スランプ
「どうしたものか」
スペーサーは、キャップをしめている万年筆でコンコンと机をたたきながら、呻いていた。
「一度スランプに陥ると簡単に抜け出せないのが、私の欠点なんだよなあ」
白紙の原稿用紙を睨みつけて、三十分以上も経過している。いつも休日に原稿を書くことに決めているのだが、今回はスランプに陥ってしまいなかなか筆が進まない。原稿の締め切り予定まであと三日しかない。なのに、万年筆はピクリとも動かない。アイディアがある時は、彼の手は何時間でも動き続けられるのだが、何もアイディアが無ければ、石のように動いてくれないのであった。
(ええと、前回の話だと主人公が投獄されて、脱出のための策を練るところで終わったんだったな。それから脱獄させるわけだが、その先はどうしよう……。敵の勢力が近くに迫っているからのんびりさせるわけにはいかないし……)
前回のあらすじを思い出しながらストーリーを考えていくのだが、万年筆を握る彼の手は一文字も書きだそうとはしなかった。
「うーん……」
時計の針は無慈悲に時を刻んでいく……。
「もう三日もペンが動いていないんだ、早く話を組み立てないと……」
『騒音厳禁! 立ち入り禁止!』
スペーサーがスランプに陥っている間、部屋のドアにはこの札がさげられている。以前、アーネストがそれを無視して入室した結果、インク瓶を投げつけられて全身がインクまみれになった。それ以降、アーネストは札が下がっている時は入って来なくなった。
「まーたスランプかよ。毎月一回はああなるよなあ、あいつは」
札を見て、アーネストはつぶやいた。
「今度はいつまでこの札が下がってんだ? 一週間も続くようなら、俺は耐えられんぞ」
行くところ何処でも何らかの音を響かせるアーネストには、静寂は耐えがたいものだった。
「でもインク瓶投げつけられるよりは、静かにしてる方がいいのかな……」
自分の部屋に行こうとドアの前を通り過ぎた時、
「よし、これだ!」
と、突然大声が聞こえたものだから、仰天してしまった。
(し、心臓止まるかと思った……。あいつあんなにデケエ声出せるんだな)
「おりてこないってことは、やっと仕事が進んだって事ねえ」
夕食の最中、ヨランダは言った。
「彼が一度万年筆を動かしたら、よほどの事がない限り手を止めないもの」
「そーだよなー」
アーネストはそう言いながら、自分のものではない皿を引き寄せていく。
「どーせ食わないんだから、俺が代わりに――」
「あとで怒られても知らないわよ」
「へーきへーき。一食抜いたって死にゃあしないって!」
「知らないわよ、ホントにさ」
スペーサーの握る万年筆は、インク補給の時以外、原稿用紙の上を休むことなく走り続けた。時計が静かにコチコチと時を刻んでいる。そのほかは、万年筆が原稿用紙を走る音しか聞こえてこない。彼は原稿用紙に集中していた。ほかのことは何も頭に入らない。もし、この状態で部屋に誰かが入ってきたとしても彼は気がつかないであろう。いや、気がつかないに違いないのだ。一度何かに集中すると、それを完了させるまでその集中力は続き、増していくのだから。
彼が手を動かし始めたのは、二時半過ぎ。そして今は、五時半過ぎ。片付けるべき原稿用紙の半分以上まで筆が進んでいる。書き損じることなく、彼は書き続けている。
「やっと終わった……!」
歓声を上げたのは、時計の針が八時を指した時だった。
「さてと、後は読み直して推敲するだけだが、これは明日にしよう」
急に疲れが襲ってきた。食事を取るのも忘れ、彼はそのまま眠りについた。スランプ脱出直後の執筆でスタミナを使いはたしてぐっすりと眠るのも、いつもの事であった。
日が明ける前、彼は目を覚ます。目覚まし時計が六時を告げる三十分ほど前だ。風呂に入るのを忘れたのを思い出し、目覚まし代わりにと、あくびをしながらも浴室へ行った。それから自室に入り、今度は目覚まし時計を七時にセットする。そうして原稿用紙を取りあげ、読み始める。これも、いつものことであった。
「これでよし。昼ごろに担当に連絡するかな」
彼は満足そうに原稿用紙を封筒に入れ、鳴る直前の目覚まし時計のアラームを止めたのだった。
……。
『騒音厳禁! 立ち入り禁止!』
次の執筆のために書かねばならないのに、スランプに陥って、はや四日。
「書きかけだったのに急につまらなくなってきた……。こんな展開では……!」
担当とよく話し合って決めたストーリーを書いているはずなのに、どうも自分の書き方に納得がいかないのだった……。机の上には、ちぎって丸めたメモ用紙がいくつも放り捨ててある。あらすじを書いてはボツにしたものである。
「これじゃ駄目なんだ……これじゃあ……」
スペーサーは頭を抱えた……。
今回のスランプからの脱却は、遅くなってしまいそうだ。