こじれた風邪
たぶん、少し無理をしすぎたのだろう。
ベッドの中で、スペーサーは思った。
体調管理は社会人として当たり前のことなのだが、彼は毎年、最低一回は病気で寝込む。大半は風邪だが、酷ければインフルエンザの時もある。
(しかし、これほどひどいとはな……)
熱は四十度ちかい。咳はひどく、話をすることもままならない。気持ちが悪く、胸がむかついている。もちろん食欲など全くない。風邪のひきはじめだから安静にと、医師に言われているので、彼としてはそれを忠実に実行しているつもりだった。
自室のドアに「騒音禁止!」「入室絶対禁止!」の看板まで下げて。
「また寝込んでんのかよ」
部屋の戸口に下げられた小さな手製の看板を読んで、アーネストは呆れた。
「毎年恒例のイベントじゃねーか、あいつが病気でぶったおれるのは。んでもって、ぶったおれたあいつを俺が病院に引っ張ってくのも、毎年恒例の行事だぜ」
「それだけ、無理を重ねてるってことよ。助教授としての仕事以外にも抱えてることあるんだから。きっと、体がもたなかったのね」
ヨランダは無関心そのものであった。
「俺は少々無理しても平気だけどな。健康優良児ってヤツだし」
アーネストの言葉を、ヨランダは心の中で返した。
(ま、馬鹿は風邪引かないって言うから)
頭痛が酷すぎる。
ため息の代わりに咳が出る。
だるい。
熱い。
気持ち悪い。
眠くない。
ベッドの中で、スペーサーは、寝るに寝られない状態。熱が出ているため、体が熱い。しかし布団をかぶらないとかえって体を冷やしすぎる。ましてや雪の降っているこの真冬に……。
室内は暖房を入れていないので、気温は低い。普通なら布団の中でぬくぬくするだろう。が、高い熱が出ているときは熱くてたまらなかった。
「あつい……」
我慢できず、彼は布団をはねのけた。寒い室内の空気が体に触れる。ひんやりして涼しく感じた。
(こりゃいい気持ちだなあ)
ほてった体が少しずつ、少しずつ、冷たい空気に当てられて冷えてくる。
(冷やすのは良くないが、あと一分くらいならいいか)
薬を飲んだ後なので、咳はだいぶおさまり、眠気が少しずつ頭を支配し始める。眠れ、眠れ。
彼はいつの間にか、布団をはいだままで眠ってしまっていた。
カチ、カチという時計の音が聞こえ、彼は目を覚ます。いつのまにか寝てしまったことを思い出し、時計を見る。
午後一時。
(三時間も寝てしまったのか?!)
布団をはねのけたまま寝てしまったので、今度は体がおそろしく冷えていた。布団をかぶると、今度はその冷たさに驚いた。彼の体温で温められていた布団は、今度は彼を温めるどころか、冷やそうとしている。布団がまた温まるまで、まだ時間がかかるだろう。
(こ、今度は寒くなってきた……)
一時間後、熱がぶり返した。
(まずいな。少しの涼しさが欲しかったのに、大幅に体を冷やしてしまうとは。調子が悪化しても当たり前じゃないか)
スペーサーは爪を噛んだ。ひどく苛立って発散のしようがないときによくやる癖だ。良くないと自覚しつつも、なかなか治せない。
熱とともにぶり返した酷い咳に、呼吸を妨げられた。
「天気は良くなったわね。雪がやんで、晴れてきた」
ヨランダは窓の外を眺めながら、乾燥機から洗濯物を取り出し、てきぱきと畳んだ。畳み終わった洗濯物を片付けて廊下を通る。
「でも、病気はぜんぜん良くならないみたいね」
ヨランダの考えたとおりであった。スペーサーはまたしても四十度近い熱にうなされていたのであった。頭痛はひどい、気分は悪い、吐き気はなかなかおさまらない、体がほてって熱くて仕方ない。
(もう嫌だ、風邪なんて……)
毎年病気で倒れる己の体を呪いながらも、スペーサーは布団の中でダンゴムシのように縮こまっていた。体温で布団はすぐ温められ、むしろ熱くなった。しかし今度は布団をはねのけるわけにはいかない。また気づかぬ間に眠ってしまって体を冷やすだろうから。
咳がひっきりなしに出てきて、喉が痛くて仕方ない。元からハスキーな声がさらにかすれて聞き取りにくくなるほど、声も枯れている。
三十分後、トイレで嘔吐した。
「はあ? 風邪をこじらせすぎたって?」
アーネストの声は、驚きを通り越してあきれ返っていた。
結局スペーサーは再度病院に担ぎ込まれ、点滴治療を受けざるを得なくなってしまったのだ。入院とまではいかなかったが、完治までに一週間はかかるだろうとのこと。本当は二、三日で治る予定だったのだが――。
帰宅途中の車内で、運転しているアーネストは、助手席で荒い息をつきながら頭をダラリと前に垂らしているスペーサーを横目でチラリと見た。何度も酷い咳に襲われ、呼吸することすら苦しそうだ。
赤信号で一時停止する。アーネストはそこで、口を開いた。
「……お前な」
「何だ」
そう返事したつもりだったが、スペーサーの声はかなりかすれており、アーネストにはほとんど聞こえなかった。
「休むときはしっかり休めよ。お前が墓にはいるにはまだ早いんだからな」
スペーサーは荒い息をつきながらも、胸が熱くなるのを感じた。まさかこの男に心配されるとは。
「わかった……」