辞令



「あの藪医者がまた地球本部へ呼びだされたのかよ」
 機材を運ぶ途中、医務室のドアに貼りだされた張り紙(スペーサーは、ドアの電光掲示板を使ったためしがない)を見て、アーネストは声をあげた。
「……ということは、あの藪医者がいない間の医務室は」
 後輩のイルシアが留守番をすることになる。
 悪夢がよみがえる。ただのかすり傷に異臭のする軟膏をべったり塗りつけられた記憶。彼女に診てもらうくらいなら、アシスタントロボットに診てもらう方がはるかにましだった。
「……できるだけ怪我しないようにするか」
 青ざめたアーネストは、さっさと機材を運んで行った。
 スペーサーが地球本部へ呼び出され、手続きを済ませた彼が地球行きの特急便に乗ったことは一時間も経たないうちにステーション中に知られることとなった。

 医務室。
 イルシアは留守番。彼女は、スペーサーが本部に呼び出されて地球に向かったことは知っているのだが、なぜ呼び出されたのかは知らない。
「あーあ、また本部が先輩を呼びだしちゃって。今度はいったい何かしら。わたしを正式にステーションの医者として登録してくれるとか? それとも、わたしがあんまり役立たずだから先輩が直々に上の人に話して外させてしまうとか?」
 医務室のベッドに腰掛けたまま、彼女は悶々としていた。いまだに自分が上達しないのは認める。毎日大目玉をくらっているのは仕方がない。もう一度教科書を開いて読み直しもした。とはいえ、いっこうによくなるようすは、ない。
(やっぱり先輩、愛想尽かしたのかなあ)
 うじうじしていても、仕方がない。スペーサーが戻ってくるまでは自分がここの医師なのだからしっかり患者を診なければならない。イルシアは両手で頬をバチンと挟み撃ちにして気合いを入れた。
「さあ、やるわよ! 先輩がいないあいだくらい、しっかりしなくちゃ!」

 地球行きの便。個室で書類束をバラパラめくって中身を確認していたが、スペーサーは不意にそれを傍らのデスクにドサリと乱暴に放り投げた。書類束は、デスクの上にぶつかると、抗議の声を上げるかのようにヒラヒラと数枚まいあがった。
「全く、なんで今頃になって……。配置換えでもさせるつもりか?」
 新しい医師が登録されたのだろうか。それなら本部から通知が先に来るはずだ。だがあの通知には、「本部にただちに帰還せよ」としか書かれていなかった。
「それとも、ほかの見習い医師の面倒を見ろというのか? 冗談じゃない、イルシアで手いっぱいなんだ、これ以上面倒みてられるか! そいつだけは、上層部の命令であっても断固として却下させてもらう!」
 彼の怒りをよそに、宇宙船は地球へ向かって進んでいった。
 地球に到着した宇宙船。港から、本部まで専用車に乗っていく。身分証明書を見せて本部へ入り、苛立ちを抱えたまま、彼は廊下を歩いて行った。

 ステーション。
 皆、仕事の際には、これまで以上に細心の注意を払うようになった。理由は簡単、怪我をしたくないからだ。間違った方向に一生懸命突き進むイルシアに診てもらうより、嫌みや愚痴を言われながらもスペーサーに診てもらう方がずっと安心できるから。それだけ気を使っていたおかげでか、さいわい、ステーションの住人は誰一人として、医務室の世話になることはなかった。
 地球時間で言うところの一週間後、ステーションに本部から連絡が入った。その連絡がステーションじゅうにいきわたったとき、皆衝撃を受けた。

 地球本部。
「転任?」
 スペーサーは、渡された辞令を読み、元々ハスキーな声を少し裏返らせて首をかしげた。
「その通り」
 彼を初めとしたステーション配属医師たちの上司である、宇宙開拓医師連盟の老人たちはそろってうなずいた。
「地球外銀河第一ステーションへ配属することが決定した。第二ステーションは、君の後輩のイルシアを正式に医師として配属する」
「あれをですか?!」
 スペーサーは今度こそすっとんきょうな声をあげてしまった。
「まだイルシアは一人前とするには不十分すぎます!」
「だが彼女は既に見習い期間を脱したのだ。彼女一人でも医務室を任せられるのではないかね」
「出来ないから、抗議しているのです!」
 だが彼の長い抗議もむなしく、老人たちは彼をさっさと第一ステーションへと送り出してしまったのだった。

「えーっ、先輩が第一ステーション勤務に!?」
 イルシアは、通知を読んで驚きの声をあげた。続いて、
「そんな、わたしまだ未熟なのに……」
 とはいえ、彼女一人が抗議したところで、宇宙開拓医師連盟の、頭コチコチの老人たちの意見がひっくりかえるわけがない。スペーサー自身本部で長いことあれこれ並べ立てて転任を拒否したのに、結局は送られることになってしまったのだから。
 アシスタントロボットたちが彼の荷物をまとめて、運んで行った。イルシアは青ざめた顔で椅子に座っていた。一人になるのは不安だった。スペーサーに頼ることが出来なくなってしまう。作業の添削をしてくれるひとがいなくなるのだ。まだダメだしばかりされているイルシアにとっては、この本部の通知はとんでもない衝撃であった。
 ステーションの住人たちの間でも、あっというまにその衝撃が伝わった。診察嫌いでいつも不機嫌だが腕のいい医者がいなくなり、代わりに見習いのイルシアがその後を引き継ぐ。本部から届いたこの通知については、賛否両論だ。イルシアの治療はまだまだスペーサーには及ばないし、薬間違いもたびたびやらかす。一生懸命なのは認めるが……。一方、性格の悪いスペーサーが転任することで、意地悪な治療を施されずに済むという利点はある。異常にしみる消毒薬や、医療機械での拷問や、そのほかいろいろ。そういった悪夢から逃れることが出来るのだ。怪我をしやすい管理課にとってはありがたいことであるはずだった。が、やはりイルシアの治療よりはスペーサーの治療を受ける方がずっとよかった。

 転任の日は、あっというまに訪れた。
(本部でやったとはいえ、引き継ぎは終わっている。あの馬鹿がどこまで患者を診られるかが唯一の悩みのタネだが、転任する以上私の監視下から外れるから仕方ない)
 本部から直接スペーサーは第一ステーション行きの宇宙船へ載った。第二ステーションにある彼の私物は貨物船に乗せられることになった。新しい職場についた彼は、貨物船から自分の荷物を受け取り、職員に案内されて、医務室に入った。デザインもインテリアも、勤務していた第二ステーションとかわらない。違いがあるとすればベッドの数とアシスタントロボットの製造番号だけだろう。それを除けば、何もかも、第二ステーションの医務室と一緒。
「やかましい管理課がここにいないことを祈るか」
 荷物を広げて整頓していると、医務室の通信機が通信を受け取った。一体誰からなのかと思いながら、スペーサーは通信回線を開いた。
『せんぱああああああい!』
 泣きそうなイルシアの顔が画面いっぱいに映し出され、スペーサーは数秒間、言葉を失った。
『先輩! 大変ですう! オイル火傷の薬がどこにも見当たらないんですう!』
 数秒の口開きの末、スペーサーはやっと言葉を絞り出した。
「く、薬ならDの棚の奥……」
 すぐイルシアの顔が消えて、ドタドタとやかましい足音。回線を切るのも忘れてしまっているほどあわてているのだ。しばらく棚をさがす音が聞こえ、イルシアが薬瓶を持って医務室の奥へ向かうのがモニターに映った。
(私に薬の事を聞くためだけに回線を開いたのか? 馬鹿か、あいつは!)
 スペーサーはため息を一つついて、通信回線を切ろうとした。が、それより早くイルシアが駆け足で戻ってきて、
『先輩! これでいいんですか?!』
 わざわざ、寝台に乗せた患者を、寝台ごと運んできて、手当てした個所を見せる。
「え、ああうん。それでいい……」
『あーよかった。あとはカルテ書いて終わりですね。また通信しますね、それじゃあありがとうございました』
 イルシアはすぐに通信を切ってしまった。スペーサーは、しばらく目の前のモニターを穴のあくほど見つめていたが、やがて言葉を一つ絞り出した。
「……どこへ行っても、逃れられそうにないな」