急ぎのときには



「ねえ、ちょっといいかしら?」
 昼ごろ、ヨランダが珍しく、研究所を訪ねてくる。
 古代文字の文献を紐解いていたスペーサーは、半ば疑いの目で、半ば好奇心の目で、ヨランダを見る。止まり木にいる使い魔のカラスは、羽を広げてギャアと嫌そうな声で鳴いた。
「何か用なのか?」
「うん。用が無くちゃ来ないわよ。実はね」
 身を乗り出す。
「魔方陣を描いて欲しいの」

 魔方陣は、魔力をこめたチョークで描かねばならず、一般人が図面をまねてそこらの木の枝で地面に描いて術を唱えても、何の効力も発揮しない。また、陣を描くチョークは特別な薬草を用いなければ作れないため、陣を描けるのはちゃんとした研究所やアトリエを構える魔法使いだけに限定されている事が多い。
 魔方陣には、書き方によって様々な効果がある。解呪、移動、攻撃、防御、監視。
「今日の夕方までに、隣の国の城下町へ行きたいのよ! わかるでしょ、あの城下町よ」
 知らないわけではない。隣国の城下町といえば、一つしか考えられない。そして、その城下町にどんな店があり、どんな施設があるのかも知っている。しかし、交通手段があるのになぜわざわざ魔方陣で飛ばしてくれと頼みに来たのか、わからない。
「明日行くわけにはいかないのか? 馬車があれば半日で――」
「だから、今日の夕方までって言ってるじゃないの!」
 ヨランダは机を叩く。叩いた拍子に、羊皮紙が何枚かひらひらと舞い上がった。
 スペーサーは目の前のシーフがなぜそれほど切羽詰った表情で頼むのかわからなかったが、見た限り、特に悪さはしなさそうだと判断し、承諾した。

 研究所の床に散らばった書物をどければ、魔方陣を描けるだけのスペースができる。
「君の帰りまで面倒は見られんからな、用が済んだら自分で帰ってくるんだな」
「それくらいわかってるわよ! 早く描いて」
 ヨランダにせかされるが、スペーサーは落ち着き払って、のんびりとチョークを取り出し、床の上に大きな円を描く。線を踏まないように気をつけながら、巨大な円の中にさらなる円と、いくつかの奇妙な図形、文字を書き込んでいく。
「ほれ、その円の中に立つんだ。ただし、描いた線を踏まないように。術が狂うから」
 ヨランダは言われたとおりに、魔方陣の中央に立つ。スペーサーが何やら唱え始めると、魔方陣が白く光り始めた。
「行け!」
 一喝と同時に、ヨランダの姿はフッと消えた。
 スペーサーは、荒く息をつきながら、床の上に座り込む。
「はあ、国レベルでの長距離移動は疲れる……。もうあの時ほどの魔力はないのか……」
 一方、魔方陣によって転送されたヨランダは、望みどおり、隣国の城下町の、入り口に到着した。
「やったー! これであのお店にいけるわあ!」
 ヨランダは一目散に、目当ての店に向かって駆けて行った。

 翌日の夕方。
 両手いっぱいに荷物を抱えたヨランダが満面の笑みで、研究所に入ってきた。
「やあ、おかえり」
 彼女の抱える荷物に呆れながら、スペーサーは言った。ヨランダの抱えている荷物に描かれたマークはいずれも、この両国で有名なブランド店のもの。中身はもうわかっている。
「で、満足したのか?」
「うん。ありがとう」
 ヨランダは満足したようだ。
「昨日の夕方が、セールの初日だったのよね〜。もちろん、欲しいもの、全部買っちゃったわあ」
「それは良かったな」

 数日後。
 研究所のドアが乱暴に開けられ、アーネストがずかずかと入ってきた。
「よー、魔方陣描いてくんねー? 山向こうの町までギルドでそろって行く事になったから」
「は?」
 聞けば、いつも通る山道が先日のがけ崩れで完全に埋まってしまい、当分通行できなくなったからだという。近隣のドワーフたちは大喜びで土砂の取り除きを行っているが、大規模ながけ崩れのため、全部の土砂や岩を取り除くには一週間もまだかかるらしい。そんな時、山向こうの町に住む住人から伝書鳩でギルドに依頼書が届いたため、急遽、その町まで行かなければならなくなったのである。
「国レベルでの移動ではないとはいえ、短距離の転送にも私の魔力は消費されるんだぞ。どれだけ疲れると思って――」
「そんなに遠くないからいいだろ」
 強引に押し切られ、スペーサーは外に出る。平らな地面を選び、チョークで直径三メートルの魔方陣を描く。描きおわる頃には、ギルドの戦士たちがぞくぞくと集まってきた。ざっと十五人。腕利きが総出で出かけることになったのだろう。その人数に呆れながら、スペーサーは戦士たちに言った。
「ほれ、線を踏まないように、陣の中に入るんだ」
 戦士たちが魔方陣の中に並ぶと、スペーサーは転送の呪文を唱える。
「行け!」
 一喝と同時に魔方陣の上の戦士達は消えた。
 スペーサーは、また荒く息をつきながら地面の上に座り込んでしまった。
「あれだけの大人数とは、思わなかったなあ……疲れすぎて困る……」

 後日。
 カラスがやかましく鳴き、嫌悪の感情をあらわにする。
 シーフギルドのシーフたち。ざっと十人。ヨランダを先頭にして入ってくる。
「ちょっと行きたいところがあるんだけど――」
 羊皮紙から顔も上げず、スペーサーは指先をシーフたちに向け、クルリと回す。
「うるさい」
 彼の言葉が終わると同時に、シーフたちの姿が蛇や蛙に変わり、床の上にボトボト落ちた。
「私は移動手段じゃないんだ。さっさと帰れ」
 パチンと手を叩くと、中に瓶が現れる。そして瓶の中に蛇や蛙が詰められた。
「当分は、結界でも張っておかなければならんな。私を交通手段あつかいされてはかなわん」
 瓶をカラスに持たせて窓から飛ばし、スペーサーは愚痴をこぼした。