夜中
深夜。満月の光が辺りを照らし、星の明かりが雲ひとつない夜空を飾る。町の明かりはほぼ消えて、町中の者たちが眠りについたことを示していた。
町外れを更に外れたところにぽつんと建っている一軒家。この町唯一の年老いた呪術師の家である。孫のセラはもう既に夢の中であった。
「こうして顔をつきあわして喋るのも、ずいぶん久しぶりじゃのお」
老婆は蝋燭のともった燭台ごしに、向かいに座った相手に話しかける。
「そのようだな」
答えた相手は、一人の老人。老婆自身、自分の年齢すら忘れてしまうほど年老いている。老婆と親しそうな口を利いているこの話し相手も、かなりの年齢であろう。
老婆は笑った。
「ふぇ、ふぇ。懐かしいもんだねえ、こうして顔をつきあわすだけで、あの時の思い出がよみがえるわい。師のもとについたときの、あの若かりし日々を」
「そうだなあ。あの頃は師の教えをよーく守っていたもんだ」
蝋燭の明かりで照らされたその老人の顔には、いくつもの深い皺が刻まれている。その目は遠い過去を思い出している。
ふと、その目が伏せられる。
「あの頃に戻れたら……」
「それは、言わんほうがええ。この歳になって今更取り返しなぞ、つくはずがないんじゃ」
老婆はたしなめるように言った。向かいの老人の目は伏せられているまま。その口から、ため息が漏れた。
「覚えているかね、八十一年前のことを」
問いかけに、老婆はこっくりとうなずいた。
「国の半分が、禁術の暴走によって消失してしまったのお」
「そう、若かったからな。使えばどうなってしまうかも考えず、古代文字を読み解いていた。そして、術の組み立てが完成した時、悲劇は起きた……」
「その後、師からお前さんは破門されたんじゃったのお。人知れぬ辺境で行方をくらましたか、野垂れ死んだかと思っていたら……」
「言わんでくれ」
今度は相手から話を中断された。呪術師の老婆は、深く被っているフードを、やや上にずり上げる。その奥から、深い皺の刻まれた顔と、細められた両目が見えた。その両目に映っているのは、揺らめく蝋燭の火と、向かいの話し相手の老人。
「再会したときにはびっくりしたわい。昔とは変わり果てた姿だったからのお。最初は誰だか分からなかった。お前さん特有の術の波動で、やっと判別できた」
「構わんだろう、どんな姿になろうが。……己を戒めるためだった」
老人の顔に、また一つ深い皺が刻まれる。老婆はそれを笑う。
「だからってあの姿はなかろうに、わしがあまりにも笑ってやったもんだから、お前さんは怒って、しばらく姿を見せなんだ。そしてまた姿を見せたら、今度はまた別の姿になっておったな。周辺の住民はお前さんを判別できなかったが、わしにはちゃんと分かった」
蝋燭の火が、静止する。
二人の老人は、向かい合ったまましばらく口を開かなかった。
先に口を開いたのは、老婆のほうだった。
「わしは人嫌いじゃったからな、町の外れにしか住まなんだ。おかげでセラはなかなか友達が出来ずに寂しそうじゃが。しかし、なぜお前さんは、ずっと住み続けているんじゃ? 償うためかの?」
「それもある。だがそれ以上に――」
続けようとする老人の顔に、蝋燭の揺らめきによる陰りが現れる。
「もう一度、やり直したかった……」
家の外で、風がうなっている。壁を叩き、家はギシギシと音を立てる。老婆は言った。
「この歳になって、やり直せることがあるのかね」
「あると、思いたい」
老人はため息をついた。傍らに立てかけられた杖が、火の光を反射した。老人の右腕には、色あせた腕輪が嵌められている。素材は分からないが、金属でも宝石でもない。腕を動かすと服の袖に隠れてしまったが、その腕輪には、術を扱うものならば誰でも知っている、禁忌の文句が彫られている。口に出してその言葉を読めば、己に災いが降りかかるとされ、主にこの文句は誰かの罪を戒めるために使われる。この文句が消えるときこそ、その罪を犯した者は解放される。
「その腕輪、外す気はあるのかえ?」
「……」
老人は答えなかった。老婆は皺だらけの手で、蝋燭の火をつまむ。彼女の指の中で、蝋燭の火は小さな馬の形になり、蝋燭の芯の周りを飛び跳ねる。やがて火の馬は小鳥に変わる。小鳥は歌わずに周りを飛び、また芯の上に止まり、もとの火に戻ってしまった。
「今宵は、風が冷たい……」
老人は壁の方を見る。風などはいっていないはずなのだが。
老人は、椅子から、よっこらしょと立ち上がり、杖を取る。
「夜も更けてきた。そろそろ、お暇するとしよう」
「ああ、気をつけて帰れよ、どんな姿をしていても、お前さんはもう歳なんだから」
老婆は意地悪く笑った。杖をつきながら歩く老人は、戸口を開ける前に一度振り返った。
「その言葉、そっくりそのまま返しておくぞ」
扉を開け、強い風の吹いてくる外へ出る。満月が雲に隠れ、辺りは闇に閉ざされた。
再び満月が下界を照らす。満月の下、一人で歩いているのは、若者であった。夜風の寒さに少し身を震わせたが、上着を前で合わせたときに、袖の下から、色あせた腕輪がちらりと見えていた。
はるか遠くから、カラスの声が聞こえてきた。