第1章 part2



 翌朝。珍しく、スペーサーは寝坊した。いつもならば遅くとも六時半には起きるのに、今日に限っては八時に起きたのである。
「まずい! 遅刻する!」
 あわただしい仕度と朝食の後、寝続けるアーネストを叩き起こすのも、食器を片付けるのも忘れて、椅子の上においてある鞄を引っつかみ、彼は家を出て行った。講義の開始は九時から。自宅から大学へ行くのに、車で三十分以上かかる。普段から講義の開始時間や提出物の時間厳守を受講生にも守らせている彼なのだ、時間に厳しいことで知られるこの助教授が寝坊で遅刻したとあっては恥である。
 バタバタとやかましく彼が家を出た後、ヨランダは外を見た。うす曇である。ちょうどテレビでは天気予報を報じているところだった。昼間では曇りであり、夕方から大雨が降るという。
「あらら、今日は夕方から大雨なのね。そういえば、傘持っていったかしら」
 玄関先の傘たてに、彼の傘がぽつんと置いてあった。
「あら、忘れてったのね。でも、どうせ車だから、まあいいか」

「ああ、もうこんな時間か……」
 制限速度ぎりぎりで車を走らせながら、スペーサーは腕時計にちらりと目をやる。既に時間は八時五十分を過ぎている。赤信号には出くわさなかったものの、通勤の車が増えている。彼は右の車線を使って車を走らせていた。左車線より右車線を使うほうが速度を出して走れるのである。
 大学の一区画前まで来たとき、既に腕時計は九時を指していた。しかもちょうど赤信号のため、彼は停止せざるを得なかった。遅れるまいと張り詰めていた緊張感がやや解けたものの、今度は遅刻してしまったという焦りが生じた。受講生に何と言い訳したらいいだろうか。まさか寝坊したとは到底言えっこない。
 言い訳になりそうな理由をあれこれ考えているとき。
「!」
 ちらりと目をやったルームミラーの中に、人影のようなものが一瞬だけ映った。だが彼がそれを確認するまえに、信号が青に変わった。
「ええい、もういい! どうにかなるだろう」
 彼はもう自暴自棄になって、アクセルを踏んだ。

 天気予報の言うとおり、昼までは曇りであったが、夕方になると、ポツポツと小雨が降り始めた。だが短時間で、小雨は、雷を伴う土砂降りとなった。弾丸のように大粒の雨が勢いよく叩きつけ、雷鳴は音と閃光で威嚇する。
「全く、今日はことごとくツイていないな……」
 スペーサーはぼやいた。雨に濡れないようにと大慌てで大学を出たはいいが傘を持ってくるのを忘れたため、車に乗るまでに服が濡れてしまうことになった。おまけに、雷雨のためか渋滞で、なかなか前に進むことが出来ない。
 赤信号のため、いったんブレーキをかけて停車する。ワイパーが何度もフロントガラスをぬぐうが、その度に雨が叩きつけて波紋を広げ、視界を遮る。
 思わずため息が出る。
 思い返せば、今日は一度もいい事など無かった。寝坊して大慌てで出たのに、大学へついたのが九時過ぎごろであった。教室へ行こうとしてキャンパスへ入ったとき、廊下の陰となる場所に所々、奇妙な人影が映っていた。遅れてきた彼を白い目と好奇の目で見る受講生にあれこれ言い訳をしてから十五分遅れで講義を始めたときには、教室の出口から、学生とは思えぬ人影が顔を見せていた。昼食のときに、すぐ背後に奇妙な気配を感じたが、振り返ると誰もいなかった。そして今、ワイパーが雨を拭い取ったフロントガラスに、一瞬だけ、夢の中の、あの荒れ果てたような景色が映った。
「これは現実なのか? それとも私の見ている錯覚なのか?」
 ぼんやり考えていると、背後からのクラクションの音で我に返る。信号はとっくに青になっていた。彼は慌ててアクセルを踏んだ。
 大通りを抜け、三つ目の信号を左折すると、車道が狭くなる代わりに、走行している車の数も減る。そしてこのまま真っ直ぐ行けば、自宅へつける。ヘッドライトを上に向け、なるべく減速して車を走らせる。このあたりは歩行者も多いのだ。
 だが、今夜は歩行者も対向車もなかった。それどころか、街灯の光すらもほとんど見当たらなかった。辺りは闇に閉ざされている。時折稲光が辺りを照らすが、雷と彼の車のライトを除けば、光源は何一つない。こんな雨なのだから人が出歩くはずもないだろうし、街灯が点かないのは雷による停電だろうと片付け、スペーサーは軽くアクセルを踏んだ。雨の勢いは弱まらず、始終ワイパーがフロントガラスをぬぐうも、無駄な努力のようであった。どれだけワイパーが必死で動いても、視界はすぐに雨で遮られてしまう。雨がぬぐわれた、ほんのわずかに見えるガラスの外の景色を、ヘッドライトの明かりを頼りに、彼は確認しながら進んでいった。
 やがて、ヘッドライトに照らされて、自宅が見えてきた。彼は安堵し、そちらへ向かってハンドルを軽く切る。
 空が白く光り、直後に耳を劈くばかりの雷鳴がとどろいた。車内にいるのに、その振動を感じ取ることが出来る。
「近いな。急がなくては……」
 車内にいれば落雷にあっても大丈夫だが、あわないに越したことはない。彼は急いでいたので、さらに軽くアクセルを踏む。
 車が加速した直後、暗雲を引き裂いて、巨大な稲光が空を真っ二つに割る。


 突如、視界が闇に閉ざされた。


「おっそいわねー」
 カーテンを閉めながら、ヨランダは言った。大粒の雨が風の勢いと共に何度も窓を殴りつけている。風の強く吹きつける力で、窓ガラスはガタガタと鳴る。
「いつもなら、遅くても七時には帰ってくるんだけど……今日は連絡も入ってないわね」
 リビングの壁掛け時計は、長針と短針でもって七時半を指していた。二人とも、とうの昔に夕飯を終えている。
「この天気だ、道路の渋滞で動けねえんだろ」
 アーネストは換気扇の側で煙草を吸っている。ほかの場所で吸うと辺りが煙くなるからとヨランダに言われたので、大抵ここで喫煙するわけである。
 空が光り、続いて雷鳴がとどろく。近い。
「しかも雷鳴ってんだ。ケータイも使えやしねえって」
「それもそおねえ」
 その時、家全体にズシンと衝撃が走った。地震かと二人は一瞬慌てたが、むしろあれは衝撃であって地震ではないとすぐに判明した。家に何かがぶつかったので、家に衝撃が伝わったのである。
 窓から外を見る。家の壁に、その衝撃の原因たるものがぶつかっているのが目に入った。
「えっ!?」
 その衝撃の原因を見た途端、二人とも目を丸くした。
 壁にぶつかり、それでもなおタイヤを回し続けるそれは、スペーサーの車だったのである。ちょうど家の前がゆるい下り坂となっているため、車は坂を下って家の壁に当たったのであろう。だが、なぜ家の壁に車がぶつかったのだろうか。ヘッドライトはちゃんとついているし、ワイパーも作動しているというのに。仮に水溜りでスリップしたとしても、ハンドル操作で車体をたて直し、ブレーキをかければ家に車体をぶつけることはないはずである。
「一体どうしたの? 家に車ぶつけるなんて……」
 窓から身を乗り出したままの姿勢で、ヨランダは呆然とした。行動型のアーネストは、頭で考えるより先に、迅速にドアを開けて外に出ると、なぜスペーサーが家に車をぶつけたのかを問いただすために、運転席の窓側へ回り込む。家のポーチライトと車のヘッドライトに照らされて、雨の絶えず叩きつける窓からでも、車内を見ることはできた。片手で雨を遮り、窓に叩きつける雨を防いで、アーネストは口を開く。
「おい――」
 言いかけた言葉は、そこで止まった。大粒の雨に打たれたまま、彼は車内を凝視している。石像のように固まってしまった彼を見て、一体何があったのかと、ヨランダは傘をさして外へ出る。そして彼の傍らから、窓越しに車内を覗き込んだ。
 暫時の沈黙。
 やっと彼女は口を開いた。
「……一体どういうことなの?」
 彼女の口から漏れた言葉は、震えていた。
 二人の背後で、稲妻が光り、雷鳴がとどろいた。

 稲光に照らし出された運転席には、誰も乗っていなかった。


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