池の怪



 あそこには、近づいちゃいけない。

 子供のころ、近くの池や川でザリガニや魚を探している時に、大人に見つかるとそう言われたものだ。
「あそこにはね、昔おぼれ死んだ子供の幽霊が出るからよ。一人ぼっちで死んでしまったから、友達がほしくて、池や川に近づく人を引きずりこもうとしているの」
 子供心に、それは作り話だろうかと疑問視した。一方でそんな幽霊がいるのか知りたくもあった。だから大人の目を盗んでは、いつも池や川の傍にいた。

 川の近くに行くと、嫌な気配がある。いつからそれを感じ取るようになったのかは分からないのだが、子供の時にいつも行っていたあの池や川の辺りを歩いてみると、何かいるような、妙な気配を感じ取った。
 夕方、涼しくなってきたとはいえ、まだまだ暑さは残っている。川や池のあたりは涼を求めるのにはいい場所だが、一方で危険も多くはらんでいる。
(幽霊がいるのかどうか知りたくて、ここに来ていたんだった)
 さらさらと流れる小川を見ながら、アーネストは思い出した。いつもザリガニやメダカやヤゴを捕まえに、ここにきていた。川も池も、まだ昔のままだ。砂利道をしばらく歩いて行くと、池がある。池は浅く、彼の腰くらいまでしか深さがない。濁った池の底には、水棲生物の巣と水草とどぶしかないはずだ。周りは大量の雑草が生い茂り、どこまでが土の上でどこからが池のふちなのかよくわからない。
 池の周りには立ち入り禁止の看板が立てられ、子供がのぼれない工夫をこらした柵も作られている。これだけが、アーネストの過去にはないものだった。彼が子供のときには、こんな柵は作られていなかった。

 十歳くらいの頃だった、あの女の子を見たのは。
 日の落ち始めるころに表れたその女の子。麦わら帽子と白いワンピース、よごれた黄色のサンダル。長い黒髪は背中まで届き、前髪もまた長くて、顔が目の下まで隠されてしまっている。
 一目見た時、不思議な子だと思った。池の傍に立つその少女は、五歳くらいで、くすくす笑っている。なぜ笑っているのかよくわからない。話しかけようとすると、その少女は身をひるがえして砂利道を走り去って行った。翌日の昼、その女の子はいなかった。だが夕方になると、池の傍に表れた。同じ服装でくすくす笑い、話しかけようとすると逃げてしまうのだ。……近所の子供ではないことは確かだった。女の子は日が経つうちに少しずつ近づいてくるようになったが、話しかけようとすると逃げ出してしまった。
 さらに何日か過ぎて、雨が降った。川が増水し、池の水かさも増した。そんな時こそ採れる生き物がいるので、無鉄砲な彼は親の目を盗んで川へ出かけた。
 女の子はいた。まだ昼間なのに。川の傍に立っていた。大雨なのにカサもささないで。
「来てくれたんだ」
 女の子が初めてしゃべった。だがなぜなのだろう、妙にねっとりした、嫌な声だった。一声聞いただけで背筋が総毛立った。直感が告げていた、目の前にいる女の子は、人間じゃない。
 女の子は、初めて自ら近づいてきた。雨のたたきつけてくる砂利道をゆっくり歩いてきたのだが、砂利を踏んでいるはずなのに、音は全く聞こえてこなかった。そういえば、今までもそうだった。女の子に気を取られていて、足音に全く気がつかなかった。女の子は全身がずぶぬれだった。雨に打たれているからかもしれないが、いまはそんなことどうでもよかった。恐怖が全身を支配し、その場から逃げだしてしまった。
 女の子のくすくす笑う声が、背後から聞こえてきた。振り返れなかった。
 家に帰りついてもなお、あの女の子の笑い声が耳の奥にこだましていた。

 空が曇ってきた。そろそろ夕立かもしれない。
(あの日から、ここへは行かなくなったな)
 池を見つめながら、アーネストは思った。雨に打たれてずぶぬれとなったあの女の子の姿は、今も鮮明に覚えている。彼女がゆっくりと近づいてきた時、総毛立ったのも覚えている。あのねっとりした声も覚えている。あれは人間の声とはとても思えない。
 そういえば、思い出した。あの女の子の元から逃げ出した後の数日間、スペーサーに怖がられた。なぜ怖がるのか聞いてみると、背後に、ずぶぬれの女の子が立っているというのだ。振り返ってもその女の子はいなかった。そのうち、スペーサーは怖がらなくなったが、さらに数日間は変な目で見られたものだ。
(昔からヘンなもん見る奴だからなあ……)
 背後から嫌な気配。
 くすくす笑う声。ねっとりした、嫌な女の子の声。
「また、来てくれたんだ」
 全身に冷や汗をかいたアーネストは後ろを向けなかった。いや、向かないように必死で前を見つめていた。後ろを向いたら終わり、直感がそれを告げていた。
 体がそのうち、金縛りにかかったかのように動かなくなった。
「いっしょに、あそぼ」
 声がさっきよりも近づいてきている。何かがすぐ後ろにいる。
 冷たいものが背中に触れた。その冷たいものが服を握った。
 突然閃光がほとばしり、耳をつんざくような雷鳴が辺りに響き渡った。ドザーと勢いよく雨粒が降り注いできた。
 不意に、気配が消えた。金縛りが解けたアーネストは回れ右すると同時に、走り去った。雷鳴だけが彼を現実に引き戻す手伝いをしてくれた。雨は彼を引きとめようとするかのように激しく降り注いでいた。

「カサも持たずに散歩いったわけ? 天気予報見てないの、アンタ!」
 ヨランダは、ずぶぬれで帰ってきたアーネストを見るなり、驚きあきれて声をあげた。
「うっせーな。カサ持ってくの面倒だったんだよ」
 アーネストはそのまま家に入った。
「ああ、ひでえ目にあった……」
 ヨランダに投げつけられたタオルで体を拭きながら部屋に向かって歩いていると、自室から出てきたばかりのスペーサーと鉢合わせする。アーネストに小言を言おうとした彼だが、元から丸い目がさらに大きく見開かれ、口を開きかけたまま固まった。びしょぬれなのを驚いているのかとアーネストは思ったが、その表情を見て、違うと気がついた。
 あの時の表情だ。
「また、連れてきたのか……? やっと追い出してやったのに……」
 スペーサーの口から、やっとその言葉がしぼりだされるまでに、たっぷり一分はかかったに違いなかった。
 くすくす。
 女の子の笑い声が、アーネストのすぐ後ろから聞こえてきた……。