第1章 part1



 闇に閉ざされた小部屋の中に、機械のうなる音と、荒い呼吸音が響く。
「もう少しで座標がぴったり合う……。もう少しだ」
 弱弱しい声が聞こえてきた。まるで病に冒されているかのような、生気のない声。
 やがて、ピーンという音と共に、小さなモニターに赤い点が映し出された。
「成功だ。だが、ここへ来るまでには時間がかかりすぎる。もっと時間を縮める方法があれば、そうすれば……」
 何かの液体がボタンと滴り落ちる音が聞こえてきた。汗にしては妙にねっとりしている。
 機械がうなり声を上げながら、ガタガタと小刻みに揺れた。まるで何かを呼ぼうとしているかのように。
 小部屋の中にいる声の主は、荒い呼吸を繰り返していた。
「早く……来てくれ。動けなくなる、その前に……」


 このごろ、奇妙な夢を見ていた。
 薄汚れ、じめじめして薄暗く、木屑や鉄くずが散らかる、全く人気のない世界。だが、その見た目こそ汚いが、この世界は、我々の住んでいる世界と瓜二つなのである。家の位置も、商店街の店並びも、駅も、全て同じなのである。
 その奇妙な世界の中で、誰かが呼んでいる声を聞く。一体誰が呼んでいるのかと、家々の間をすり抜けていく。歩くうちに、声はだんだん近づいてくるが、その声の主の姿は全く見えてこない。歩いていくうち、大きな広場に出る。広場に足を踏み入れたところで目の前に大きな闇が広がり、その中へと飲み込まれていく。誰かの呼び声が、闇の中から聞こえてくる。だが、どんどん闇の奥深くへと墜ちていくため、その声に応えることはできない。
 誰かの手が、闇の中から伸びて、腕をつかんできた。
 どこかへ引きずり込まれるような錯覚を覚えると同時に、夢が覚める……。


 何の変哲もない日々が続く、十月下旬のある朝のこと。
「ところで」
 ヨランダが口を開いたのは、朝食のときである。
「ん?」
 浮かぬ顔で、マグから口を離し、スペーサーは応じた。そんな彼に、ヨランダは言った。
「何お葬式みたいな顔してるのよ、朝も早くから」
「……そんな顔してるか?」
「そうよ。こんないい天気の日にそんな沈んだ顔されちゃ、気がめいるじゃないの。何かあったの?」
「……別に」
 食器を片付けるために立ち上がりかけたところで、隣席のアーネストに足を強く踏まれた。骨に響くような痛みで、テーブルに手をついた半立ちの姿勢のまま、スペーサーの体がこわばる。
「んなわけねえだろ。そんなシケた面して、何でもねえって言うほうがうそ臭いんだよ」
 踏まれた足の痛みと、彼を捕えて放さない二人の視線に負け、スペーサーは椅子に座りなおした。
「……分かった。が、笑うなよ」
「笑わないわよ」
「どーせお前の話はつまんねえよ」
 言われた言葉にスペーサーはむっとしたが、堪えた。
 ここ半月ほど、彼は同じ内容の夢を見ていた。この世界と同じ形をしているが、あらゆる場所が薄汚れており、全く人間の姿が見えない。その薄汚れた人気のない世界の中で自分自身を呼ぶ声が聞こえてきて、その声の正体を確かめようとして探していくと、突如現れた闇の中に飲み込まれてしまう。闇の中を墜ちていく間にも、自分を呼ぶ声が聞こえ、それがだんだん大きくなってくる。最後に、誰かの手が闇の中から伸びて自分の手を掴んだその瞬間、眼が覚める。
 その夢があまりにもリアルなため、自分のいる世界が現実なのか、あの薄汚れた世界が本当の現実なのか、だんだん分からなくなってきたという。
 話を聞いた後、案の定、二人は笑った。彼がよく空想や自分の考えにふける癖があるのは、二人ともよく知っていた。そのため、その癖が災いして、夢と現実を混同しているのだろうと考えてしまったわけである。
 しかし、笑われたほうは当然、真面目に話していただけに、堪忍袋の尾を切らした。バンとテーブルに両手を勢いよく叩きつけ、食器がその衝撃で飛び跳ねるのも構わず、腹を抱えて笑う二人を怒鳴りつけた。
「笑うなといっただろうが! いい加減にしろ!」

「ああ全く、話すんじゃなかったな。余計にイラついた」
 苛立ったまま、スペーサーは鞄を引っつかんで家を出る。そして、愛車に乗ってエンジンをかけた。
 時々スペーサーは、やたらと面倒をかける二人から離れたいと思うことがあった。そしてその思いは、今朝、真剣に話したはずの夢を笑われたことによって、さらに倍増したのである。
「人事だと思ってからに……!」
 一瞬、目の前の景色が揺らいだ。
「!?」
 目をこすって、また目を開ける。
 揺らぎはない。目の前には道路が広がっている。
「……疲れたのか?」
 訝りながらも、彼は出発した。

「さすがに笑ったのはまずかったわねー。すっかり機嫌損ねたみたい」
 車の走り去る音を聞きながら、ヨランダは口を開いた。だがアーネストは涼しい顔のままである。
「別にいいんじゃねえか。あいつの空想好きは昔っからだろ」
「でも、かなり深刻そうだったし」
「ベンキョーで頭詰まってたから、あんな変な夢見たんだろ。そりゃ半月も同じのを見てるってのは、ちっと変だけどな」
 ヨランダが自分の食器を片付けに行った後、何気なく、彼は窓の外を見る。
「!?」
 目を疑った。
 車が走り去ったあと、舞い上がった砂塵の中に、一瞬だけ人影が見えたような気がしたのである。

 昼を少し過ぎた頃。晴れていた空は急に雨雲に覆われ始めた。ちょうどベランダにいたヨランダは、干してある洗濯物を取り込みにかかった。てきぱきと半分ほど取り込んだところ、干してあるシーツの裏側に人影が見えた。
「あら珍しい、手伝ってくれるの、アーネスト……」
 シーツの向こうへ顔を出した。
「!?」
 誰もいない。
 シーツを戻してみる。先ほどの人影らしい影は、どこにも映っていない。
「今の、何……?」
 最初の雨粒が彼女の額を叩くまで、彼女はずっとベランダに立っていた。

 雨の止んだ夕方の六時半ごろ、スペーサーが帰宅した。げんなりした顔である。
 家に入る前、玄関のすぐ側にいる人影を見たのである。泥棒ではない。彼が近づくとその人影は消えてしまった。物陰に隠れてしまったのではない。煙のように、ふっと掻き消えたのだ。
「あれは一体何なんだ?」
 直感的に、人ではないことだけは分かる。しかし人でなかったら、一体なんだというのだろうか。考えても埒が明かないので、そのまま家に入る。
「あらおかえり」
 キッチンからヨランダが出てくる。スペーサーは挨拶を返す気力のないまま、部屋に向かった。階段を登っていく後姿を見送りながら、彼女は首をかしげた。
「何かあったのかしら?」
 その疑問は彼女だけが抱いたわけではない。夕食の席では、時たま彼の皿からアーネストが何かをさらっていこうとするのだが、今夜は珍しく、何をさらわれても何も言わなかった。いつもならば、人の皿から取るのは行儀が悪いだのと口やかましく言い立ててくるのだが。
(何かあったのか?)
 元々小食であるスペーサーだが、今夜は更に食欲が進まなかったと見える。ほとんど何も食べずに席を立ってしまった彼を見て、アーネストは訝った。ヨランダも同じことを考えたようで、二階の部屋へ力なく歩いていった彼を見た後、アーネストもヨランダも、そろって顔を見合わせた。
「何があったんだ?」
「さあ……」
 一方、部屋に入ったスペーサーは、背後から感じる謎の気配に、苛立ちを募らせていた。一日付きまとってきた視線。すぐ近くから、誰かが監視しているような気がする。だが、一体誰が? 一体どこから? 一体何のために? 
 謎の気配は昨日から感じ取っていた。それだけではない。夜毎見るあの悪夢が、だんだん現実味を増してきているのだ。あの夢の世界が現実で、彼の今いるこの世界が夢なのではないかと、杞憂とも言える心配事が、彼の中で頭をもたげつつあった。
 謎の気配を無視するために、椅子に座って考える。テキストやプリントのきれいに片付けられたデスクに肘杖をつき、あの夢のことを考えた。日ましに、あの夢の細部をはっきりと思い出せるようになってきた。誰かが彼を呼んでいる。苦しそうな声で。助けを求めているようにも受け取れた。そして、声の主を探していくうちに、突如広がる深い闇。その中へ落ちていく感覚。最後に、誰かの腕が自分の腕をつかみ、引っ張り上げようとしたところで、夢が覚める。そして眼が覚めると決まって全身が汗でびっしょり濡れ、激しく心臓が脈を打っているのである。
「あれは誰の腕だ?」
 その場面を細部まで思い出そうと努める。闇の中から伸びてきた腕は、確かに自分の腕をつかむのだが、その腕がどんな感じのものであったかを思い出そうとすると、なぜかはっきりと思い出せない。白っぽい腕であることは思い出せるのだが、その細部を思い出そうとするほど、その記憶は霞がかかっていく。まるで思い出すことを拒否しているかのようだった。他の場面はきちんと思い出せるというのに、この場面だけはどうしても思い出せなかった。
「……まあいい。ひょっとしたら今夜も同じ夢を見るかもしれないしな」
 一旦彼は、思い出すことを諦めた。半月も同じ内容の夢を見ているのだから、ひょっとしたら今夜も、いつも通りに見ることが出来るのではないかと思ったのである。

 今夜は何の夢も見なかった。
 久しぶりに、彼は悪夢にうなされることなく、ぐっすり眠ることが出来た。


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