第5章 part2



 ドアが開くと同時に、強烈な腐敗臭が襲い掛かった。スペーサーは耐え切れず、ひどく嘔吐する羽目になった。
(何だ、この光景は。まるで、夢の中の光景を再現したようだ……)
 ある程度収まったところで、彼は、またあの包帯を巻いた何者かに引っ張られ、部屋の中に入ることになった。
 天井から、弱弱しく、オレンジの光が降り注ぎ、部屋の中を照らしている。何とか周りが見えるか見えないかという明るさだ。彼は、部屋の中を見回した。小さな部屋だが、片隅には奇妙な機械が置いてある。その側には、一つの引き出しがついただけの小さな机がある。壁の一つに小型の液晶モニターが設置されている。寝転がって画面を見られるように角度が調節してあった。そして、小部屋の最奥には、寝台らしい台がある。
 何者かが、彼を押す。行けと言っているようだ。彼は進んだ。その寝台の側へ。
 オレンジのライトが照らす寝台には、誰かが横たわっている。全身がしみだらけの包帯で覆われ、頭髪は抜け落ちている。着ていると思われる服は、体から滲み出ている膿のために汚れ、異臭を放っている。片腕には点滴がつけられているが、吊るされた点滴の袋には、ほとんど何も入っていない。
 寝台の上に横たわる誰かは、ゆっくりと、彼のほうへ顔を向ける。思わず目を背けたくなるような光景だが、スペーサーはじっと相手を凝視していた。
 包帯の隙間から、口が動くのが見える。
「……やっと、来てくれたか」
 小さな声のため、よく聞き取れない。相手は名乗らなかったが、スペーサーは、目の前に横たわる人物が誰なのか、分かっていた。
「……「スペーサー」……」
 包帯を巻いた「彼」は、小さくうなずいた。
 スペーサーは、相手を凝視したまま、固まっていた。会ったら言いたいことがたくさんあった。だが、何を言えばいいのか、急にわからなくなってしまった。あれも言いたい、これも言いたいはずなのに。それを察したかのように、「彼」は口を開く。
「君が来てくれることは、分かっていた……。私は、君の手助けがどうしても、必要だったのだから……。だから、君を呼んだ、私の世界に」
「……」
「この世界で、君が苦労したことは、知っている。全てこの部屋で、見ていた、から……」
「見ていた?」
「そう、この部屋の、小型カメラを通じて……そして、もう一つの目を使って……」
 もう一つの目というのが何を指すのかはわからなかったが、今までにスペーサーの感じ取った視線の主は、「彼」であるようだった。
「あの日記、読んでくれたか?」
 スペーサーは、問いに対し、こっくりとうなずいた。寝台に横たわる「彼」は、ほっと息を吐く。
「あの日記には、私の、これまでの研究についての大まかな流れだけを書いてある。本当の研究内容は、別の場所に保管した……。あの日記をあの廃屋においてから、私は中央局に戻り、ターキアにもヴィクトルにも会わず、存在を知られぬようにIDカードの写真とナンバーを削り取り、この部屋に隠れて私の組み立てた理論の実践を行った……病が進行して命尽きる前に、君をこの世界に呼び寄せたのだ」
「……なぜなんだ」
 やっとスペーサーはこれだけを言えた。先ほど以上にその声は掠れていた。
「なぜ私を呼んだんだ!」
 寝台に横たわった「彼」は、弱弱しく、笑んだ。
「君に――Mother−2の支配下にない君に、Mother−2を破壊して欲しいからだ」


 Mother−2を、破壊する?


「は、破壊する……?」
「そうだ。初代Motherは、世界統率機関のコンピューターに内蔵されていた人格プログラムだった。Motherが機能することで、世界は安定を保っていた。そして、Mother−2は、Motherに何か起こった場合を想定して作成された補欠の人格プログラムだった……」
「彼」は、ふうと息を吐く。
「Mother−2は、初代Motherを暴走させた。そして、暴走によって破綻した世界の混乱に乗じて、あの奇病の病原菌を作成し、世界中にばら撒いたのだ……」
「病気を、ばらまいた……? 何のために」
「人間の数を減らすためだ。Mother−2は、人格プログラムに欠陥があり、あまりにも支配欲が強かった。病原菌をばら撒き、ほどよく人間の数が減ったところで病原菌を振りまくのをやめた。世界統率機関を治めていたMotherに代わって、人間達が、Mother−2を統治者とすることを期待していたのだ……」
「なぜ分かるんだ?」
「私は、一回目の外部調査で、病がどこからきたのかをたどった。あらゆる地質からサンプルをとり、そこに存在する微生物のデータと、病死した中央局員の生体データと突き合わせた。二度目の外部調査では、中央局から密かに持ち出した病気のデータと、一度目の外部調査から得たデータを比較し、病気の原因となる病原菌の存在をやっと突き止めた。この世界では決して存在できない、人工の生命体だった。そしてその人工の病原菌を解析し、やっと突き止めることが出来たのだ。あの生命体は、人間の肉体構造を知り尽くした者しか作れないと――」
「彼」は、一旦話を止める。
「人間の体は、一度病にかかれば抗体が作られるようになっている。Motherがいた時代は、人間はMotherから配布された薬を飲むことで、地上に存在するあらゆる病に対して抗体を得ていた。だが、Mother−2は、人間を確実に減らすために、人工的に病を作り出した。Mother−2が病原菌を新しく作ったという証拠は、中央局に戻って休息している間に発見した。地下書庫で見つけた、Mother−2に関するデータブック……。Motherの持っているあらゆるデータを、Mother−2に内蔵してあると、そのデータブックには記されていた。つまり……Mother−2は、あらゆることを知っていたのだ。Motherが人工的に抗体を作らせる薬を人間に配った結果として、人間があらゆる病の抗体を有していること、この世界にどのくらいの種類の病気が存在しているかということ……とにかくMotherのデータを移植して作り上げられた存在なのだから、Mother−2は何でも知っていたのだ。だから、どんな病を作り出せばいいのかも、理解できていた……」
 声が聞こえなくなってくるので、スペーサーは屈み込んだ。
「そしてあのデータブックには、Mother−2をプログラムするにあたって、性格にバグが発生し、それがなぜか修正できなかったとも記されていた。人格プログラムのデリートも行われた記録がなかった。その理由も分からない。Mother−2は、結局、人格が一部歪んだまま完成した。だが、支配欲が異常に増大していたMother−2は、あの病を作り出して人間の数を限界まで減らし、環境を破壊しつくした。それだけは間違いない……」
 はあ、と「彼」は大きく息を吐く。
「私は、二度目の外部調査の後半で、人工の病原体を徹底的に調査し、あの病の抗体を作り出すであろうサンプルの薬を作った。そして、自分で試してみたが、効果はなかったようだ……」
 弱弱しく、彼は笑った。
「だから、三回目の外部調査の前半で、自分が感染したことを知ったとき、もう一種類のサンプルを作った。今度は前回のデータに、これまでの研究から得たデータと、私自身のデータを加えて改良してある。私個人のDNAを用いて作ったから、同一人物である君になら、効き目はある」
「では、なぜ服用しないんだ」
「あれは、あくまで予防するもの。発病してからでは遅いのだ。だから、君に服用してほしい……。Mother−2が君に病を植え付ける前に……」
 震える手で「彼」が指差したのは、引き出しの一つついた小さな机。スペーサーが引き出しを開けてみると、その中には、シャーレに入った一錠の薬と、鎖つきの懐中時計、鍵が入っていた。
「しかし、私がこれを服用したら、君はどうなる?!」
「もう手遅れだ。このまま死を待つのみ――」
 スペーサーはつかつかと足早に歩み寄って、「彼」の側にかがみこみ、がしっとその肩を掴んだ。
「冗談じゃない! 君が死んだら、私はどうやって元の世界に帰ればいいんだ。それとも、この世界で一生君の代理をつとめろというのか!」
「いや、帰れるとも」
 弱弱しく、「彼」は言った。
「ただし、時間が必要なのだ」
「時間?」
「約一年前、私は君を、この世界へ呼び寄せた。私の空間理論の限界だったのだ。それだけの時間をかけなければ、君を、ここへは呼び出せなかったのだ。逆に、君がこの世界から帰るにも、それだけの時間を必要とする」
 空間を渡るのに、この場合は約一年の時間が必要だということ。計算すると、スペーサーが元の世界に戻ったその時は、彼がこの世界に来るために空間を渡った分と、元の世界に戻るために空間を渡った分の、二つの時間を合わせる必要がある。つまり、彼が元の世界から消えて、また戻ってくる間に約二年もの時間が経過しているのである。行って戻ってくるまでの間、彼は行方不明として扱われているはずである。
「この世界にきたその日に、帰ることは出来ないのか?」
「たぶん、出来るだろう。私の空間理論には穴があるはずだ。その穴を見つけることが出来れば可能だろう。しかし、その前にMother−2を破壊しなくてはならない」
「だから何故!」
「奴は支配欲に溺れすぎた。このままでは、この世界の環境は完全に破壊されつくすだろう。Mother−2は中央局の研究者に環境の再生を試みさせていたが、それはMother−2が自然を必要以上に破壊しすぎたためだった。さらに環境破壊が進めば人間はおろか微生物すら生存することは出来なくなる。だからせめて、Mother−2を破壊して、その支配を断ち切らなくてはならないのだ……」
 声がだんだん聞きづらくなった。
「破壊することで、これ以上環境破壊が進むのを止めることができるはず。そして、その破壊プログラムは、懐中時計の、中に……」
 しみだらけの包帯を巻いた片手が、スペーサーの顔に触れる。
「君はこの世界の支配下に置かれていない。異世界の住人である君になら、Mother−2を破壊できる。私では、もう無理だ――」
 目の前にいるはずの「彼」の姿がぼやける。
「すまなかったな、巻き込んでしまって……」
 包帯を巻いた手に、熱い涙が、流れ落ちた。
「頼むから――」
 スペーサーはやっと口を開いた。その声は、ひどく震えていた。
「頼むから、死なないでくれ! 私は、私は一体どうすれば――」
「案ずるな。部屋の机の引き出しをあの鍵で開ければ、君が帰るために必要な事柄を全て記した研究資料があるから……」
 ほとんど聞き取れないくらいにまで声が小さくなる。スペーサーは相手を抱き起こしていた。胸が痛くて、熱かった。いろいろなものが一気にこみ上げてきたが、言葉に表すことはできなかった。
「最期に――」
「最期なんて言わないでくれ! まだ言いたいことは、山ほどあるのに……!」
「……あの子に、伝えて欲しいんだ。病にかかる人間は、もうすぐ、いなくなるんだ、と。そして、ターキアに、伝えて欲しい――」
「彼」は静かに言った。
「心配かけて、すまなかったと……」
 安堵したように両の目蓋を、そっと閉じる。
 スペーサーの顔に触れられていた手が、ゆっくりと力なく垂れて、安らいだような最期の吐息が、そっと口から漏れた。
 その顔に、いくつもの涙がとめどなく落ちていく。
 ……胸が痛い。苦しい。
 胸のうちを駆け巡るこの感情が一体何なのか分からない。だが、その感情がせめぎあっていた。
 だから、彼は泣いていた。涙が止まってくれなかった。いや、涙を止められなかった。

 彼は、嗚咽を漏らして泣いた。その腕に、もう一人の「彼」をしっかりと抱きしめて――……


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