第3章 part1
軽い頭痛。
徐々に意識が戻ってくる。
スペーサーは目をわずかに開けた。眩しい光が目に飛び込み、一度目を閉じたが、目が光に慣れてくると、目をゆっくりと開けた。周りの景色が徐々に鮮明になり、体の感覚が戻ってくる。
どこかに寝かされているようだ。首だけを動かし、周りを観察してみると、どうやらここは小部屋のようだった。片隅にはどっしりとした金属のデスクが置いてあり、その上にはペン立てがある。もう一方の片隅には、いかにも重そうな金属のドアがある。両者の中間に当たる場所には別のドアがあり、その側にはスイッチがいくつか取り付けられている。そして、彼の寝かされている場所は、寝台であった。布団は固く、枕も平べったい。
寝台から降りる。やや脚がふらついたが、立てないわけではない。
「ここは、一体どこだ?」
部屋の中を見回してみる。ぼんやりしていた頭もはっきりしてきたので、より詳細な観察が出来るようになっていた。見たところ、部屋の材質は全て金属。先ほど寝かされていた寝台を振り返ると、金属の台の上に直接布団を敷いた簡素なものであったと判明した。固いと感じるわけだ。
デスクの上に何かが置かれているのを見つけた。ペン立ての側においてあるそれは、一枚のカードであった。それには、彼の顔写真と名前、いくつかの数字が書かれている。
「中央局研究科No.68」
しばらく彼はあっけに取られていた。
「中央局、研究科……?」
彼がじっとカードを見つめたままでいると、ノックもなしにいきなり、あの重そうな金属のドアがギィと音を立てて開けられた。
「起きたのか」
彼がドアの方を見ると、そこには一人の男が立っていた。歳は三十といった所で、厚いレンズの、四角縁の眼鏡をかけている。清潔な白衣を着て、深緑のズボンをはいている。顔立ちは整っており、髪は七三分けである。
一見は真面目そうで誰にでも好かれそうな雰囲気であるが、なぜかスペーサーはこの男に好感を抱かなかった。むしろ嫌悪感というべきものを感じ取った、本能的に。
「ずっと眠っていたようだが、やっと目を覚ましたのか」
「?」
「ああ、記憶喪失になったんだったな。僕はヴィクトル。研究科。ナンバーは61だ」
ヴィクトルと名乗った男は、スペーサーを、まるで値踏みするかのように上から下まで見つめてきた。
「ところで、記憶喪失と聞いたが、どこまで忘れた? まさか自分の名前まで忘れたのか」
やけにとげとげしい言い方に、スペーサーは内心むっとした。何か言い返してやろうかと口を開きかけたとき、
「ちょっとちょっと!」
突如、ヴィクトルを押しのけて、一人の女性が入ってくる。ヴィクトルと同じく白衣を着ており、薄茶色のスカートをはいている。そのいでたちからして研究者かと思われる。明るい色の髪は後頭部できっちりと束ねられ、前髪の部分だけは不自然に白い。染めているのだろう。歳はヴィクトルよりやや下というところか。
「外部調査に出て行ったきり、一年間も連絡くれなかったし、戻っても来なかったから、どこで油売っていたのかと思ったわ。でもやっと帰ってきてくれたと思ったら、今度は記憶喪失だなんて信じられないわよ! どれだけ心配かければ気が済むのよ貴方は!」
一方的にまくし立てた彼女は、スペーサーがその喋りに圧倒されている間に、肩まで届くポニーテールを揺らしながらさっさと退室してしまった。
「彼女はターキア。ナンバーは66。かなりおしゃべりな奴でね。でも技術はかなりのものだよ」
ヴィクトルは冷静に言った。
「記憶をなくしているところで、すまんが、僕もターキアも研究に忙しいからな。これ以上君に構っている時間はない。後は自分で何とかするんだな、いい大人なんだから。それと、IDカードはもうなくすんじゃないぞ」
ヴィクトルもまた、退室した。
残されたスペーサーは、手の中にIDカードを握り締めたまま、呆然と立ちすくんでいた。この頃には、この世界が夢などではなく、れっきとした現実だという事も理解できていた。
枕もとにある時計のアラームがピピピと鳴って、起床の時間を告げる。布団の中から腕を伸ばして、アラームのスイッチを止める。その際に手を壁にぶつけてしまい、痛みでうめき声が上がる。
スペーサーは布団の中から起き上がる。固いベッドで寝ていたので、体が痛む。鉄の塊を思わせるような形の時計は朝の七時を告げていた。彼の腕時計も七時を告げている。周りを見ると、見慣れない部屋が目に飛び込む。部屋には窓がなく、天井のライトから光が降ってきている。ここがどこなのかと一瞬混乱したが、すぐに思い出した。
(ああそうか、ここは、私の知っている世界じゃないんだ……)
ベッドから降りて、椅子の上に乗せておいた服を着る。昨夜、タンスを開けて衣類を探したが、埃をかぶった白衣以外に衣類が見つからなかったので、結局は着ている服を脱いで寝たのである。しわがよるので、服のまま寝るわけにはいかなかったからだ。
布団を畳み、デスクにおかれたIDカードを胸のポケットへしまう。本当は彼のカードではなく、この世界の住人である「彼」の身分証明書なのだ。
少しは見栄えが良くなるかと、ワイシャツの襟元をととのえていると、ドアが乱暴に二度ノックされる。そして彼がどうぞと言わないのにドアが勝手に開けられた。
「おはよー」
やたら高いテンションと共に、部屋に入ってきたのはターキアである。スペーサーがそのテンションの高さにあっけに取られていると、彼女はまたしても昨日のように早口でまくしたてた。
「あらもう起きてたの? 一緒にご飯食べに行きましょ。貴方何もわからないんだから、私が案内したげる」
有無を言わさずスペーサーの腕を取り、引っ張る。彼はなす術もなく、彼女に従った。彼がこの世界についてほとんど何もわからない状態である事は、ターキアの指摘どおりだったのだから。
階段を上がって降りて、極めて殺風景な長い廊下を歩いた先に、目的の場所はあった。
「……『食料配給所』?」
スペーサーは、金属のドアにかけられたプラスチックのプレートを見て、半分裏返ったような声を上げる。
「普通、『食堂』とか言わないか?」
「そんなことないわ。だって、管理塔のコンピューターが食料を生産して、この町に配っているんだもの」
ターキアは何を今更と言いたそうな表情になる。だがすぐに彼の腕を引っ張って、ドアを開けた。ドアを開けた向こうには、部屋がある。あまり広くなく、十のテーブルと、二十の椅子があるだけで、部屋の隅には巨大な箱型の機械が設置してあった。かなり殺風景な部屋だが、その広さから考えて、もっと大勢の人間がここで食事をしていたのだと思われる。
テーブルの一つに、ヴィクトルがいくつか生物学の本を広げて、それらを読みながら食事を取っている。部屋に入ってきた二人をチラッと横目で見ると、小声で挨拶したきり、また本に目を落とす。
ターキアは、スペーサーを、機械の前に連れてきた。その機械には何かを差し込むらしい細長い穴と、大きな赤いボタン、そして下のほうには小さな板が取り付けられている。
「これの使い方、憶えてる?」
否。そもそも、この機械など見たこともない。
「これは、こうやって使うの」
ターキアは自分のIDカードを取り出し、カードの差込口らしい細長い穴に差し込む。すると、機械が小さくうなり、差込口の側にある黄色いランプが点灯する。
「それから、この赤いボタンを押すの。簡単でしょ」
解説しながらボタンを押す。すると、機械がまたうなり、今度は機械の下につけられている金属板の上に、食事の乗ったトレーが出てきた。
スペーサーは、白衣の胸ポケットからIDカードを取り出した。
「あら、そこに入れてたの?」
ターキアの驚いたような声と同時に、ヴィクトルが顔を上げ、スペーサーを見る。スペーサーは、なぜ二人に驚かれたのか分からず、戸惑った。
「ここに、入れてはいけないのか?」
「ううん。そうじゃないけどね。でも――」
ターキアは首をかしげた。
「貴方はいつも、カードをズボンのポケットに入れてたの。でも今、胸のポケットから出したから、ちょっと驚いたの」
怪しまれたと思ったスペーサーはとっさに弁解する。
「たぶん、記憶をなくしたことで、どこに自分のカードをいれていたかも忘れてしまったんだろう」
「……そんなはずないだろう」
ヴィクトルが席を立ち、食べ終えた後のトレーを、機械の側につけられたベルトコンベアに乗せる。ベルトコンベアは食器とトレーを運んで、壁の奥に消えた。
「記憶がなくなったとしても、身についた習慣はそんなに簡単に消えるもんじゃない」
本をまとめて脇に抱え、ヴィクトルはスペーサーの側を通り過ぎる。だがその時、スペーサーは相手から、疑惑と不審の視線を浴びせられた。
オマエハ、本物ナノカ?
体が凍りついたような感覚。
「ねえ、どうしたの」
ターキアが体をゆすぶる。スペーサーは彼女にゆすぶられ、やっと自分が自由に動けることを感じ取った。相手の視線に射すくめられ、体がこわばったのだ。
「え、ああいや。何でもないよ……」
「ヴィクトルはいつもああなのよ。貴方をよくライバル視してた。それくらい思い出せた?」
首を振るスペーサー。思い出すも何も、この世界の「彼」が一体どんな人物だったのかすら知らないのだ。
「ま、そのうち思い出すでしょ。とにかく食べましょ」
テーブルの一つに席を取る。スペーサーは、自分の目の前に置いたトレーの中身を眺める。金属椀にはオートミールが入っている。薄切りのパン二枚、金属のカップに入っている薄茶色の飲み物――ミルクカフェでも豆乳でもない奇妙なその液体からは、僅かに湯気が立っているのが見え、その湯気に混じって薬のような臭いもする。
食欲はあまりなかったが、何も食べずにいるわけにもいかないので、彼はとりあえず手をつけることにした。
「……!」
スプーンが口に入ったままで、彼の体は硬直した。
「あら、どうしたの?」
ターキアが首をかしげる。
不味い。
彼の表情を読み取ったのか、ターキアは付け加える。
「食事の味も忘れちゃったの? この不毛な土地で育つように、生き残ったわずかな食用植物の遺伝子を組み替えて育てているの。おかげで味は悪いけどね、我慢すれば、この町の人のおなかを満たせるの」
「い、遺伝子組み換え……?」
「大丈夫だって。より多くの実りがあるように、ちょっと改良しただけ。人が食べても平気だってば」
ターキアは笑っているが、スペーサーはその言葉で一気に食欲をなくした。残そうかという考えが頭をよぎるも、ターキアに見抜かれた。
「駄目よ。残さず食べなくちゃ。決まりだもん」
「き、決まり……?」
「そう。だから、残しちゃ駄目よ」
「うう……」
薬のような苦さと不味さのオートミールに、出来たばかりのはずなのにガサガサして味のないパン、人間ドックで飲まされるようなあの液体と同じ味の飲み物――栄養剤だとターキアは言った――を胃袋に何とか押し込めると、スペーサーはひどく胸がむかついた。キッチンと食材が目の前においてあれば、彼は喜んで先ほどのメニューを全部自分で作っただろう。それくらい、食事の味は最悪だったのだ。
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