梅雨にあらわれるもの



「キャアアアア! いやああああああ!」
 ヨランダは甲高い悲鳴を上げた。
 彼女の目の前には、彼女と同じくらいの背丈のナメクジの群れが、うごめいていた。

 ……というのは誇張にも程がある。なぜって、彼女の目の前にいるのは、ただのナメクジなのだから。

 梅雨に入った。雨続きの日で、室内は湿気がたちこめ、気温もそこそこ高いので、蒸し暑い。当然、湿気を好むカタツムリもたくさん増える。もちろん、ナメクジも……。
 玄関先。アジサイが咲いている付近に、いきなりナメクジの群れが出現したのであった。
「で、なんでナメクジごときで俺に退治してくれなんて言うんだよ」
「いいでしょ! アタシ、あれキライなのよ!」
「遠くから塩でもまけばいいだろ」
「あのナメクジ見るのもヤなのよ、アタシは!」
 ヨランダは半泣き状態、震えた声を上げている。泣かれるのには弱い。スペーサーのように口で言い負かすことの出来ないアーネストは、しぶしぶ重い腰を上げた。

 しとしと雨が降っている。そのくせ気温が高くて蒸し暑い。
「あーあ、こりゃすげえや」
 アーネストは驚き呆れた声を上げる。玄関前に、ナメクジの群れ。数は二十を軽く越えるだろう。これほどまでにたくさんのナメクジを見たこと無い。ナメクジたちは、地面からアジサイへと、群れをなして移動している。目指す先は、どうやらエサとなるアジサイのようだ。
「そのうちいなくなるだろ、ナメクジなんて」
「いやっ! 退治してっ!」
 ヨランダは、彼の背中を強く押した。
「退治してくれなかったら! 一生あんたを恨むわよ!」
「一生ってお前……そりゃオーバーだろ。梅雨のたびにお前に恨まれるのかよ、俺は。人生いくらあっても足りないぜ」
「つべこべ言わないで、さっさと退治なさい! こっち来るじゃないの、あのナメクジ!」
 ヨランダの声は完全に悲鳴に変わっている。ナメクジの群れはアジサイへ向かっているはずだが、なぜか進行方向を変えて二人に向かってのろのろと前進中。
「早く何とかしてってば!」
「文句ばっかり言うなよ!」
 ぬるぬるしたこの生き物をつぶすのも触るのも、抵抗がある。
「じゃ、塩まくか」
 キッチンから持ってきた塩。ぱっぱとまけば済む。さっそく、ひとつかみパラパラとナメクジの群れの上にまいてみた。
 急に、バケツをひっくりかえしたような土砂降りになった。そして、まいたばかりの塩はナメクジの体に降りかかった直後、あっというまに洗い流された。ナメクジたちは雨に打たれて、進むのをやめた。
「酷い雨! ナメクジ退治するまで待ってくれても良いのに」
 ヨランダは雨を見つめた。アーネストは首を横に振った。一匹だけ、塩をたくさん被ったナメクジがいるが、降ってきた雨もむなしく、泡を吹きながら身をよじり、溶けていく。
 強い雨はやがて小さな水の流れを作った。二人のいる場所は、階段の上。その階段にも降り注いだ雨は、下の段へと向かって流れていく。ナメクジたちは、その流れてきた水に少しずつ流されていく。あの驚異的な粘着力も流水には勝てなかったようだ。
「自動的にナメクジがどっか流されてくぜ」
「アラほんと! これなら雨も大歓迎ね〜」
「洗濯物が干せないとか文句ばっか言ってるくせに」
「この場合は別よ、別」
 ナメクジたちは、やがて全て流されていった。
「わー、いなくなってくれたわ! ラッキー」
「流されただけだろ。どうせまた来る」
「その時はまたアンタに――」
「ふざけるなよ! もうやらねーからな!」

 三十分後。
 ヨランダは再びアーネストに助けを求めた。
「キッチンに、出たのよお!」
「出たって何が?」
 掃除と称して自室を散らかしていたアーネストは、ベッドの上に雑誌をぽんと放って、ヨランダを見た。
「何がって、キッチンで出るものって、決まってるでしょ!!」
「G?」
「違うわよ!」

 カビのかたまり。

 生ごみはちゃんと処理していたはずなのだが……。どうやら、冷蔵庫にしまいわすれてそのままにされたパンがカビていたようだった。
「これっくらい自分で処理しろよ。捨てるだけじゃねーか」
「普通だったらそうしてるわよ! でも出来ないのよ!」
 何故と理由を問う暇も無い。そのカビの中に不自然な形をしたものが見えたのだ。少し近づいてみて、思わずアーネストは声を上げた。
「げええええ」
 カビの中に、何匹かのゴキブリがたかっている。それらはどうやらカビの中で窒息したらしく、身動きひとつしていなかった。
「結局Gいるじゃねえか。違うって言ったろお前」
「いるとは思わなかったのよ! 何かいるってわかったけど、怖かったから、あんたに確認してもらいたかったのよ!」
 何でこんなにも、動かないGを怖がるかね。アーネストは思ったが口には出さなかった。言えば、返事の代わりに平手打ちが来るだろうから。
「動かないんだから、お前でも片付けられるだろ、こんなの」
「やだ。あんたがやってちょうだい。それ触りたくないの!」
「このアマ……!」
 結局、アーネストは、ゴキブリつきのカビたパンを処理せざるを得なかった。

 梅雨はまだ始まったばかり。からからに乾く梅雨明けの訪れは、まだまだ先だ。カタツムリ、カビ、ナメクジ……まだまだ色々なものに悩まされる日は、梅雨明けまで毎日続くだろう。アーネストはそう思って、うんざりしたため息をついたのだった。