第8章 part1
約五年前、一人の科学者の卵が、中央局研究科に配属された。局内では最年少だったが、中央局員の誰よりも実績を上げるほどの発明を行い、なおかつ精力的に奇病の治療の研究を行っていた。中央局の書物に記された知識をどんどん吸収し、応用できるほどの頭のよさを持っていた。歳の割りには落ち着きがあったが、大人ぶっているのと、少し独り善がりな面があった。おまけに子ども扱いされることをひどく嫌い、一人前の研究者として扱ってくれと常々不満をこぼしていた。それでも、奇病を治そうとする研究意欲だけは誰にも負けなかった。「約束したから――」と、いつも言っていた。他の研究者達が病に倒れても、その研究者達から生体データを採り続けた。そのうち、外部調査の許可を取り、三回も出かけてしまった。そして、知らない間に自身も病に倒れ、独り病死してしまった――。
その研究者が配属されたときには、別に何とも思っていなかった。配属当時の年齢が二十歳というのが少し珍しくはあった。中央局が配属してきた局員の平均年齢は二十四歳だったからだ。そしてその若い青二才だった研究者は、おそるべき速度で知識を吸収し、なおかつ幅広く自分の知識を生かす頭の回転力を持っていた。二十歳だからという理由で珍しがられたその研究者は、わずか一年足らずの研究と発明で、中央局員の誰よりも優れた成果を上げていた。
ただの青二才と思っていたが、その成長の早さからマザーにも注目されるに至った。そのうち、研究者のやることなすことがひどく腹立たしくなった。自分の方がもっと地道に長く研究をしているのに、なぜあいつはあんなに早く認められるんだ……。
その腹立たしさが倍増したのは、密かに思いを寄せていた彼女が、どうもその研究者に恋心を抱いているらしいと気がついた時だ。もっとも向こうは恋愛には無関心という態度しかとっていないのだが、それでも彼女はその研究者に思いを寄せていた。それを知ったとき、本気であの研究者を憎いと思うようになった。この手で首を絞めてやりたいと何度も思った。そんな時、その研究者は外部調査に出ると言い出した。別に止めなかった。むしろ、彼女をこちらへ向けさせたかった。しかし外部調査に出て行った後も、彼女はあの研究者が帰ってくるのを待っていたようだった。こちらのことなど眼中に入っていないかのようだった。二度目の外出時も、三度目も同じだった。それどころか彼女はあの研究者にどんどん心を奪われているようだった。
三度目に帰ってきたとき、少し調べて気がついた。その研究者が本物とは違うという事に。だが確信がなかったので泳がせた。その後になって、Mother−2が記憶の映像を見せた。その映像を見てはっきりと分かった。そして、その偽者の研究者の言葉で判明した。本物が、病死したということが。
彼女はこれでこちらに心を向けてくれるはず。そう思った。だが彼女はちっともこちらを向いてはくれなかった。それどころか、その偽者に対して面影を追っているようだった。あの寂しそうな表情を見るたびに、それを痛感する。
あの偽者も、今、目の前にいるならば、この手で絞め殺してやりたかった。
あの隠し部屋から押収した資料の山を、ヴィクトルは自分の研究室で読みふけっていた。鉛筆によって浮き出した文章が書かれた紙面の裏側を使って、大量の数式や数学の公式が記されている。ヴィクトルの理解の外にある理論が、その紙面の中で展開されている。スペーサーが一週間かかって何とか完成させた理論であるが、ヴィクトルはあいにくその専門家ではない。そのため、この理論を用いてスペーサーが何をしたかったのか、それが分からなかった。
「こんなわけのわからない理論を何のために……」
紙の束をデスクに置いた。そして、押収したもう一つの資料、地下書庫にあったと思しいファイルを開いた。これは、あの隠し部屋の棚におさめられていたものの、スペーサーが目を通すのをすっかり忘れていたファイルである。中を見ると、この文面の数行で、持ち出し禁止に指定されていることが分かる。でかでかと、文面に不吉な赤い文字でそう記されているからだ。それでも構わず、彼は読み進めてみる。一度隠れて持ち出し禁止ファイルを読んだことがあったためだった。今回もためらいはない。
「ん?」
ヴィクトルは、ずれかけた眼鏡の位置を直し、食い入るように文面を見つめた。
「このファイルは……初代Motherが暴走する前の――!」
日付からして間違いない。初代Motherが暴走する前、世界統率機関がまだ正常であった頃の、記録だった。その中につづられているのは、Mother−2の人格プログラム形成における過程だった。
ヴィクトルは、時間を忘れて読んでいた。その額には汗が浮き出ている。ファイルを握る手が徐々に震えてくる。
読み終わった。
これまでの世界が、足元で砕け散ったような気がしていた。ヴィクトルの体は震えて、顔は青ざめていた。ファイルを閉じるのも忘れ、最後のページに目を向けたまま、彼はしばらく椅子に座りっぱなしだった。それでもやっとのことで体を動かし、立ち上がる。ファイルを両手にしっかりと持って、研究室から飛び出した。いくつかの研究室の前を駆け足で通り過ぎ、ターキアの研究室へと、ノックもなしに飛び込んだ。
「ターキア……!」
しかし、彼女は、ヴィクトルの方を見ていなかった。
モニターに向かって、なにやらぶつぶつ言いながら、かなりの速度で手をキーボードの上で走らせている。ヴィクトルのことなど、眼中には全く入っていない。
「ターキア!」
ヴィクトルは息を切らして怒鳴る。その声で、やっとターキアは振り向いた。しかし、その顔は興奮と怯えが混じっている。傍から見ても非常に複雑な表情をしていることは明白である。
「な、何?」
ターキアは慌てて立ち上がる。そして、モニターを隠そうとするかのように、素早くモニターの前に立つ。
「今、忙しいの。用事なら後に――」
ターキアが言い終わらないうちにヴィクトルは、手の中にしっかりと持ったファイルを押し付ける。
「読んでくれないか……? あいつが持っていたんだ」
ターキアは渋々ファイルを開いてみる。最初の数行に目を走らせると、彼女の顔色が変わる。さっと青ざめたのだ。
「だ、駄目よこんなもの……これ、持ち出し禁止のファイルでしょ?」
「だから読んでほしいんだ! あいつが何のためにこんなものを持っていたのか、わからなくて……」
ターキアの顔は青ざめていたが、ヴィクトルの顔はそれ以上に青くなっていた。
「ひょっとしたら、マザーに知らせなければならない重大なことかもしれない。けど、言ったら、マザーが何をするかわからない。怒り狂うかもしれないし、僕らを処分するかもしれない。けど……」
だんだん消え行く声。すぐにヴィクトルは彼女の両肩をがしっと掴んだ。
「頼むよ、読んでくれ!」
彼のあまりにも真面目な表情。ターキアは、思わず、うなずいていた。今まで見たこともないような、あまりにも真面目すぎる表情だったのだから。
「わかった、読んで、みる……」
その時、研究室のモニターが一瞬だけノイズを走らせた。だが、誰も、それには気がつかなかった。
ヴィクトルから押し付けられたファイルを読み終わったターキアは、青ざめていた。
「まさか……こんなことがあったなんて」
ファイルの中身は厚くなかったが、その中につづられていることを全て理解するには、厚さ十センチ以上の専門書を読むよりも時間が必要だった。
現在のMother−2の支配下に入る前の記録。Mother−2のプログラムを行っていたときの記録。
初代Motherのデータを転送して新しく組みなおしているうちに、プログラムにバグがおき、そのバグがどうしても修正できなかった。そのために性格が一部歪んでしまったが、そのまま人格プログラムはMother−2として完成した。そして、Motherが起動している間は、Mother−2は生きたデータとして保存されていた。直接Motherと共に統治することはなかったが、ずっと舞台裏にいる状態だったのである。舞台裏にいる間、Mother−2は、これと言って怪しい動きはみせていなかった。しかしながら、このファイルの記録によれば、Mother−2はいずれ消去して新しく人格プログラムを作り直そうとしていたようだった。Motherの暴走が起こったのは、その記録の数日後。Motherが原因不明の暴走をしたとしか載っていなかった。原因は分かっていないままのようだった。記録はそこで途切れていた。
Mother−2の性格の項目を見る。Motherのように慈愛に満ちた母親としての性格ではない。優しさは一応あるが、気まぐれで、異常なまでに貪欲な性質を持ち合わせている。今のMother−2そのものだった。
「こんなファイル、とんでもないものだわ。これがもし本当なら……」
ターキアはファイルに目を落とす。
「本当なら、僕らは今、とんでもないことをしでかしたんじゃないかって思うよ」
冷静に言うが、ヴィクトルの顔は青ざめたままだった。
「なぜって、Mother−2の過去を知ってしまったんだから……。それに、あの通達」
突如、話を変える。
「君は、何をしろといわれた?」
「製造停止のチップを使って、マザーの人格プログラムをそこへコピーしろって……。それと、遠距離からでもそのチップを操作できるようにしてくれって。そういうヴィクトルは?」
「僕は、一時的にだが人体のあらゆる免疫活動を停止させる薬を調合したよ。投与すれば、一時的にだがあらゆる病原菌に対して無防備の状態になってしまう。風邪でもひけばあっというまに肺炎にまでこじらせてしまうだろうね」
「でも、何のためにそんなものを?」
「わからないよ……」
二人とも、顔を見合わせ、首を横に振った。
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