第2章 part1



「一体何があったんだ? 車だけ放り出すなんて」
 助手席のドアにロックがかかっていなかったので、助手席から車に乗ったアーネストは、車を車庫へ入れる。それから助手席に無造作においてある、スペーサーの鞄を取った。分厚い皮革製の鞄の中はテキストやプリントだけでなく、受講生から回収したレポートの山、大学専用のIDカード、筆記用具や財布などの細々したものが全部入っている。
「しかも荷物まで置いてある。どういうことだ?」
 ヨランダは傘をさしたまま、周りを見た。まだ雨は降り続き、雨と闇のため、視界は狭くなる。遠くを見ることが出来ない。
「わからないわ。車を置いていくなんて、よほどのことがあったんじゃないの? キーも挿しっぱなしだし……とにかく、そのへん捜してみない?」
「そだな」
 そして二人が近くを捜そうと家から離れたとき、少し遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。


 急に目の前が暗くなって、慌ててブレーキをかけようとしたことは覚えている。だが、それより早く、体の力が抜けて、まるで何かに吸い込まれていくような感覚を覚えた。そして、どこか深いところへ向かって墜ちていくような――
 意識を失っていたらしい。スペーサーは目をゆっくりと開けた。
「……」
 ぼんやりした視界がだんだんはっきりし始め、それに伴って周りが見えてくる。体の感覚が戻り始め、どこかごつごつした場所に横たわっているのが分かる。聴覚が働いて、自分の呼吸音と心音が聞こえてくる。
 薄紫の光が、どこからか降り注いでくる。その光は周りを照らし出している。彼はのろのろと身を起こすと、周りの景色に目をやった。視界がほぼ元通りになり、周りがはっきりと見える。
(どこかで見たような……)
 枯れ草があちこちに生え、辺りには木屑や鉄くずが散らかっている。そして、全く人気の感じられない、静寂に包まれ荒れ果てた家並み。
「……!」
 状況が飲み込めてくるに従い、彼の体に震えが走った。
「そんな馬鹿な……!」
 両眼が大きく見開かれて、全身からどっと汗が吹きだした。
 ここは、半月間彼が夢に見続けた世界と同じ。荒れ果てて人気のない世界だった。静寂の世界。生き物の住んでいない世界。
「これは、夢なのか……?」
 わからない。夢なのか現実なのか、今の彼には判断が出来なかった。
 ひょっとしたらさっき意識を失ったことで、夢を見ているのかもしれない。夢であれば覚めてほしい。彼は真摯に願った。だが周りの景色が変化する様子はない。
 そうか、この夢は深いんだ、それならこのまま時間が経てばこの夢が覚めるかもしれない。無意味な期待を抱きながら、ふらつく脚でなんとか立ち上がり、歩いた。舗装されていない砂利と小石だらけの道をのろのろと歩き、時折、道の脇から突き出した鉄骨や枯れ木の枝をよける。周りの家は全て荒れ果て、どこにも人の姿は見えない。鳥一羽、虫一匹の姿すらもない。常に見続けた夢の景色どおり。
 さほど遠くないところに自宅が見えてきた。だが、家は崩れかけ、白く塗装されているはずの壁は風雨にさらされたかのように黒ずみ、風化したのか、所々小さな穴が開いている。ドアがなかったので、そのまま入る。
「……ああ」
 失望したようなため息がもれる。
 家の中は家具がなく、木屑や鉄くずが散らかっている。埃の玉が床の上を転がっているし、室内の木製のドアは腐って崩れ落ちていた。だがなぜか、蜘蛛の巣は見つからない。彼は家の中を見て回ったが、アーネストもヨランダもいない。どの部屋も荒れ果てており、到底人の住めるような空間ではなくなってしまっている。崩れそうな階段を登り、自分の部屋に入ってみる。腐っていたドアは既に役に立たず、彼が触れるだけでバラバラに崩れ落ちてしまった。
 この部屋には、錆びだらけのデスクしかない。この部屋の唯一の家具が、それだった。床を踏み抜かないように気をつけて歩き、デスクの引き出しを開けてみる。錆びついていてなかなか開かなかったが、力を込めて引くと、ギシギシと嫌な音を立てて引き出しが出てきた。その中には、いつも講義で使用するテキストや文献、助教授の身分を示すIDカードなどがしまわれているはずだった。だが、その中は空っぽだった。四つある引き出しを全てあけていくと、最後の一番大きな引き出しに、ノートが入れてあるのを見つけた。薄茶色に変色しており、あまり乱暴にページをめくるとすぐに破れてしまいそうである。
 薄暗いので、それをそっと取ると、窓の側へ歩く。窓から差し込む薄紫の光を頼りに、ノートをめくった。
 日記だった。
 文面に目を落としたとき、彼の目は大きく見開かれた。
「私の筆跡だ……」
 ノートを持つ両手が震えた。ノートが変色しているためか、鉛筆で書かれたらしい文章は所々かすれて、読みにくい。その日記の最後の日付は、去年の十月で終わっていた。その最後の日付のある箇所を読む。

『十月二十五日。実験はとうとう成功した。監視の目を離れたところで実験を行ったのだ、何の邪魔も入っていない。だがこの実験には時差の問題がある。私がいくら緊急を要していても、この実験において実際に事物が現れるまでに、早くても半年、遅くて一年はかかるだろう。
 もう戻らなければならない。だが、この日記を奴に見られては不味い。この日記だけはここにおいておく。ここならば、彼は必ず見つけてくれるだろう。いや、彼がこの家に来ることはわかりきっているのだ。どうしても、私は、彼の助けが必要なのだ。そして、身動きの取れなくなる前に私のところへ来て――』

 日記が手から滑り落ち、床の上でバサリと音を立てた。
 もうこれ以上読めなかった。
 スペーサーは震えた足取りで部屋を出る。
「一体どういう事なんだ、なぜ私の筆跡で……あの日記は一体何なんだ……?」
 頭の中が混乱し、整理をつけようとすればするほど混乱が激しくなってくる。めまいがして、景色が揺らぎ始めた。
「この世界は、本当に夢なのか? それとも、本物なのか……?」
 家から出たところで、何も分からなくなってしまった。


「――い、おい」
 誰かの声がして、体が乱暴にゆすぶられた。
「おい、聞いてるか、おい!」
 その乱暴な揺さぶりで、頭が上下に揺れ、スペーサーは思わず舌をかんだ。
 痛みで意識が戻る。
「はっ……?」
 目を開ける。先ほど、ショックが強すぎて夢を見るように気を失ってしまったらしい。そして、今、誰かに起こされているのだ。しかもかなり強い力で体を揺さぶられている。
「いよお、目を開けたな」
 元気はいいが妙に機械じみた声。焦点の合わない前方が、だんだんはっきりと見えるようになる。そして、彼を揺さぶっていたのは、ロボットだった。やかんに似た形をしており、背後には広い金属板が取り付けられている。両手らしいパーツを彼の両肩に載せて、体を揺さぶっていた。
「わっ……」
 スペーサーは仰天し、立ち上がりかけたが、腰が抜けていて脚に力が入らなかった。またストンと地面に腰を落としてしまった彼を見て、ロボットは機械的な声で言った。
「何だ何だ、何を驚いているんだ。おれはここらへんを警備する警備ロボットだよ、製造番号は180だ。おい、聞いてるか?」
「あ、ああ……?」
「立ち入り禁止区域だぞ、ここは。なぜここにいるんだ? 立ち入り禁止区域に入るための許可はちゃんと得た後なのか? それとも無断侵入なのか?」
「は……?」
 状況を飲み込めず、相手の質問を理解できないので、はっきりしない返答しかできないスペーサー。自らを警備ロボットと称したそのロボットは、細い鋼鉄の腕を伸ばし、何かを探すかのように彼の白衣や服をまさぐってくる。
「お前は人間なんだろ。だったらIDカードをもっているはずだぜ。それを持っていることがルールなんだからな、カードはどこだよ?」
「あ、ID……?」
 スペーサーは話についていけない。ロボットは遠慮なく彼の服の中にその冷たい手を差し込んできたので、彼は慌てて片手で振り払う。
「なにするんだよ。おれは職務を果たそうとしてだな……」
「だ、だからっ!」
 スペーサーはやっと相手に抗議した。
「一体何の話をしているんだ、立ち入り禁止とか、IDとか……こっちはわけがわからないんだ!」
 ロボットは丸い両目をピカピカと赤く光らせた。そして短い首を不器用に動かして、これは驚いたといわんばかりの仕草をする。
「わけがわからんとは、どういう意味の言葉だ?」
「そ、そのままの意味じゃないか。こっちは君が一体何をしゃべっているのか、全く分からない状態なんだ」
 スペーサーの返答に、またしてもロボットは首をかしげた。
「はてな。そんなことを聞かれたのは初めてだぞ、おれの言っている言葉の意味をさっぱり理解できないなんて。でもお前とおれのしゃべっている言葉は同じだな」
「いや、そういう意味ではないんだ。君のしゃべっている言葉は理解できるが、君のしゃべっている、単語の方を理解できないだけだ」
 スペーサーの返答に、ロボットはさらに首をかしげた。ガキガキと、さび付いた金属のこすれるような音がする。
「単語を理解できないって、どういうこった」
「つまり、その、ここが立ち入り禁止区域というのがどういうことか分からないし、IDカードが何のために必要なのか分からないという意味で――」
「はあ、なるほどな!」
 ロボットは目をピカピカ点灯させた。やっと分かってもらえたかとスペーサーは安堵した。
 が、
「お前、もしかして記憶喪失ってやつか?」
 あまりにも的外れな言葉。伝えようとしていた事が相手に別の形で解釈され、それが誤解を招くことはしばしばあるが、これは彼の想定外の言葉だった。記憶喪失とは!
「いや、そのな……」
 言いかけて、彼はとっさに頭を回転させた。
「そ、そうなんだ。君に起こされたら、頭の中がすっかり空っぽになってしまったらしくて、何も覚えていないんだ」
「そうかそうか。若いのに気の毒だな。人間は歳を食うたびに物忘れしやすくなるというが、まさか本当だとはな」
 まだ私は二十代なんだぞ! と言いたいのを、スペーサーはこらえた。この世界が一体何なのか分からない以上、記憶喪失のふりをして相手から情報を聞き出すことの方が有益だと思ったからである。だが、年寄り扱いはされたくない。
 ロボットは言った。
「とりあえず、お前が誰なのか調べに行くから、立てないなら、おれの背中に乗りな」
 スペーサーは立とうとしたが、足に力が入らなかった。ロボットは彼をひょいと人形のように抱きかかえると、軽々と背中に乗せた。背中と称されたその金属板の部分はすわり心地はあまりよくないものの、ロボットは飛んでいるので、揺れはなかった。
「警備ロボットだけど、荷物の運搬も手伝ってたりするんだな、おれは」
 ロボットは陽気に言って、出発した。


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