来訪者
研究所に入ってきたのは、一人の女性であった。
年の頃は二十代後半といったところ。カラスの濡れ羽色の髪を持つなかなかの美人であるが、着用しているものが彼女の魅力を半減させている。地味な濃い緑のローブを着て、頭には同色の三角帽子を被り、その手には国立魔術研究所の研究員だけが持つことを許される杖を持っている。
「突然だけど、お時間宜しいかしら」
艶っぽい声で、その女性は聞いた。
机の上に様々な文献を散らかして、古代文字の解読に励んでいたスペーサーは、研究が中断されたことに対して、非難の目を相手に向ける。だが、その女性が手に持っている杖を見ると、別の意味での非難の目を向けた。
外から帰ってきた使い魔のカラスは、会話の邪魔をしないよう、部屋の壁につけられた止まり木の上にいる。
「……行くつもりはないと、あれほど言ったはずだが?」
彼はこの女性を知っている。この国の国立魔術研究所に所属する研究員の一人である。彼女とは何度か話をしたことがあるが、いずれも研究所への勧誘を断るというワンパターンな話である。
「そう仰らずに」
相手は潤んだ目を彼に向けるが、簡単に無視された。スペーサーはまた文献に目を落とすが、神経は文献に集中していなかった。相手に微細な魔力の波動を送って、様子を探っているのだが、どうも相手が魔力を遮断するモノを身につけているらしく、相手の内部に干渉することが出来ない。
(術で追い出すことは不可能か……)
「何度も言っているように、私達国立魔術研究所は、あなたの助力がどうしても必要なの。あなたでなければ読み解けないような文献があるものだから。それに、あなたがいれば、この国の研究所は飛躍的な研究成果を上げることが出来る……」
「くだらない」
スペーサーが首を振る。しかし相手はそれを無視した。
「隣国との均衡関係を保つには、こちらが隣の国と同じあるいはそれ以上の力を持っていることが必要なの。そのためには、どうしても読み解いて完成させなければならない古代呪文がある……。あらゆる古代文字に精通したあなたなら、可能でしょう? あの術を完成させることが出来れば、この国の力は一段と強くなれるはず。国王はそれを望んでおられるの」
「隣国とは三十年以上前に和睦しているはずだな。が、まだ国力が足りないというのか?」
「同盟関係は確かに強固だけれど、最近のほかの国の動向を知っているでしょう?」
知らないわけではない。この国は同盟国以外に二つの国と隣接している。近年、隣国の国力が徐々に強くなっているという噂は耳にしているが、実際に確かめたものはいない。
「この国は十分すぎるほど力を蓄えている。もっとも、戦争するにはいささか物資不足だがな。で、あの術を完成させすれば、一国を一人で落とせるほどの国力が身につくと? くだらん。眠らせているベヒモスに干草を食わせながら敵国の農地へ行かせればいいだろう」
「あなたは軍師向きではないようね。確かにあの術を完成させれば、魔法使い一人がこの国の最終兵器となりえる存在になるわ。コストの高いベヒモスを使わずとも敵国をいとも簡単に滅ぼせるくらい……」
相手はどうも古代の術の威力に心酔しているようだ。彼女の表情を見て、スペーサーはそれに水を差す。
「そして滅ぼした先に何がある? 国一つの復興にどれだけ時間がかかると思っているんだ。あらゆるものが失われ、それを再興させるためには莫大な金が必要なんだぞ」
「そんな事は問題じゃないわ。それよりあなたは、なぜそれほど研究所に来るのを嫌がるの。こんな片田舎みたいな町で細々と暮らさなくても、研究所にくればもっといい暮らしが出来るのに」
「研究所なぞ行きたくない。自分の好きなことが何一つやれやしない」
「あら、研究テーマなら山ほどあるわ。没頭することも許されるわよ、いくらでもお金をつぎ込んでもらえるから」
「その研究に没頭しすぎて、国を半分以上滅ぼした術士の話を知っているのか?」
スペーサーの言葉に、相手は目を丸くしたが、やがて首をかしげた。
「一体いつの話なの? ここ数年はそんな事件や戦争は起きていないわ」
「ま、知られていないほうが当然か。何十年も昔の話だと聞いている。私と同じくらい古代文字の知識を持っていたという若手の魔法使いが、寝食を忘れて古代文字の研究と術の研究に没頭した結果、一つの術を完成させた。そして、ちょうど隣国との戦争が始まった時、術士の部隊にいたその魔法使いは、完成させたばかりの術を、敵に向かって試し撃ちした。そして――目の前の敵全てと、味方全て、国境を中心にして両国の半分ずつが消失した」
「それから……?」
「両国の被害は甚大でこれ以上戦争を続けることは出来なくなったため、すぐに条約が結ばれて戦争は終結した。だが、その魔法使いの所在については、いまなお知られていないままだ。ある国がその魔法使いを捕えたとかいう噂もあったが。まあ、妥当な線としてはどこかで野垂れ死んだのではないのかな?」
どこか警戒するようなまなざしを、彼女はスペーサーに向ける。
「研究所の誰も知らないような話を、なぜあなたは知っているのかしら?」
「さあ。片田舎に住んでいるからだろうな。それより、今回はこれでお引取り願いたい」
スペーサーにそれ以上話を聞くという態度は見られなかった。彼女は帽子の位置を直し、くるりと背を向けた。
「そうね。あなたの話、心に留めておくとしましょうか。でも、そんな誰にも知られていないような話を聞かせてくれたところで、誰もあなたの話に耳を傾けやしないから」
潤んだ目を一度彼に向けた後、彼女は出て行ってしまった。
魔力の気配が消えた後、スペーサーは文献をいくつか脇に押しやる。
「何も知らないでいることが幸せなのか、知ったほうが幸せなのか……この歳になってもわからんもんだな。まあ、時と場合にもよるのだろうが……そう思わないか?」
問われて、賛同するように、使い魔のカラスが鳴いた。