ケルピー
「ケルピーを馴らす?」
研究所の裏手の池で、ヨランダはきょとんとした。目の前にいるのは、シーフギルドのメンバーの一人、最年少のシーフである。名をマクスという。
顔にそばかすのある、まだ歳は十五弱であろうマクスは、愛嬌たっぷりの笑いを顔に浮かべ、ヨランダに言った。
「この池にはケルピーがいるじゃん。そいつを馴らせばいい乗り物になってくれると思って。馬だとひづめの音がするし」
「でもケルピーって、水の精なんでしょう? 外に出てきてくれるとは思えないけど」
ケルピーは水の精で、馬に似た姿をしている。
この池のケルピーは、たまに池へ訪れるスペーサーにはかなり懐いている。彼がケルピーを餌付けているというわけではないのだが。
「それより、ケルピーをどうやって馴らすのよ?」
「大丈夫だよ、襲わないって分からせればいいはず――」
マクスは水面に身を乗り出す。ヨランダはその少し後ろから身を乗り出す。池の水面は透き通り、底が見えるかと思われるほどだ。ケルピーの住む水辺は、綺麗になる。
水底は水草に覆われている。岩や石にはミズゴケが生えている。
底のほうに、何か動くものが見えた。魚ではない。もっと大きなものだ。
その大きなものが水面に上がり、姿を現した。
馬。
普通の馬より一回り大きく、立派な体格。透き通るような美しい色の体に、純白のしなやかなたてがみ。真珠のように白いひづめの後ろには、魚のひれを思わせる突起が生えている。
ケルピー。
「これがケルピー……」
ヨランダは思わずその水の精に見入った。マクスはぽかんと口を開ける。この池にケルピーがいることは知られているが、実際にこの目で見るのは初めてだったのだ。
ケルピーは、深緑色の目で、二人の人間を見る。好奇心を抱いているのか、単に馬鹿にして見下しているだけなのかは分からないが……。
マクスは驚きから冷めると、それでもどきどきしながら、ケルピーに近づいてみた。ケルピーは池の真ん中にいたからだ。
ケルピーがその立派なたてがみをふるった。
「マクス!」
ヨランダが声を上げると同時に、ケルピーがマクスの襟元を咥え、背中に乗せる。マクスは背中から降りようとするが、まるで糊のように、ケルピーの背中がマクスの体を引っ付けていて、マクスは降りる事ができなくなっていた。
「降りられないよお!」
マクスは震えた。ヨランダは、何とかしてケルピーを足止めしようとするが、ケルピーは池の真ん中までまた戻ろうと、優雅にたてがみを振りながら、彼女に背を向けた。
「待て、ケルピー!」
声が聞こえた。
マクスもヨランダもケルピーも、その声のしたほうを振り向いた。
スペーサーが、使い魔のカラスを肩に載せて、立っている。
裏手の薬草畑から出てきたらしい。片手には薬草の入った籠を持っている。空いた片手で、彼はケルピーを指す。
「よせ。そんなものを喰らっても、美味くはないぞ。例え子供でもな」
そんなもの呼ばわりされたマクスは、涙を浮かべながらも、魔法使いをにらみつけた。
「なんで『そんなもの』なのさっ」
「やかましい、小童が。降りたければ大人しくしていろ、間抜けめ」
スペーサーはマクスを黙らせる。マクスは大人しく従う。スペーサーを怒らせると何が起こるのか、シーフギルドの者は皆、知っているからだ。そして今、マクスを喰おうとしているケルピーをとめられるのも、彼一人だけだ。
ケルピーは嫌そうにたてがみをふるう。マクスを手放すのが嫌なのだ。それでもスペーサーのほうに歩み寄ると、しぶしぶマクスを背中からふるい落とした。マクスは転がるようにして起き上がると、ヨランダに抱きついた。
ケルピーはブルルと鼻を鳴らし、不満をあらわにする。スペーサーはその鼻面を撫でてやり、なだめた。やがてケルピーは諦めたのか、しぶしぶ、マクスを見るのをやめた。
「た、助かった……」
ヨランダとマクスは脱力して、へたりこんだ。
その後、カラスに頭をつつかれながら、シーフ二人はこの池に来た理由を白状した。
理由を聞いたスペーサーは咎めはしなかったが、大笑いした。それも、本心から可笑しがっている。
「ケルピーの好物は子供の内臓だぞ。その小童を生贄にして馴らしたかったのか? ケルピーが私に懐いているのは、私が以前、涸れた池に水を満たしてやったからだぞ。恩を忘れない奴だからな、お前達と違って」
ケルピーは子供の内臓が好物。聞いたマクスは改めて身震いする。彼がケルピーの背中に乗せられたのは……。スペーサーがケルピーをとめなかったら、今頃マクスは――。
スペーサーは、笑いすぎで目尻に浮かぶ涙をぬぐった後、言った。
「そんなにケルピーが欲しいなら、連れて行ってもいいぞ。私が飼っているわけではないからな。ただし、連れて行ったが最後、ギルドからは子供が一人もいなくなることを覚悟するんだな。それに、ケルピーはそう簡単に人に心を開く事はないからな。プライドが高いし、相手の邪な心を敏感に察知する。お前達がどんなに丁寧に扱おうと蹴飛ばされるのがオチだ」
その言葉に賛同するかのように、ケルピーは鼻を鳴らした。ケルピーにとって、マクスはただの食事。そしてプライドの高いケルピーはそう簡単に人間には心を許さない。
スペーサーはケルピーの背中を軽く叩くと、二人のシーフに言った。
「で、どうする。連れて行くのか行かないのか」
問われた二人は、ぎくりとした。確かにケルピー目当てでこの池に来たものの、ケルピーが人間の子供を喰らい、しかも簡単に人に懐かないと知った以上、連れて帰ること自体にためらいが生じた。シーフギルドにケルピーを連れて帰っても、子供の内臓を食わせるわけにはいかない。ましてや相手はただの馬ではなく、水の精なのだ。
「え、ええっと」
マクスはやっと口を開いたが、そこから言葉は出てこない。元からヨランダはケルピーを連れてくる事について乗り気ではなかったので、マクスの返答を待っている。
マクスが何と返答しようか迷っているのを見て、スペーサーは二人にチョイと指先を向ける。すると、一瞬だけ霧のようなものが二人を包み込んだと思うと、二人はとろんとした表情になった。
「ま、これだけ迷っているようなら、ケルピーを連れて行かないほうが幸せだろうな」
立て、と命令すると、二人は立った。そして、ギルドへ戻れと命令すると、二人は大人しく彼に背を向けた。
二人が歩き出してから、スペーサーはケルピーに言った。
「お前を本当に馴らせる人間など、この世には一人もいないさ」
ケルピーは彼の顔に、鼻面を摺り寄せた。