冷房



「エアコン壊れちゃった」
 ヨランダはがっくりした表情。
「だから言ったろうが。調子悪くなったと思った時点で修理屋に来てもらえと」
 スペーサーは同情のかけらも顔に出さず、万年筆を原稿用紙に走らせ続けている。
「それで、何で私の部屋に来てるんだ?」
「だってここ涼しいんだもん」
 真夏日の真昼。気温は三十八度。扇風機や冷房がなければ過ごしにくい日だ。雲ひとつない青空には太陽が陣取り、熱をコンクリートの地面に放射中。おかげで気温は午前中から三十度を越えて、海とプールが大人気。
「うちわで扇ぐと疲れちゃうし、シャワーやプールで冷たくなってもすぐ暑くなるし。あなた、大学と図書館と商店街以外に何処へも出かけないで、部屋にこもってばかりじゃん。いいじゃない、使わせてくれても」
「涼を求めるためだけに部屋に入られても困る。仕事の邪魔だ」
 彼は、何かしているときに邪魔が入るのが嫌いなのである。
「あら。黙って涼んでいてもダメかしら?」
「……何もしないなら、いてもいい」
「アラ、ありがとう!」
「が、夜は遠慮してもらおうか?」
「当たり前じゃないの。……あなたが変な考えを起こしたら困るし」
「何だって?」
「アラ、なんでもないの」

 朝も早くからセミが鳴き喚いている。太陽がじりじりと朝も早くから照り付けている。
「こんなクソ暑い週に研究発表とは、ついてないな」
 スペーサーは愚痴をこぼしながら荷物をひっつかみ、遠方で開催される発表会の会場にむかうべく朝の六時にさっさと出て行った。それを自室の窓から見送りながら、ヨランダはにっこりと笑った。
「戻ってくるまで、使い放題ね!」
 温度計は八時を過ぎると三十度を指している。涼しい風は少しだけ吹いているが、数時間も経てば三十五度に達するだろう。さてさて、
「もう汗が出てきちゃうし、冷房冷房!」
 ヨランダは遠慮なくスペーサーの部屋に入った。きれいに掃除の行き届いた部屋の、デスクの上に、エアコン用のリモコンが無造作に置かれていた。
「ええっと、このくらいね」
 やがて室内に冷たい風が下りてきた。

 研究発表の会場。
 スペーサーは壇上にいながら、胃の痛みをこらえていた。
(くっ、こんな時に痛み出すとは……! 胃薬を持参しているとはいえ、発表中に薬は飲めないし……)
 何とか歯を食いしばって発表を終えた。発表会は明日まで続くのだが、スペーサーは早く帰りたくて仕方がない。
「ああもう。嫌な予感しかしない。さっさと帰りたい!」

 アーネストは、ドアを開けた途端に吹き付けてきた風に、思わず身を震わせた。
「おい! 冬並みに寒いじゃねーか、この部屋!」
 ヨランダが、スペーサーの留守中に彼の部屋を借りてエアコンを使っている事は、アーネストも知っている。
「あーら、何か御用?」
 ヨランダは、きちんと布団のたたまれたベッドに座っている。彼女の傍らには雑誌やらCDプレイヤーやら色々なものが置かれている。エアコンのリモコンはデスクの上に置きっぱなし。
「御用も何も、部屋掃除してもらおうと――それより何だよこの寒さは! 冷凍庫かよ、ここは!」
「冷凍庫じゃないわよ、気温は二十五度に設定してあるの。冷蔵庫よりも高い温度なのよ。これがアタシにとって一番快適に過ごせる気温なんだから。それより、ドア閉めてちょうだい。涼しい風が逃げちゃうでしょっ」
「俺には寒すぎるんだよ!」
 アーネストはドアを閉める気などさらさらない。ヨランダは、手に持っている雑誌をわきに置いてから、彼のほうへ向き直る。
「で、アンタの部屋の掃除してほしいっての? 悪いけど、アタシここから出るのイヤなのよね」
「嫌って、お前なあ。朝も早くからここに閉じこもってたろ」
「暑さ寒さに強いアンタとアタシとじゃ、そもそも体のつくりが違うのよ。部屋の掃除なら、スペーサーが帰ってきてからにしてもらいなさいな。アタシはここから暑いところへ出るのが、とっても億劫なの」
 アーネストはあきれ返るばかりだった。

 研究発表から帰ってきて、汗だくでくたびれきったスペーサーが、自室の部屋のドアを開けた途端、室内から襲ってきた冷風に背筋をピンと伸ばした。
「な、何だこの気温は!?」
 手に持った荷物をうっかり床に落としてしまった。
 秋の終わりを思わせる冷たい風が、部屋から吹き付けてくる。そして、
「あら、お帰り」
 ヨランダが笑顔で、彼のベッドの上に彼女の私物を山ほど乗せている。
「た、ただいま……」
 スペーサーはそれしか返せなかった。しばらくぼんやり突っ立って、
「な、何でこんなに室温が低いんだ。いくらなんでも――」
「あーら、外はかなり暑いんだもの。ここは快適よー」
「……」
「大丈夫よ、ちゃんと掃除はしてるから。ほこりだって積もってないでしょう? あ、それより、アーネストが部屋の掃除してくれって頼みに来たのよね。でもこんな涼しいところから、外へ出るのは嫌なのよね〜。すぐ汗だくになっちゃって、嫌だわ。だから――」
「だから?」
「あなたが代わりにやってきてくれる? いつもやってるでしょ? 掃除とかゴミ捨てとか。アーネストは面倒がってぜんっぜんやってくれないし」
 すぐ分かったことだが、ヨランダが彼の部屋に入り浸ってから、彼女はほとんどの家事をしなくなっていた。冷房のきいた部屋から出たくないという理由で。
「か、帰ってくるなり掃除と洗濯か……!」
 胃の痛みが戻ってきた。嫌な予感は的中した。

 月末。
 スペーサーは部屋に入ると、彼の部屋で朝も早くから涼んでいるヨランダに、一枚の紙を手渡した。
「これ、払っておいてくれ。私の部屋に入り浸っていた分と、私に全部の家事を押し付けていた分だ」
 見た途端、ヨランダは真っ青になった。それは、先月の四倍もの金額を記してある電気代の請求書であった。