第9章 part1
闇の中を歩いていた。周りには何もない。ただ、闇があるばかり。冷たくて静か過ぎて、暗かった。誰もおらず、人の声すら聞こえてこない。
一筋の光が見えた。
何かあるかもしれないと思って、光へ向かって走った。だが、光は遠ざかっていく一方だった。待ってくれと、思わず声が出る。しかし、光は遠ざかっていく。光が遠ざかるにつれ、こちらの走る速度も上がる。光は相変わらず遠ざかるが、速度を上げたためか、そのうち追いついた。
光に手を差し伸べてみる。それは、何かの光を反射して輝いた金の懐中時計だった。その懐中時計に触れてみる。
突然、バリンと音を立てて、懐中時計が粉々に壊れた。辺りはまた闇に包まれたが、今度の闇は、体に直接絡み付いてきた。何とか逃げようとするが、闇は手足を捕えて放さない。闇はそのまま、呑み込んできた。
深く、暗く、寂しく、冷たい、闇の中へ――落ちていく。
あのファイルを読んでからさらに一週間が過ぎた。
ターキアは毎日、何時間もコンピューターを稼動させ、プログラムの組み込みを行っていた。さすがに夜中は停電でシャットダウンさせられる可能性があるので、作業は夜十一時に切り上げることにしていた。それでも、作業は思った以上に捗っていた。彼女は、何かにとり憑かれたかのように、無我夢中でキーボードの上で手を走らせ続けていた。あのファイルの内容が、彼女の行動に拍車をかけたのだろう。ずっと「彼」のプログラムを改変してきたが、それを、自分で修正した部分だけを消去し、また新しく組みなおしている。
研究室のモニターに、Mother−2のシルエットが映された。
ターキアはそれに気づき、慌てて立ち上がる。プログラムを組んでいる画面を隠そうとするかのように、そそくさとモニターの前に近づく。
「何でしょう?」
相手は、言った。
「貴方タチニ、会ワセテアゲヨウト思ウノ、彼ヲ」
ターキアは目を丸くした。
「え、彼って……」
針の動かない懐中時計を入れたポケットに手が伸びていた。Mother−2は、彼女の考えを読み取ったかのように、言った。
「エエ、ソウヨ。ダカラ、管理塔へキテチョウダイ」
知らせを受けたのは、ヴィクトルも同じだった。エレベーターの前で鉢合わせした。
「マザーが、奴に会わせたいって……君も聞いたのか?」
「ええ」
「君が頼んだの」
「違うわ。マザーの方から知らせてきたのよ」
ターキアの顔には不安がある。その表情の中に、わずかな期待感があるのを、ヴィクトルは見逃さなかった。だが敢えて、黙っていた。
エレベーターが登っていく間、二人は会話をしなかった。静かにエレベーターが登るウィンウィンという音だけが、こだましていた。
管理塔の通路を進み、部屋のドアを開ける。
「ヨク来テクレタワネ」
巨大なモニターにシルエットが映される。Mother−2は、どこか警戒するような表情の二人に、言った。
「サア、アワセテアゲル。……イラッシャイ」
部屋の奥から、足音が聞こえる。そして並べられた機械の間をぬうようにして、人影が見えてきた。
「あっ」
ターキアとヴィクトルは、ほぼ同時に声を上げた。
天井から降り注ぐライトの光に照らされた人影は、スペーサーだった。
「サア、満足デショウ?」
降り注いでくるMother−2の声。どこか笑っているようにも聞こえる。
「モウ逃ゲタリシナイワ。従順ナ子ニナッテクレタノヨ。チョットシタ、荒療治デネ」
「荒療治……?」
二人には何の事だか分からない。
機械の側に立っているスペーサーを観察してみる。痩せている様だ。だがそれ以上に、二人の目を丸くさせたのは、彼の顔だった。目がとろんとして、生気がない。顔は青ざめている。まるで生ける屍のようだった。
「彼ハ帰ラナケレバナラナイソウヨ。デモネ、私モ一緒ニ行クコトニナッタノ。ツイテキテホシイトイウ、彼ノ願イヨ」
その言葉を肯定するかのように、スペーサーはこっくりとうなずいた。自発的にそうしたというより、誰かが彼を見えない糸で操っているかのような、極めて不自然な動作だった。二人は、目の前にいる人物が、本当にスペーサーなのかと疑った。実は彼そっくりに作られたロボットではないのかと、一瞬だけ考えた。
「コノ部屋ニ運ビ込ンダ機械ノ充電ハ、来週ゴロニ終ワルワ。ソシタラ、彼ハ私ト共ニ行クノ。彼ノ、世界ニネ」
笑っているかのようなノイズ。
話が変わる。
「ソウダワ、ヴィクトル」
「は、はいっ……」
指されたヴィクトルはぎくりとした。Mother−2は言った。
「アナタノ部屋ニ、押収シタ資料ガアルハズダワネ。ソレヲ、ココマデ持ッテキテクレナイカシラ?」
押収した資料。あの隠し部屋から持ってきた紙束とファイルを指すのだろう。
「ターキア」
今度はターキアに矛先が向けられる。
「は、はい」
ターキアの声は小さかった。
「アナタハ、コノ部屋ノスミデ充電ヲシテイル機械ノ設定変更ヲ頼ミタイノヨ。ソレハ、充電ガオワッテカラネ。ソシテ、ソロソロ私ノ、メンテナンスヲシテモラエナイカシラ?」
「わ、わかりました……では、今夜」
部屋の隅にある、静かに唸りを上げている見慣れない機械。あれを使って、スペーサーは帰る気なのだろう。
退室を命じられ、ターキアとヴィクトルは、そろって部屋を出た。スペーサーは出なかった。じっとその場で、二人を見送っていた。
通路を歩き、エレベーターに乗るまで、二人は口を利かなかった。
「……一体何があったんだ」
エレベーターが動いて初めて、ヴィクトルが喋る。ターキアは口を開かない。
「荒療治って、一体何をしたんだ。まるで人形じゃないか。あんな風になることなんかありえないはず――」
「やめて!」
思わずターキアは耳を塞いだ。ヴィクトルは素直に黙る。しかしすぐ口を開く。
「まだ、想ってるのか……?」
直後、乾いた音が響いた。
「馬鹿!」
開いたエレベーターのドアから、ターキアは駆け出した。
その背中を見送りながら、ヴィクトルは、張られた頬に手を当てていた。
夜九時を過ぎた頃、ターキアは修理道具一式を持って、管理塔のてっぺんへ行った。
「ターキア、頼ムワヨ」
「わかりました……」
乗り気ではないターキアに構わず、Mother−2は自ら、スリープモードに入る。完全に電源をオフにはしない。いや、誰がやっても、できないのだ。そう設定されているのだから。ターキアは、近くの機械の蓋を開け、基盤を取り出し、簡単に点検する。この機械が壊れかけたことなどないのだから、点検の回数を重ねるうちに、自然と点検の質は甘くなる。
スペーサーは、部屋の隅で出っ張っているパイプの上に腰掛けて、ターキアが作業をするのをじっと見つめていた。その目には、光がない。何の感情も、その顔には映されていない。今の彼は、まるで人形のようだった。
「ねえ」
ターキアは、作業をしながら、口を開く。
「見てないで、何か手伝ってくれる?」
返事は、かえってこない。
しかし、足音が聞こえてきたので、こちらへ来ることはわかった。視界の端に、彼の姿が僅かに映る。
「スパナ取ってくれる?」
無言で、スパナが差し出される。礼を言うのも忘れ、ターキアはそれを受け取り、ボルトを外す。新しく見えてきた基盤と、それにつながった無数の配線を一つ一つえり分ける。
「別に異常はないわね」
蓋を閉じ、またボルトを締めなおす。そして隣の機械に取り掛かる。蓋を開け、内部の様子を調べ、また蓋を閉じて次の機械を調べる。その繰り返しだった。その間中、スペーサーは一言も喋らず、彼女の作業をずっと見ていた。何かしてくれと彼女が頼んだときだけ、行動を起こした。
全ての作業が終わる。
「マザーが再起動するまで、あと五分くらいか……」
ターキアは修理道具一式を片付ける。スペーサーはその側で、黙って見ている。
立ち上がり際、ターキアは彼を見た。
死んだ目が、彼女の顔を映している。
ターキアは、部屋の隅にある機械を見た後、また彼を見る。
「貴方、帰っちゃうのよね……」
こっくりと、スペーサーはうなずいた。その顔に、何の感情もない。悲しみも、喜びも、何も。
「行かないでほしいの……」
ターキアは立ち上がる。そして、彼に抱きついた。
「私の大切な人は、みんないなくなってしまう……妹も、両親も、友達も、「貴方」も……」
抱きつかれた彼は、反応しない。顔色一つ変えず、慰めの言葉もかけない。感じ取れるのは、彼の心臓の音だけ。
「私のわがままだってことはわかってる……。でも、帰って欲しくないの。「貴方」には、ここにいて欲しいの!」
相手が苦しがるほど強く、ターキアは彼を抱きしめていた。だが実際彼は無反応だった。
「無理なお願いだってことは、十分分かってる。けど、これ以上、何も失いたくないの!」
それでも、彼は無反応だった。
ターキアは、涙の流れる目で、彼の顔を見る。
「一体どうしてしまったの……? なぜ、何にも言ってくれないの?」
彼は、死んだ目で、彼女の顔を見る。何も、喋らずに。
「ねえ、何か言ってよ!」
ターキアは彼の肩をつかんで揺さぶる。だが、彼は何も喋らなかった。何か言おうとして口を開けかけているようだが、そこからは何の言葉も漏れてこなかった。
「……もういいわ。マザーの荒療治のせいで、人が変わっちゃったのね、そうなのよね」
彼女は、寂しそうに手を放す。そして、床に置いたままの修理道具一式を持ち上げ、何も言わずに、部屋を出て行った。
直後、Mother−2が再起動した。モニターにシルエットが映される。
「メンテナンスハ、終ワッタ様ネ。……アラ、何ガアッタノカシラ?」
壁からは何本かの配線が延びてくる。そして、スペーサーの額に巻きついた。彼は大人しく、配線に巻きつかれている。
「ナルホド、ソウイウコトガアッタノネ。デモ残念ネ。彼女ノ知ッテイル「スペーサー」ハ、モウイナイノダカラネ」
笑っているようなノイズが、部屋中にこだました。
スペーサーは何も言わず、部屋の出口を見つめていた。
自室で、ターキアは泣いていた。胸が苦しくて、仕方なかった。何かが胸につかえて、苦しかった。だがどれだけ泣いてもその苦しさを晴らすことは出来なかった。彼に一体何が起きたのか分からなかったが、彼女がそれ以上に苦しさを感じたのは、彼が何も言ってくれなかったからだった。「泣かないで」というような下手な慰めの言葉だけでもいい、「ふざけるな」と貶してくれてもいい。何か言ってほしかった。声を聞きたかったから。だが、彼は何一つ喋らなかった。抱きしめ返してもくれず、突き放すこともしなかった。
人形のように、ずっと立っていただけ。
「どうして、なにもしてくれないの……? そんなに私が嫌いなの? 帰ることばっかり考えて、別れる私のことは何も考えていないの?」
わからない。
ターキアは悲しかった。同時に、腹が立っていた。何もしてくれないスペーサーにはもちろんだが、それ以上に、自分に腹を立てていた。彼には帰るべき場所がある。だがそれでも彼には帰って欲しくない。ここに残っていて欲しい。……未練を断ち切れなかった。「スペーサー」は病死してしまった。今いる彼は、別の世界の人間なのだ。顔形は同じでも、全くの別人なのだ。頭では分かっているのに――。
泣いているうちに、自分がどうしたらいいのか、わからなくなってしまった。
部屋の隅にあるモニターが、一瞬だけ点いた。
ヴィクトルは、医務室で薬を調合していた。先日調合したものと同じものを。
「一体何故こんなものを必要とするんだ?」
ぶつぶつ言いながら、薬を測ってビーカーに入れ、混ぜ合わせる。ビーカーの中の液体は白濁していく。
「できた」
ヴィクトルがビーカーを転送装置の上に置いたとき、医務室のモニターが光る。
「あ……」
言いかけたが、モニターはすぐに消えてしまった。
訝っていると、モニターがまた点いた。今度はMother−2のシルエットが映る。
「あ」
ヴィクトルが口を開いたところで、相手から先に話を開始した。
「アラ、ヴィクトル。モウ、デキタノネ」
「え、ええ……」
「ジャ、転送スルワネ」
ビーカーは転送された。
「ソウソウ。ソロソロ資料ヲ持ッテキテクレナイカシラ?」
「わ、わかりました……」
妙に、Mother−2の音声が笑っているように聞こえてくる。ヴィクトルは、モニターが消えた後、額に眉根を寄せた。
「さ、持っていくか。後で温室に行って草花に水をやらないと」
紙の束をまとめ、ファイルも一緒に載せる。それを両手に抱え、彼は部屋を出た。
エレベーターへ向かう途中、研究室の明かりがついているのを見つけた。自分の研究室ではない。近づいてみると、キーボードをせわしなく叩く音が聞こえてくる。ターキアが何かしているのだろう。開きっぱなしの入り口からそっと覗いてみると、確かに彼女がコンピューターに向かって、わき目もふらず一心にキーボードを叩き続けている。とんでもない速度で。彼のほうから見ると、彼女の姿は背中しか見えない。それでも、腕の動きと連続した音から、キーボードを叩く速度はおおよそ分かる。
気を紛らわしたいのだろう。ヴィクトルはそう思った。
昼間、彼女にひっぱたかれた頬が、まだかすかに痛んでいた。
エレベーターで管理塔を登り、着いた先の廊下を歩いて部屋に入る。
モニターには、Mother−2のシルエットが映し出されている。
「ヴィクトル、持ッテキテクレタ?」
「はい……」
「アリガト。ジャ、ソコノ鉄板ノ上ニ、オイテチョウダイ」
ヴィクトルは言われるとおりに、持ってきた資料の山を、部屋の壁から突き出た棚代わりの鉄板の上に置いた。
視界の端に、スペーサーの姿がある。壁から突き出たパイプの上に座って、こちらをじっと見つめている。表情はない。
(まるで人形だな……)
ファイルを置きながら、それでも彼は、モニターのシルエットに背を向け、見えないようにして、ファイルの中の資料の一部を素早く抜き取った。そして、紙束をまとめるのに時間がかかっているふりをして、その資料を素早く白衣のポケットへねじ込む。皺がよっても構わない、どのみち、後で使うのだから。
「アリガトネ、ヴィクトル。ジャア、モドリナサイ」
同時に、モニターのシルエットがぶつんと消え、モニターには何も表示されなくなった。どうやら、Mother−2はしばらく休息するつもりなのだろう。夜が遅いとき、Mother−2は節電のために自らスリープモードに入る。
ヴィクトルは、モニターに何も表示されないのを確認した後、部屋を横切る。
彼は、近づいてくるヴィクトルを、何の感情もこもっていない目で見る。
数メートルほど前までくると、ヴィクトルは立ち止まる。
「本物なのか?」
この場合の本物とは、「彼」を指すのではない。ヴィクトルの目の前の、彼を指すのだ。
ヴィクトルの問いに、スペーサーはこっくりとうなずいた。妙に不自然な動作であるが、ヴィクトルはそこに突っ込まなかった。
「こっちへ来い」
スペーサーは素直に椅子代わりのパイプから降りて、ヴィクトルの側まで歩いてくる。そして目の前に来て立ち止まる。
ヴィクトルは目の前まで来た彼を、観察する。昼間見た彼と同じ。死んだ目、無表情。ろくに食事を取っていないのか、目の下に若干隈ができ、頬が少しこけている。
(一体何があった? マザーはこいつに一体何を……)
何の感情もこもっていないその瞳の中に、どこか訝っている表情のヴィクトルが映る。
(しかし、ここまでこいつが変わったのに、なぜターキアは、諦めずにこいつを想い続けるんだ……)
そう考えると急にむらむらと怒りがこみ上げてきた。目の前にいる、まるで生ける屍ともいえるスペーサーの無表情が、その怒りを倍増させる。
「なぜお前は生きているんだ! なぜマザーはお前を殺さなかった!」
怒りと嫉妬のあまり飛びかかる。押し倒され、首を両手で絞められても、スペーサーは抵抗しない。ただ、その体は酸素を求めて若干痙攣を起こしている。ヴィクトルは、相手が抵抗も逃亡もしようとしないのを奇妙に思うことなく、両手に力を込め続けていた。
「ターキアはずっと「お前」を想い続けた。だが「お前」は死んだ。死んだはずなのに、今度はお前に、彼女は心を奪われているんだ!」
骨が折れるくらい、ぎりぎりと首を絞める。
いつのまにか、その両目の端に、涙が浮かんでいる。
「お前さえ、「お前」さえいなくなればいいと、いつも思っていた。何年も地道な研究を続けてきた僕よりも、「お前」はわずか一年足らずで認められた。そして、お前は彼女の心まで奪ってしまった。想い続けてきた僕よりも早く……!」
半ば開いているだけのスペーサーの目が、徐々に閉じていく。
「外部調査に行った「お前」が、二度と帰ってこなければいいと思っていたよ! そうすれば、ひょっとしたら彼女が僕を見てくれるんじゃないかと思ったからな。だが彼女は、「お前」ばかり見つめていた。僕のことなんか眼中になかったのさ! そしてお前が偽者だと分かった今でも、こんな生ける屍みたいになった今でも、彼女は「お前」を想っているんだよ、僕よりもな!」
ヴィクトルは渾身の力で、スペーサーの首を締め上げる。彼は大人しく首を絞められたまま、徐々に目を閉じていく。喉の脈が徐々に感じ取れなくなってくる。
「お前さえいなくなれば、いなくなってしまえば……!」
その時、周囲から配線が伸び、彼の体に巻きついた。
「ナニヲシテイルノカシラ?」
モニターがまた点いた。Mother−2のシルエットが映し出される。同時に、他の壁から伸びた配線が、ヴィクトルとスペーサーを引き離す。絞め付けから解放されたスペーサーは、呼吸の際に器官に入ってきた大量の酸素によって、ひどく咳き込んだ。
「ヴィクトル、何ヲシテイタノカシラ? 事ト次第ニヨッテハ、処分スルワ」
大きなノイズ音。脅しているようだ。
ヴィクトルは、Mother−2がまた現れることを予想していなかった。そのため、配線に絡めとられている間、何もいう事が出来なかった。Mother−2のいないうちに、スペーサーを殺そうとしていたのだから。
「ネエ、スペーサー。何ガアッタノカ、教エテチョウダイ」
スペーサーは言葉を発しないまま、床から起き上がる。その頭に、別のところから伸びた配線が巻きついた。その配線の先に、フォークに似た金具がついている。ごくごく小さなものであったがそれでも刺せば痛みはあるだろう。
首筋に、その金具が刺さる。びくっと、スペーサーの体がこわばる。痛いのだろう。数秒間、金具は彼の首筋に刺さっていたが、やがてスルリと抜けた。
モニターの映像が大きくぶれる。同時に、大きなノイズ音が聞こえた。
「ヴィクトル、アナタハ、彼ヲ殺ソウトシタノネ?! 私ノ従順ナ良イ子ヲ、殺ソウトシタノネ!?」
直後、配線に電流が走る。最初から高い電圧が流されたため、ヴィクトルの体を引き裂くような痛みが一瞬のうちに全身を駆け巡る。散々痛めつけられた後、ヴィクトルはやっと口を開くことが出来た。
「ま、マザー……許してください……」
「アラアラ、ドノ口デ私ニ許シヲ請ウノカシラ。彼ヲ殺ソウトシテオイテ。彼ハ、私ニトッテ、ナクテハナラナイ存在ナノヨ。ソレヲ殺ソウトシタノダカラ、己ノ罪ガドレダケ重イカ、ワカッテイルデショウ?」
「……は、はい」
ヴィクトルは怯えていた。Mother−2を怒らせると何をされるか分かったものではない。何年か前、些細なことでマザーは怒った。その些細なことを起こした研究者を罰し、その結果、その研究者は死ぬまで自立歩行ができなくなってしまった。そのことを思い出したのだ。ましてや、マザーは今、スペーサーの存在を欲している。彼を殺そうとしたのだから、ヴィクトルはマザーによって殺されてもおかしくはない。
しかし、Mother−2は言った。
「アナタニハ、マダヤルベキコトガアルカラネ。トリアエズ、オ仕置キハ、コノクライニシテオイテアゲル。イイワネ、次ニ彼ニ手ヲダシタナラバ今度コソ、アナタノ命ハナイワ」
配線がぎゅっと体を締め付けるや否や、電流が走り、ヴィクトルは意識を失った。
次に目を覚ましたときには、この部屋の中には、彼一人しかいなかった。体を締め付ける配線は全てなくなり、近くに座りっぱなしだったはずのスペーサーの姿もない。モニターには、何も映っていない。この部屋にいるのは、ヴィクトル一人だけだった。
「許されたのか?」
起き上がると、体中がパリパリと静電気を発した。生きていることはわかる。どうやらマザーは、彼を許したようだ。
「まだやるべき事……か。それさえ済んでしまえば、僕は用済み扱いされるんだろうな」
立ち上がり、白衣の埃を払う。
(とにかく戻るか。ぐずぐずしていたら、またマザーが出てくるかもしれない)
ヴィクトルはひとまず、部屋を出て行った。
モニターが、一瞬だけ光った。その光った瞬間にモニターに映っていたのは女性のシルエットではなく、ただのノイズだった。
part2へ行く■書斎へもどる