
 絶句する二人。
 室内は、中身の入っていない掃除用バケツで溢れかえっていた。時折バケツが水色の液体に変化し、またしてもバケツの形に変わる。
 どうやら、モップにくっついていたドッペル・ドッペルの欠片が、閉めきられた医務室の中で増殖したらしかった。
「……回収しなければな」
 医師のつぶやきに、アーネストは頷いた。