一日修行



「修行がしたい〜?」
 スペーサーは、目と鼻の先の距離にいるヨランダに、疑いと軽蔑の混じったまなざしを向けた。ヨランダは精一杯の愛想笑いを浮かべている。
「別に薬を盗もうとかそんなことは考えてないもの。今日一日でいいから修行させて?」
 古代語の書かれた書物を脇へ押しやり、スペーサーは目の前のシーフを見る。これでも彼は様々な国の国立魔術研究所から、ぜひ研究員になってくれという手紙を何度か受け取っているのだ。国のお抱えである魔術研究所の研究員という職は、薬を売って細々と生計を立てることの多い一般の魔法使いにとっては大変な名誉職であるのだが、彼は全て蹴っている。一匹狼の、この魔法使いは、とにかく自分のことについて干渉されるのを事のほか嫌うのである。そしてシーフという連中は、彼にとってもっとも信用ならない存在であった。
「なぜ修行がしたいんだ」
「だって、あなたみたいにドーンと魔法をぶちかませたらカッコいいじゃないの」
 愛想笑いを浮かべるヨランダ。スペーサーはしばらく彼女に疑いのまなざしを向けていたが、やがて椅子から立ち上がった。
「わかった。弟子入りを許す」

 ヨランダは、目の前に置かれた書物と羊皮紙の束の山に、目を丸くした。
「これ、どうするの?」
「どうするって、読むに決まっているだろう。自分で意味を理解してこその魔術。知識がものをいうのだから、文句を言うな」
 スペーサーはそれだけ言って、地下室へと降りていった。先ほど来た客に煎じ薬を調合するためである。
 ヨランダは目の前の書物と羊皮紙の束をじっと見つめた。一つ取って広げてみたものの、何が書いてあるかすら分からない。字は読めるのだが、つづられた内容はシーフである彼女には全く縁のない事柄だらけ。自然界の理、天界の理、天体の運行など……。
「こんな、机にかじりつかなくちゃならない勉強がないと、魔法が使えないっての?」
 書物を乱暴に机の上へ放り、ヨランダはため息をついた。
 地下室から、スペーサーの使い魔であるカラスが飛んできて、書物の上に降り立った。まるでヨランダを見張るかのように。
「わかりました、わかりました。読めばいいんでしょ、読めば!」
 ヨランダはカラスに見張られながら、また適当な書物を選び、理解できなくとも中身に目を通した。スペーサーが薬の入った瓶を持って戻ってきたのが、それから一時間ほどあとのこと。
「ねえ、いつになったら魔法、教えてくれるの? こんなのじゃなくって、呪文の書いてある魔道書を――」
「まだまだ」
 スペーサーは客に薬を渡し、代金を受け取った。ヨランダはふくれっ面をして、理解できない内容がごちゃごちゃ書かれた書物に目を落とした。
 ヨランダがどうにか机の上の書物を全部読んだ後、次に課せられたのは、家の裏手に湧いている小さな湧き水での水汲み。
「なんで水汲みしなくちゃいけないのよ」
「生活用水だ。文句言わずに、早くやれ。私も修行時代は師匠に嫌というほどやらされた」
 スペーサーが去った後、カラスに見張られながら、ヨランダは桶に湧き水を汲み、重い桶を運び、家の裏手にある大きなかめの中に何度も水を注ぎ込んだ。彼女の背丈ほどもある巨大な四つのかめを満杯にするのに一時間以上かかり、動けないくらいヘトヘトになった時、やっとかめに水を満たすことが出来た。
 どこで何をしていたのか、彼女が空の桶を草地に下ろすや否や、スペーサーが顔を出す。
「やー、ご苦労。ちょうど昼だから少し休憩だな。ちょっと手を出してくれ」
 ヨランダが手を出すと、スペーサーは指を鳴らす。すると、空中から果物とパン、ぶどう酒の入った小瓶が現れ、彼女の手の中に落ちてきた。
「え? どこから食べ物を?」
「食料召喚も魔法の一つだ。もっとも、それは本物ではない。空中に存在する微細な存在を合成しその結果、食料の形で生み出されたもの。本物の食料に比べ、味は落ちる」
「なんだかわかんないけど、とりあえず食べられるのよね?」
 魔法って便利だなあと思いながら、ヨランダは食べ物を口に入れる。が、味があまりないので、食べているという感じがしなかった。やはり偽物。
 昼食後、彼女に課せられたのは、カラスの世話。巣の掃除と餌の補充。
「そいつは癇癪もちだからな、下手なことをすると怒るから気をつけるんだな」
 主であるスペーサーには心を許しているようだが、ヨランダには全く心を開いておらず、彼女が巣を掃除する間、絶え間なく彼女の周りを飛び回っていた。そして彼女が巣を少しでも壊してしまったり補充された餌が少なかったりすると、途端に彼女の頭に容赦なく嘴をつきたててきた。
 それでも彼女が羽だらけになって掃除と餌の補充を終えると、容赦なくスペーサーは課題を与えた。
「次は――」
 時間は容赦なく過ぎていき、夕日が辺り一体をオレンジに染める頃には、もうヨランダはくたびれきっていた。それでも彼女は音を上げなかった。そして日が沈んだ後、スペーサーは言った。
「魔法の撃ち方、教えてやる」
「や、やっとなの……?」
 床の上で荒い息をつきながら、ヨランダはやっと立ち上がった。

 月明かりが草地を照らす。家の裏手を更に行った先に、小さな丘があった。
「ここで一発撃ってみろ」
 スペーサーはヨランダに、簡単な術を教えた。ヨランダは教えられたとおり、念じてみた。
「えいっ」
 彼女の手の中に小さな光が生まれ、前に向かって放たれていき――
 ポンと音を立て、光は消えた。
「えーっ、どうしてー」
「念じ方が悪かったんだろう。もう一度やってみろ」
 それからヨランダは何度も何度も術を放とうとしたが、そのたびに失敗を繰り返していた。失敗を繰り返すうち、時間は過ぎていき、夜空に東雲の光が差し込んできた。
「えー、もう朝なの……」
 徹夜で魔法を撃ち続けたヨランダは、朝の光を見て初めて、自分がつかれきっていることを改めて知った。そして、一日働かされていた疲れと徹夜の眠気に負け、草地に倒れこむようにして眠ってしまった。

 シーフギルドに、ヨランダが魔法で転送されてきた時、シーフたちは皆驚いた。
「おいおい、どうしたんだ、寝てるぞ」
「ひょっとして、魔法で眠らされたのか?」
「いや、それにしては体が汚れてるみたいだ。働かされでもしたんだろう。しかし、なぜここまで……。目的は、奴の持っているはずの魔道書を奪ってくることだったのに……」

 スペーサーは、使い魔のカラスからの報告を聞いた。シーフギルドに侵入したカラスは、その目と耳でシーフたちの会話を聞いてきたのである。
「なるほど。目的は書物にあったのか。所詮、シーフどもの考えることはその程度という事か。全く……」
 机の上にまた古代文字の書かれた書物を広げ、スペーサーは天井を仰ぐ。
「魔術を扱うのに、付け焼刃の修行が役に立つものか。世界を支配する理の意味を正しく理解するのに一体どれだけの年月が必要だと思っているんだ」
 さらに彼はヨランダに術を教えたとき、わざと一部分を間違えて教えたのである。正しく術の組み立てられない術は、それ自体が術として機能しない。結局、ヨランダは偽物の術を教わるために、必死になって一日修行をしていた。そして彼女は、朝日が昇ると同時に、彼の魔法にかけられ、数日間の深い眠りにつく羽目になったのである。術を一部改良して、彼女にかけたのだ、眼が覚めたときには、なぜ自分が彼のもとで修行していたのかその理由を忘れ去っているだろう。
 薬を求めて客が訪れたので、彼は席を立ち、玄関口まで歩いていった。