第4章 part2



 夜七時。スペーサーは管理塔を訪れた。エレベーターで登り、暗い廊下を歩く。目の眩みに備えて一旦目を閉じてからドアを開ける。そして目が慣れてから、中へと入った。
 室内は、機械がウィンウィンとうなりを上げて稼動している。そして部屋の中央にそびえるモニターに、また、女性のシルエットが映し出される。
 マザーだ。
「アラアラ、チャント来テクレタノネ」
 笑っているのか、耳障りなノイズが聞こえる。スペーサーは僅かに歯噛みした。あの音は大嫌いだったのだ。
「トコロデ、外ハ、楽シカッタ?」
 唐突な問いに、スペーサーはぎょっとした。耳障りなノイズが、一層大きくなった。
「何ヲ驚イテイルノ? 言ッタデショウ、『私ハドコカラデモ、貴方ヲ見テイル』ト」
 どこからか、配線が一本伸びてくるが、スペーサーはそれに気づかないで、モニターを凝視していた。
「私、貴方ガドコデ何ヲシテイタカ、知ッテルノヨ?」
 マザーの言葉と同時に、スペーサーの手足に配線が絡み付いてきた。振りほどこうとすると、配線は手足をよりきつく締め付ける。
「知っているなら、なぜこんなことを――」
「外ニイタ事で、貴方ノ記憶ガ戻ッテキタカモシレナイデショウ? 記憶ヲ見テアゲル」
 ノイズがより一層大きくなる。スペーサーは焦った。配線に絡みつかれ、手足を動かすことすらままならない。そして、もう一本、プラグのようなものがついた配線が、彼の頭に向けて、ゆっくりと伸びてくる。
「記憶を覗く必要なんかないんだ! まだ何にも思い出せないから!」
 ほとんど自棄になって、彼はマザーに訴える。しかし、マザーの返答は、からかっているようなノイズ音であった。
「アラソウ。デモネ、遠慮スルコトハナイノヨ。チョット大人シクシテイテ頂戴ネ。スグニ終ワルカラ――」
 その言葉と同時に、体に衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。
 目を開けたのは、それからどのくらい経ったのか。体に巻きついた配線はなく、彼は冷たい鉄の床の上で横たわっていた。体を起こそうとすると、全身に微弱な電流が走った。その電流が走る痛みに顔をしかめながら、何とか起き上がる。そして、一体何故自分が気を失ってしまったのか、思い出そうと努めた。
(そうか、電気ショックで気絶させられたのか。そして記憶を――)
 意識がはっきりし、記憶が更にはっきりするにつれ、彼の体を焦りが支配した。
「まさか、記憶を覗かれた?!」
 モニターには何も映っていない。周囲の機械は静かに稼動している。記憶を覗いたにせよそうでないにせよ、マザーはどうやら彼を解放したようだ。彼は慌てて立ち上がり、よろけて部屋を出た。記憶を覗かれたかもしれないという焦りから、彼の心臓は肋骨を突き破らんばかりに激しい動悸をおこしていた。
 エレベーターで階下へ降り、中央局に戻る。部屋に戻るために薄暗い廊下を歩いていると、研究室の並ぶこの廊下で、先の部屋から話し声が聞こえてきた。明かりが漏れているところからして、ドアは開いているようだ。彼はその部屋の近くに、足音を忍ばせて近づき、壁にぴったりと引っ付いて、室内の会話を聞いた。
 会話しているのはターキアとヴィクトルである。
「何度も言ったろう、ターキア!」
 ヴィクトルが強い口調で話す。
「奴は偽者なんだ、間違いないんだよ」
「でも」
 ターキアの声。弱弱しい。
「生体データは取ったでしょう? そしてそれは皆一致した――」
「ああ、確かに一致した。だからマザーはIDカードを再発行したんだ。だが僕は知っているんだ。奴は『違う』んだ。奴の言動は記憶喪失じゃ説明がつかないんだよ。あれはむしろ、記憶喪失じゃなくて、『知らない』んだ。君にも分かるだろう」
「ええ、だけど。生体データは一致して、マザーだって本物だと認めたんでしょう。生物学的に同一人物であることは正しいはずでしょう?」
「ああ、そうさ。生物学的には、遺伝子全てが一致している。だが、奴は全くの別人なんだよ。……奴がここへ担ぎ込まれてきたときの服装、覚えているだろう?」
「ええ……。中央局員にだけ配布される服だったわ」
「そしてその服は、支給される服とは質の良さが違う。履いている靴だってそうだ。あんなの見たことないし……」
 スペーサーは自分の履いている靴を見る。今気づいたが、彼が履いているのは、休日に履くスニーカーだった。この世界に飛ばされてきた日、寝坊して大学に遅刻しそうだったので、何を履いて出て行ったかすら気に留めていなかったのだ。
 話が続く。
「奴は懐中時計ではなく、腕時計をつけていた。あれほど腕時計を嫌っていたくせに。それに、あの腕時計の形だって、支給されるものとは違う」
「じゃあ、一体どこで手に入れたというの?」
「さあな。向こうは白を切っているようだが、そのうち吐かせるよ」
 そして、お休み、と声が聞こえ、足音が近づく。慌てたスペーサーは身を隠す場所を探し、すぐ隣の研究室に飛び込んで、研究用デスクの影に身を潜めた。その直後、廊下をヴィクトルとターキアが通っていった。二人分の足音を聞いた後、彼はもうしばらく身を潜めていた。そして、足音が聞こえなくなると、ほっと息を吐いた。ひとまず立ち上がり、そっと研究室の外へ出る。
 部屋へ歩き出そうとすると、
「何しているの?」
 背後から聞こえた声で、彼は飛び上がった。振り返ると、すぐ後ろにターキアがいた。一体いつ現れたのか。
「な、何してるって、その――」
 スペーサーが返答に窮すると、ターキアは彼の上気した顔を見つめた。
「顔、赤いよ。おまけに呼吸も荒いし……何してたの、運動?」
「な、何でもないんだ!」
 彼はターキアを振り切るように、駆け出していた。
(何でもないはずがないだろう。盗み聞きしていたなんて、言えるはずがないんだ……!)
 部屋に飛び込み、乱暴にドアを閉めた。闇に支配された小部屋の中で、彼の荒い呼吸と、激しく脈打つ心臓の音だけが、こだましていた。

 闇の中で、何かがうごめいている。苦しそうな声もする。
 突如、目の前にドアが出現する。そのドアはわずかに開いている。ドアを開けるために、ノブに手を伸ばす。ノブに手をかけると同時に、ドアが勢いよく内側へ開き、その開いた勢いで投げ出される。投げ出されたその背後で、ドアが閉まった。
 異臭。
 部屋の中は異臭で満ちていた。
 小部屋の奥に、寝台のようなものが浮かび上がる。その寝台らしいものの上に、何かが乗っている。その形から、寝かされているといったほうが正しいだろうか。その寝かされている何かから、うめき声が発されている。今度ははっきりと聞こえてきた、助けて欲しい、と。そして、その何かから、一本の腕が伸びてきて、こちらの腕をぐっとつかみ――
「!!!」
 眼が覚めた。
 勢いよく寝台の上に飛び起きたスペーサーは、ぜえぜえと荒く呼吸した。大粒の汗が額をいくつも流れ落ちていく。心臓が激しく脈を打っている。
「一体なんだ、あの夢は……。だんだんイメージが鮮明になっていく……」
 枕もとの時計と彼の腕時計は、朝の六時をさしていた。彼は寝台から降りると、ヒリヒリする喉を落ち着かせるために洗面所に向かった。用を済ませてから服を着替え、あの日記帳を白衣の裏ポケットへ入れる。
 朝食を取るために食糧配給所へ急ぎ足で歩く。ヴィクトルやターキアと出逢いたくはなかったのだ。昨日の会話を聞いた後なのだから。ヴィクトルはもちろん、ターキアもスペーサーを疑っているようであることは、あの会話から想像がついた。これからは接触のたびに、彼女から疑惑の視線を向けられることになるかもしれない。
 そんな事を考えながら、彼は食糧配給所に入り、投入口にIDカードを入れる。しかし、
「認識不能」
 と、カードを突き返されてしまった。何事かと思ってカードを見ると、投入したカードは、物置の床に落ちていた、写真とナンバーの削られたカードであった。今度は胸のポケットからIDカードを出して投入すると、きちんと認識された。
 薬の味しかしない朝食を取りながら、彼は先ほどの、削られたカードを眺めていた。先ほど投入したこのカードがつき返されたという事は、機械は写真とナンバーで個人の認識を行っているという事になる。しかし、なぜ削られているのか、その理由が分からない。カードをつき返されたという事は、写真とナンバーなしでは機械が認識してくれないという事。これでは、食事も取れないではないか。
「認識……待てよ!」
 スペーサーは思わず立ち上がった。
(このカードは、認識されないために写真を削られたんだ。そして写真を削ったのは、「私」だ)
 突然のひらめきである。しかし何故そのように考え付いたのか、彼にもわからなかった。
 悩みながら食事を終え、部屋に戻る。その途中、ターキアとすれ違う。
「あら、おはよう。早いのね」
「え、ああ……」
 ターキアは変わらず、笑っている。だがその笑顔は、彼には、形ばかりのものとしか思えなかった。
「なぜ、君は笑っているんだ」
 すれ違い様、彼は問うた。ターキアは振り向いた。
「なぜ笑っているかって? 貴方が帰ってきてくれて、嬉しいからよ。だって、中央局員は、もう三人しか残っていなかったし、貴方が何度も外部調査に出た時は本当にびっくりしたわ。なんでそんなに外に出たがるのかわかんなくって。それに、三回目の外部調査の時は警備ロボットの連絡だってなかったし……ひょっとしたらロボットが何かの弾みで壊れちゃって、貴方は病死したんじゃないかって思ってた。でも、貴方は帰ってきてくれた……それが嬉しいのよ。だから私は笑っているの」
 笑っている。その笑顔を見るだけで、彼は胸がひどく締め付けられるような痛みを感じた。ひょっとしたら、中央局に彼が現れるまでは、本気で「彼」のことを心配していたのかもしれない。だが、中央局に現れた彼は、「偽者」だった。帰ってきたという事を知った時は、本当に嬉しかったのだろう、しかし今は――……。
(頼むから、無理して笑わないでくれ……)
 去っていくターキアの背中を見つめ、彼は思った。
 笑顔に反して、彼女のポニーテールは寂しそうに揺れていた。

 部屋に戻り、彼は日記帳をまた取り出した。この日記の最後の日付、十月二十五日の箇所を読む。文中には何度も『彼』という記述が出てくるが、これがスペーサーを指すであろう事は、想像に難くない。
 日記を何度も読み直して判明したことは、「彼」がワクチンの研究以外に、空間を歪めてこの世界と別の世界を結び付ける研究を内密に進めていたという事である。日記の文面からすると、この理論は未完成のようだ。
「空間を歪めて結びつける……」
 紙魚だらけの紙面をにらみつけ、スペーサーは呟いた。
「あの日、一体何故私がこの世界に飛ばされてきたのか、原因が全く分からなかった。だが、もしかしたら、この理論でもって、この世界に呼び出されたのかもしれない」
 この世界の「彼」に会って、話を聞きたかった。だが、一体どこにいるのか見当もつかない。もう一度、十月二十五日の日記の文面を最後まで読み直す。

『十月二十五日。実験はとうとう成功した。監視の目を離れたところで実験を行ったのだ、何の邪魔も入っていない。だがこの実験には時差の問題がある。私がいくら緊急を要していても、この実験において実際に事物が現れるまでに、早くても半年、遅くて一年はかかるだろう。
 もう戻らなければならない。だが、この日記を奴に見られては不味い。この日記だけはここにおいておく。ここならば、彼は必ず見つけてくれるだろう。いや、この家に来ることはわかりきっているのだ。どうしても、私は、彼の助けが必要なのだ。そして、身動きの取れなくなる前に私のところへ来て、私と共に』

 その先は、どす黒い紙魚によって読めなくなっている。文脈から考えて、「彼」は今年の十月二十五日以降に、一度中央局へ戻っているようだ。だが、ターキアもヴィクトルも、「彼」が戻ってきたことについては何も言わず、先日、中央局に彼が担ぎこまれたことしか口にしていない。つまり「彼」は中央局へ戻ったというのに、二人には会っていないのだ。仮に、一度戻って二人に会った後でまた姿を消してしまったのならば、「一年も連絡をくれなかったし、戻っても来なかった」とは言わない。「帰ってきたと思ったのに、一体どこに行っていたのか」と問うであろう。
 カタン。
 投入口から、通達が差し込まれているのが目に入る。ドアのほうに歩んでそれを取り、紙面を広げる。文面に目を通すと、彼の顔に疑惑と不審の表情が表れる。
 外出許可証。
(なぜ? 一度外出したら、しばらくは中央局にいなければならないはずだが)
 外で探し物をする機会は増えた。だが、それ以上に、彼は納得がいかなかった。マザーが自ら作った法律を、マザー自らが破っている。ころあいを見計らったかのように届けられる通達。昨日、マザーは彼の記憶を覗いた、あるいは覗こうとした。仮に見られたとしたら、彼が外出しようとする理由も理解するに違いないのだ。普通は引き止めるだろう。しかし、なぜ外出許可を出したのだろうか。
(私を、泳がせるつもりなのか……?)
 マザーが何を考えているのか、彼には分からなかった。


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