第4章 part1
管理塔のてっぺんにある部屋。この部屋は大小さまざまなコンピューターが所狭しと並んでいる。ウィンウィンと音を立てて、機械が稼動している。様々な配線がコンピューターをつなぎ、その配線たちは、スペーサーの真正面にそびえる巨大なコンピューターから伸びていた。その巨大なコンピューターのてっぺんには、赤いフレームのついた、これまた巨大なモニターがついている。
はて、マザーとは一体どこにいるのだろう。スペーサーがそう思って周りを見回していると、
「オカエリナサイ、私ノ、愛シイ子」
どこからか声が降ってきた。彼はなおも周りを見回したが、やがて、その声が、目の前にそびえる機械から聞こえてきたのだと知った。
モニターにノイズが走り、続いて、そのノイズの中に、一人の女性のシルエットが映し出される。
「ドウシタノ、私ガ、ワカラナイノ?」
モニターから声がする。女性の声であることは間違いないが、あまりにも機械的で生気の感じられない、作り物の声であった。
スペーサーはそのモニターの女性に目を向ける。もしかして――
「……貴方が、マザー?」
モニターから、まるで笑っているかのようなザザザというノイズが走る。耳障りだ。
「エエソウヨ、私ガ、『マザー』ヨ。ターキアカラ、聞イタワヨ。記憶ヲナクシタノデスッテネ」
またしても耳障りなノイズ音。
「コッチヘイラッシャイ。懐カシイ顔ヲ見セテチョウダイナ」
スペーサーは警戒を解かぬまま、ゆっくりとモニターのほうへ歩む。彼が一歩進むごとに、モニターがノイズ音を立てている。そしてその音はだんだん大きくなってくる。
「アラアラ、懐カシイワネ。コノ中央局ニ配属サレタ時ト同ジ顔。警戒シテイルノネ」
スペーサーは思わずギクリとした。普段から、感情を努めて顔に出さないようにしているのだが、相手はそれを見抜いたらしい。足を止めるスペーサーに、マザーは更に言った。
「記憶ヲドコマデ失クシタノカ、見テアゲマショウカ」
「記憶を見る? そんな事が出来るのか?」
彼が首をかしげていると、周囲の様々な機械から、配線が何本ものびて、彼の体に巻きつき始める。
「大丈夫ヨ。痛クナンカナイワ。チョット、頭ノ中ヲ、ノゾクダケ」
頭に、別の配線が伸びてくる。その配線の先端には、フォークに似た金具がついている。それを見て、スペーサーは冷や汗が背中を滑るのを感じた。あれで頭をさすに違いない!
「いや、いいんだ、いいんだ!」
思わず大声を上げる。
「記憶を見る必要なんかないんだ! ほとんど忘れてしまったから、覗くだけ無意味なんだ!」
配線がピタと留まる。そして彼の体に巻きつく配線がするすると解け、離れていく。
「アラソウ。ソレナラバ、イイケドネ」
ノイズ音。
「ナラバ、モウ、行ッテイイワヨ。ソレト……」
スペーサーがモニターに背を向けたとき、部屋中にノイズまじりの音声がこだました。
「私ハ、ドコカラデモ、アナタヲ見テイルワ」
くるっと、スペーサーは振り返るが、もうモニターには何も映っていなかった。後は、モニターの周囲のコンピューターがせわしなく稼動を続けているだけだった。
部屋から出たスペーサーに、ターキアは矢継ぎ早に質問した。
「ねえねえ、マザーに何て言われたの? どんな話してたの? 記憶を覗いてもらった?」
「……私は相手に、記憶を覗いてほしくないと言った。それに、『おかえりなさい』と言われただけだ」
記憶を覗くというマザーの言葉を、スペーサーは本気にしていなかったが、ターキアが言うところを見ると、どうやらマザーは人間の記憶を覗くことができるようだ。もしあのまま記憶を見られていたら、どうなっただろうか。彼が偽者であることが判明してしまうに決まっている。見られなくて良かった、と彼は安堵した。
「貴方が戻ってきたから、マザーは嬉しかったんじゃない? だからせめて記憶を戻す手伝いをしたくて、貴方の記憶を見てみようと――」
「止めてくれ!」
思わず怒鳴ってしまったが、ターキアは気にかけてもいないようだった。
「じゃ、帰りましょ」
彼の腕を引っ張り、歩き出す。
彼は一度、小部屋の入り口を振り返る。閉じられたドアからは光が漏れている。
『私ハ、ドコカラデモ、アナタヲ見テイルワ』
その言葉が、耳の奥でこだました。
闇が、広がっている。
その闇の奥に、なにかの気配がある。
声が聞こえてくる。よく聞いてみると、名前を呼んでいるのではなく、助けを求めているようである。苦しそうにうめき、もがくような声。
闇の中を進んでいく。前方の気配はますます強くなり、続いて、聞こえてくる声もだんだん大きくなって、はっきりと聞き取れるようになってきた。
目の前に、突如ドアが出現する。ドアは少し開いているようだ。ノブに手をかけて、ドアを大きく開けようとすると、ドアの向こうから誰かのうめき声と共に、震えている腕が伸びて――
眼が覚めた。
寝台の上に飛び起きた。全身が汗だくになって、喉がヒリヒリする。
枕もとの時計は、朝五時半を表示していた。
額から流れ落ちる大粒の汗をぬぐい、スペーサーはふうと大きく息を吐いた。
「何なんだ、あの夢は……」
起き抜けのハスキーボイスで、ひとりごちた。元々彼はハスキーな声なのだが、口内がカラカラに渇いているのと、今起きたばかりのために、より一層声は掠れていた。
この世界に飛ばされる前、彼は、自分を呼んでいるらしい何者かの声を突き止めようとして闇の中に落ちる夢ばかり見てきた。そして先ほど見た夢の中の声も、ずっと見続けてきた悪夢の声と同じ。今度は呼び声ではなく助けを求めている声だった。
「あれは、一体誰なんだ? なぜ、私に助けを――」
やり場のない苛立ちを抱えた彼は、二度寝する気になれず、寝台から降りて洗面所に向かう。昨日洗った服の中に寝間着がなかったので、一番着古された白衣を寝間着代わりにしていた。質は良くなく、着るだけでごわごわするが、保温性は良かった。
顔を洗った後で、苦い水道水で口をゆすぐと、喉の渇きはだいぶ収まった。部屋に戻って着替えると、布団を畳んで、寝台に腰掛ける。
「あの日記……あの日記を読めさえすれば」
消息の分からない「彼」が書いたであろう日記。あの日記を読めば、ひょっとしたらもとの世界に帰る方法もわかるのではないかと、根拠なき願望を抱いていた。
ふと、ヨランダとアーネストのことが、頭に浮かんできた。腕時計とデジタル時計は同じ時間を表示している。スペーサーがこの世界に何らかの方法で飛ばされてから、同じ時間が経過しているのがわかる。
「……二人とも、心配しているんだろうか」
分からない。
この世界に来て、二日目の朝が始まろうとしていた。
「マザーからの外出許可?」
野菜とはとても思えないような苦さを持つレタスの葉を何とか飲み込んで、スペーサーはターキアに聞き返す。
「そうよ。貴方、自分の部屋のドア見てないの? 通達が入りっぱなしだったわよ」
ターキアは言った。
「この町の中は自由に行き来できるけどね、その外の立ち入り禁止区域に行くには、マザーの許可が必要なのよ。で、許可されたら部屋のドアのポストに許可証が入るわけ。思い出せた?」
首を振る。そもそも、そんな事は彼女の口から聞くまで知らなかった。
「あら、思い出せない? それにしても、貴方自分から外出したいって言ったの?」
「え、あ、その……」
茶を濁したような返答であったが、ターキアは構わず、続ける。
「外に行くなら、警備ロボットと一緒じゃないと駄目よ。これもマザーが決めたことだけど、そのロボットを開発するのが、私の担当。でもただのロボットじゃつまらないから、マザーの許可をもらって、人格プログラムを組み込んであるの。貴方、私の開発した警備ロボットに担ぎこまれて、中央局に帰ってきたのよ」
この世界で初めて出逢ったのが、その警備ロボットであった。あのやかんの形をしたロボットが頭の中に浮かんだ。
(そういえば、性格も瓜二つだなあ)
あのロボットも、ターキアも、おしゃべりであった。
薬のような味のするサラダと、卵の味がしない潰れた目玉焼きと、栄養剤の食事を終えた後、スペーサーは部屋に戻った。ドアの下部に、投入口があり、そこに紙が挟まっている。それを取って広げてみると、「外出許可証」と質の悪いインキでタイプしてあるだけの白紙であった。
(これが通達ねえ……)
紙を畳んで、部屋に入る。そしてドアを閉めたところで、彼は訝った。
(なぜ私が外に出たがっていることを、知っているんだ……?)
きちんと折りたたまれた通達が、彼の手の中で、皺だらけになるまで握られていた。
スペーサーは、中央局の出口まで歩いていった。昨日、ターキアが彼をつれて中央局を一周した時は、そこは幾重ものゲートによって厳重に閉ざされていた。だが今は、開いている。
自動ドアが開き、前方からかすかに汚水の臭いが漂ってくる。外の空気だ。彼が外に出ると、プロペラの音が聞こえてきた。
「いよう、外に出たいってのは、お前か」
懐かしい声。そして、先の門をくぐって姿を見せたのは、スペーサーが立ち入り禁止区域で出逢った、警備ロボットであった。
「やあ」
スペーサーはロボットのほうへ歩いていく。ロボットは彼のほうに飛んでくる。そして、あの怪力で彼を軽々と持ち上げ、背中の金属板に乗せた。
「で、お前、立ち入り禁止区域に、何しに行くんだ」
「何って、探し物をしに行くんだ」
「探し物? 何を探したいんだ」
「別にいいだろう。それより、行ってくれないか」
あまり乗り心地は良くないものの、ロボットが飛んでいる間、スペーサーは考えていた。あの日記がまだあの家の中にあるとすれば、急いで探さなければならない。誰かがあの日記を、わざわざあの場所に入れたのだ。そしてあの文面からして、間違いなく彼に見つけられることを期待している。あの日記は彼に充てて書かれたものなのだ。
町を出ると、途端に辺りは薄紫の光で覆われた。町の明かりは遠くなり、視界が紫に染まる。
「この紫の光は、一体何なんだ? 太陽はないのか?」
スペーサーが問うた。ロボットは首をぐるっと回し、彼の方を向く。
「タイヨウって何だ? この光は、マザーが降らせているんだ。奇妙な病気の菌を防ぐための光なんだそうな」
「病気を防ぐため? 効果はあるのか?」
「知らんねえ」
ロボットはそれから、廃屋をいくつか通り過ぎていく。
「ここだここだ!」
スペーサーがその背中から突然飛び降りたので、ロボットはうろたえたようだ。
「どうしたよ?」
「ここに探したいものがある」
スペーサーはそれだけ言って、家の中に飛び込んだ。
相変わらず、鉄くずと埃だらけの家の中。彼は用心しいしい階段を登り、自分の部屋に入る。
「あった!」
床の上に落ちたままの日記帳。割れた窓から差し込む紫の光に、その日記帳は照らされている。放られたままだったのでページが折れている箇所があったが、それ以外は別に損傷もない。丁寧に埃を払い、白衣の裏ポケットにしまいこむ。そして部屋の中をもう少し探してみたが、今度は何も見つからなかった。
階下で、ロボットが待っていた。
「よお、探し物、見つかったかい?」
「一応な。だが、もう少しなにか探したい」
「だから、そのなにかって何だよ?」
「人の持ち物だ。何でもいい」
一時間後、何も収穫はなかった。スペーサーは探索を一旦諦めて、ロボットの背中の板に乗り込む。実際、彼は、ここを調査していただろう「彼」に関する手がかりがほしかったのだ。だが何も見つからず、帰ることにしたのだ。
「疲れた。戻ってくれ」
ロボットが飛んでいる間、スペーサーは、日記帳を取り出して、その表紙を眺めた。日記帳の表紙には、かすかに、その日記の書かれ始めた日付が記されている。一昨年の二月からだった。しかし、このノートは、一年あるいはそれ以上前に書かれたにしては、ずいぶんと痛んでいる。変色もひどい。たったの一年でこれだけ痛むはずがない。
町中に入る。ロボットはしばらく道を飛んでいたが、ふと、飛行速度を落とした。
「ん? どうした」
日記帳を白衣の裏ポケットにしまい、スペーサーはロボットの頭の上に身を乗り出す。
「見てみろ、客人だぞ」
ロボットの指した方向から、真っ白な服に身を包んだ一人の少年が駆けてきた。
「にいちゃん、にいちゃんだね!」
歳はまだ十に満たぬであろうその少年は、スペーサーを見つけて、駆けてきたようだ。スペーサーがロボットの背中から降りると同時に、少年は彼のそばまで駆け寄る。
「にいちゃん、元気してる? 研究、進んでる?」
「え、研究……」
唐突な話題の提供に、スペーサーは戸惑う。この少年はどうやら「彼」の知り合いらしい。「彼」にもスペーサーにも、兄弟姉妹はいない。
「なんだよ、あの病気を治す薬を作ってやるって意気込んで、中央局へ行っちゃったくせに、忘れちゃったの? みんな期待してるんだよ、いつかにいちゃんが薬を作ってくれることを」
「あ、そう、そうだったな、すまない……」
スペーサーはとっさに話をあわせる。少年は気づいた様子もなく、続ける。
「出かける前、にいちゃん話してくれたじゃん、外部調査に行って病気を治す方法を見つけてくるって。病気治す方法、見つかったの?」
「ええと……」
スペーサーはつっかえた。少年は純粋な瞳でじっと彼を見つめている。スペーサーはかがみこみ、少年の両肩を軽くおさえた。
「実は、まだ話せないんだ」
「それって、何にも分かってないってこと?」
「いや、そうじゃない。病気の原因となるものは、見当はついている。しかし私の考えが本当に正しいかどうかは、もっと詳しく研究をしなければならないんだ。外部調査から戻ってきたばかりだから、中央局の設備を使わないと、詳しいことは分からない状態だ。だから、本当に病気を治す方法は見つけたとは、いえないんだ」
その場しのぎの嘘であったが、少年はそれを本気にしたようだった。
「そうなんだ。やっぱりにいちゃんでも大変なんだね。わかったよ、みんなに伝えておくよ。でもね」
少年は言葉を切った。
「一刻も早く、病気を治す方法を見つけてね。また一人、死んじゃったんだ……」
「そうか……。わかった。急いで研究を再開するから、待っていて欲しい」
「わかった!」
少年はぱっと顔を晴れやかにし、ばいばいと叫んで、走り去っていった。
少年の去った後を見送り、ロボットはスペーサーに言った。
「いよお、お前、大変だな」
しかし、彼は聞いていなかった。少年の去った後を見て、ひどく胸が締め付けられるのを感じていた。医学のことなど何も知りはしない。完全な門外漢だ。だがあの少年は彼を「彼」と思い込んでいる。ああ言わなければ、偽者だと疑われてしまう。だが――
キリキリと、胸が痛んだ。
中央局に戻ってから、スペーサーは医務室に行った。入り口の近くにある医務室で精密機械の検査を受け、病気に感染していないことを告げられた後、部屋に戻り、あの日記を読み始めた。日記の開始は一昨年の二月からで、終わりが去年の十月になっている。日記帳自体が変色しているのと、ところどころに紙魚があるのとで、文字が見づらい。文章はいずれも鉛筆とボールペンで書かれたようだった。
日記には、一ページにつき四日分が簡潔に記されている。しかし毎日書かれたわけではなく、日付が飛んでいる箇所もあった。二月から三月までは、主として日々の生活や研究過程をつづってある。「彼」の研究内容は、この世界に蔓延した奇病を防ぐためのワクチンの開発であったが、時たま苛立ったような書き込みを見る限り、研究はあまり捗っていなかったようだ。研究科と技術科の二つの科からも病人が出た時、病人の生体データを取ることで病気を引き起こすモノの正体を突き止めようとしていたようだ。四月からは外部で調査を行う準備をしていたようだが、書き込みの日付が一週間おきになっていた。時間が足りないだの何だのと愚痴がつづられているところを見ると、忙しさのあまり出かける準備に手間取っていたのであろう。
五月にはいると、立ち入り禁止区域のどこかで研究を開始したという一文があるだけで、次は六月になっていた。だがその日付は、その一年後、つまり去年の六月から開始している。六月一日から五日までの日記を読むと、食糧補給のために、一旦中央局に戻っていることが判明した。そして数日後にまた外出許可を取り、ロボットと一緒に、夜のうちに立ち入り禁止区域へ出かけたようだった。つまり五月から約一年間、「彼」は外部で研究を行い、翌年の六月にまた研究のために、外へ出たのである。出かけた六月五日には、ヴィクトルが愚痴をこぼしただの、ターキアが手を振って見送っただの、少し恥ずかしくなるようなつづりが目に入る。
スペーサーは四月の日記を読んで、思い出した。立ち入り禁止区域に行くには、警備ロボットの付き添いが必要であるという事を。日記の続きを読んだが、警備ロボットがいる事を示唆する文章はない。警備ロボットをアシスタント代わりにしていたという記述もない。それとも単に書かなかっただけなのか。それにしても、警備ロボットとずっと一緒にいたならば、「彼」が消息を絶つことなどありえないはずだろう。
七月に読み進めるにつれ、何か発見があったらしく、興奮していたのか、走り書きにちかい字で書かれている。おまけにページの損傷もひどくなってきて、より読みづらい。日付は一日おきになっているが、八月にはいると、途端に日付が三日おきだったり、一週間おきだったりと、てんでバラバラになってしまっている。外部調査期間の日記の内容をまとめると、どうやら「彼」は立ち入り禁止区域で、あの奇病とは別の研究に着手したようだったがその内容は、スペーサーの目には奇抜に映るものであった。「彼」が研究していたのは、空間を捻じ曲げて別の空間を結びつけるというもので、いわゆるパラレルワールドという自分の住む世界とそっくりな別世界を、自らの世界と引っ付けてしまおうとするものである。
「そういえばこの手の小説もあったよな」
ふと、スペーサーは口に出す。過去に読んだことはあるが、馬鹿馬鹿しい御伽噺だと片付けていた。しかし、彼が今置かれている状況はまさに、小説の場面と同じ。主人公が、全く異なる世界に放り出されるという場面と酷似しているのである。
「事実は小説よりも奇なり、か……」
ひとりごち、日記のページをめくる。九月にはいると、研究が捗っていることを示す嬉しそうな文章がぎっしりと、ページを丸ごと占領した。そして十月にはいると、ページを紙魚が陣取り、ほとんど何も読めない状態だった。読めないことへの苛立ちを隠さず、彼は乱暴にページをめくっていった。十月三日に、「彼」は一度、何らかの準備のために中央局に戻って、また数日後に立ち入り禁止区域へ来ている。それ以降は紙魚だらけでほとんど読めない。いよいよ最後の日付、十月二十五日の箇所を読む前になり、急に前日の二十四日の日記に目を留めた。
二十四日の日記は、その箇所の大半が紙魚だらけであったが、わずかに見える一箇所だけ、短いつづりがあった。
Mother
「……Mother?」
なぜこの単語が書かれているのだろうか。後は紙魚で読めなくなっている。Motherとは、世界統率機関のマザーコンピューターを指すのだろうか。
何とか他の箇所を読めないものかと彼が考えている時――
「!」
視線。
それも、かなり近くから。
彼は反射的に身構えた。椅子から腰を浮かし、周りを素早く見回す。天井、入り口、寝台、机、床、椅子の下、タンスの側。だが、視線の主はどこにもいない。彼の背中を、冷や汗が伝う。
(どこだ、どこからだ?)
彼はまた、周りを見回す。閉ざされたこの部屋にいるのは彼だけであり、他の人間がいるようには思えない。しかし、誰かの視線を感じるのだ。驚くほど近くから。
時折彼は、動物並みに直感が働くことがある。そして、彼はその直感を信用していた。日ごろからアーネストに八つ当たりで殴られることが多いためか、自然に発達した防衛本能のようなものである。この直感のおかげで何度か、殴られることを回避したこともある。
直感は告げていた。この部屋の中に、その視線の主がいるという事を。
「!」
異臭。かすかにどこからか漂ってくる。昨日、机の引き出しの鍵を探している時に嗅いだ、あの臭い。一体どこから漂ってくるのか。
視線の主を直接探そうとして、彼が入り口のほうへ歩きかけたとき、ドアの投入口から、通達が差しこまれた。それを取って、読んでみる。
彼は訝り、目を細めた。
今夜七時に管理塔へ来いという、マザーからの命令だった。
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