第2章 part1



 ユリシカが宝の山で拾った怪我人は、手当てされてからわずか一日後に意識を取り戻した。前日と同じく、大雨の日。たまに雷が遠くで鳴っている。ユリシカは宝の山には行かず、朝も早くから病院に来て、この病室にいる。早く目を覚まさないかと見張っているのだ。
「ちょっと、バアさん! 目を覚ましたみたいだよ!」
 寝台の上の怪我人は、わずかに身をよじっている。痛み止めの効き目が切れかけているために、怪我の痛みによるものであろう。老婆の院長が急いで入ってきた時には、この入院患者は目をわずかに開けている。両手足とろっ骨の骨折の上、体には何か所も切り傷がつけられているこの患者、最初は目の焦点が定まらないようで、左右を見回している。そのうち、覗きこんできたユリシカに気がついたようで、彼女の顔をじっと見つめはじめた。
「あ、気がついた?」
 ユリシカは笑顔で話しかけた。院長の老婆は、痛み止めやら化膿止めやら、いろいろなものを持ってきた。
「何が起きたんだえ?」
 老婆は、入院患者を覗きこむ。ユリシカを見ていた患者は、続いて老婆に目を向けた。老婆は注射器に薬をいれて、怪我人に痛み止めを打つ。よけようとしたのか、患者は身をよじったがあまりにも弱弱しかったので、あっけなく針を打たれた。
「怪我しているんだから、動かない方がいいよ」
 ユリシカが言った。老婆は聴診器を使って怪我人の診察を開始する。怪我人は訝しげに老婆とユリシカを交互に見る。まるで不審者を見るような目つきで。
「あ、あのね。あなた、《CAGE》から落ちたんだよ。でも奇跡的に助かったんだ」
 診察と、包帯の取り換えがおわる。
「感謝するんだね、若いの。このユリシカのおかげで、命は取り留めたんだからのう」
 怪我人は、老婆とユリシカをまた交互に見る。だが、即効性の痛み止めがきいてきたと見え、目を閉じてしまった。この痛み止めの副作用は強烈な眠気として表れるのだ。使いなれていなければすぐ眠ってしまう。
「眠ったか。ところで、ユリシカ、昨日と今日の、こいつの診察の結果だけどね」
 老婆は薄汚れたカルテを見ながら言った。
「こいつはねえ、《CAGE》から落とされる前に、拷問か何かをされていたとしか思えないんだよ。体の切り傷といい、胃袋の自白剤反応と言い、喉の潰れ具合と言い――」
「喉が潰れてるって、どういうことさ?」
「飲まされた薬と拷問の影響だろうけど、声帯がダメになっちまってんだ。だから、あいつはもう喋る事が出来ないのさ」
「喋れないって!?」
「手の骨折が治れば筆談は出来るだろうけど、《CAGE》の者が使う文字とあたしらが使う文字が一緒かどうかは知らんよ」
「うーん。別に喋れなくなっても、あたいは困んないけどな。こっちの言う事が相手に伝わればいいんだしさ」
「言葉も通じるとは限らんぞえ。そうなったら、どうするつもりなんじゃ」
 ユリシカはうなった。その末に、「言葉を教えるからいい」と言ったのだった。
「でさ、バアさん。この人の退院はいつごろになりそう?」
「こんなひ弱な体なんじゃ。お前よりもずっと長くかかるだろうねえ。短ければ数ヶ月か、長ければ半年と言ったところかね」
「半年も待てやしないよ。そこまで入院費を払う余裕はないからね。じゃあ数ヶ月で何とか退院できるようにしてくれる?」
「この、金のなる木のなりそこないが、それを承知してくれるかどうかわからんね。それでもやるってんなら、スパナで殴るなりなんなり、色々試してみるさ」
「あんがとうね!」
「じゃあ、入院費を今日から払っておくれ。銀貨一枚」
「わかってる……」
 ユリシカは銀貨を渡してから、払った分を稼ぐために、宝の山へ向かった。雨が降っていても構わない。金を稼ぐのに、天候など関係ない。
 唯一の入院患者のいる病室は、明かりが消された。老婆は、来院した新しい患者の診察のために、診察室へと向かった。
 大雨の降り注ぐ中、眠っているはずのこの怪我人が、うっすらと目を開け、閉じられた病室のドアを見つめた。次に、何度も口を開閉させ、何かを言おうとしているようだが、何も言葉は出てこない。稲妻が空を引き裂き、派手な雷鳴がとどろくと、怪我人はちょっと身をすくめて目を閉じた。次に身を起こそうとしたが、ちょっと力んだ末に止めてしまい、今度はもう一度目を閉じた。だが今度は目を開けなかった。そのまま、痛み止めの副作用が本当に効いて、本当に眠ってしまったのだった。


 まさか、あんなものがあったなんて……。
 ただ好奇心で、あの部屋に入ってみただけなのに……。
 最後に覚えているのは、あの年寄り連中が嫌な笑いを浮かべながら、近づいてきた事だけ。その先はどうなったのか……。駄目だ、頭の中に霧がかかっているようで、思い出せない。霧がかったその先は、そうだ、確か、全身に風が纏わりついたような、奇妙な感覚があった。それから、飛んでもない激痛が襲いかかってきたようだった。だが、その先は何も分からない。きっと意識をなくしたのだろう。
 全身が、痛くなってきた。痛みに耐えきれず、目を開けるも、上からの眩しい光で思わず目を閉じてしまった。痛みのほかに、戻りつつある嗅覚や聴覚が、今いる場所の情報を集め始める。薬品のにおいと、ザーザーという水音。雨が降っているのだろう。それか、水の流れる場所にいるのだ。
 耳元で甲高い声が聞こえた。女の声だ。目が覚めたみたいだよ。
 光に目が慣れてきたので、なんとか瞼を上げる。だが今度は焦点が定まらない。何かが近くにあることはわかっているが……。左右を見回しているとそのうち焦点があってきて、ぼやけた視界が徐々にはっきりとしてくる。そして、自分の横たわっていると思われる場所に何かが見えてくる。誰かの顔か? 髪を短く切り、顔は浅黒く、妙に筋肉質な……。一体誰だろう。
「気がついた?」
 もっと近くで声が聞こえてきた。そうか、先ほどの声の主はこの、男のような髪型の女だったのか。声は女だが、服装はまったく女っ気がない。油くさい作業服を着ているところからすると、地上の『残り人』のようだ。《CAGE》の捨てるゴミを拾ってはそれを直して暮らす、下層民。写真集で見た事はあったのだが、直接見るのは初めてだ。では、もしかして、私は地上へと落とされてしまったのか……?!
 別の女の声が聞こえてきた。これは年老いた女のそれだ。薄汚れた白衣を着た、頭の禿げあがった醜悪な老婆が、作業服を着た女の傍から顔を見せた。そのしわだらけの手には、瓶がいくつか握られている。一体何が入っているのだろうか。
 老婆は、瓶のひとつを開けて、それを細い注射器に入れ、こちらに針を向けて近づけてきた。何を注射されるか分からない。何とか逃れたかったが、体を動かすだけでとんでもない痛みが手足や体から襲ってくる。自分の手足も拘束されているのか。老婆は消毒もせず注射器を刺し、薬を打ちこんで、針を抜く。そしてやっと針を刺したところを消毒した。嗅ぎ慣れたあの独特の消毒薬のにおいが鼻を突く。
「怪我してるんだから、動かない方がいいよ」
 作業服を着た女が言った。怪我? ああ、この体の痛みは怪我によるものだったか……。では、あの記憶に霧がかかったようなあの場面は、私が怪我をしたところなのか? それにしてもこの老婆は、一体何をしているのだろう。奇妙な丸いものを私の胸に当てたりして……。それにこの女もやけにニコニコしていて馴れ馴れしい。
「あ、あのね。あなた《CAGE》から落ちたんだよ。でも奇跡的に助かったんだ」
 やはり私は落とされたのか。下層民が、《CAGE》にいるわけがないものな。では私の全身の痛みはその時の怪我によるものなのか。
「感謝するんだね、若いの。このユリシカのおかげで、命は取り留めたんだからのう」
 老婆は、私の手足や体を覆う包帯を手早く取り換えた。その際に見えたが、腕と足にはギプスが当てられていた。胸もいたむと言う事は、肋骨まで骨折したのか……。ユリシカとは、この男のような女を指すのだろう。
 体の痛みは急速にひいていくが、今度は睡魔が襲ってきた。睡眠薬でも盛られたのか? いかん、眠ってしまいそうだ、もう目が閉じてしまう……。
 瞼が重い。だが何とか眼を覚まそうと頑張っていると、声が聞こえた。
「眠ったか。ところで、ユリシカ、昨日と今日の、こいつの診察の結果だけどね」
「こいつはねえ、《CAGE》から落とされる前に、拷問か何かをされていたとしか思えないんだよ。体の切り傷といい、胃袋の自白剤反応と言い、喉の潰れ具合と言い――」
「喉が潰れてるって、どういうことさ?」
「飲まされた薬と拷問の影響だろうけど、声帯がダメになっちまってんだ。だから、あいつはもう喋る事が出来ないのさ」
「喋れないって!?」
「手の骨折が治れば筆談は出来るだろうけど、《CAGE》の者が使う文字とあたしらが使う文字が一緒かどうかは知らんよ」
「うーん。別に喋れなくなっても、あたいは困んないけどな。こっちの言う事が相手に伝わればいいんだしさ」
「言葉も通じるとは限らんぞえ。そうなったら、どうするつもりなんじゃ」
 男のような女はうなった。その末に、「言葉を教えるからいい」と言ったのだった。
「でさ、バアさん。この人の退院はいつごろになりそう?」
「こんなひ弱な体なんじゃ。お前よりもずっと長くかかるだろうねえ。短ければ数ヶ月か、長ければ半年と言ったところかね」
「半年も待てやしないよ。そこまで入院費を払う余裕はないからね。じゃあ数ヶ月で何とか退院できるようにしてくれる?」
「この、金のなる木のなりそこないが、それを承知してくれるかどうかわからんね。それでもやるってんなら、スパナで殴るなりなんなり、色々試してみるさ」
「あんがとうね!」
「じゃあ、入院費を今日から払っておくれ。銀貨一枚」
「わかってる……」
 チャリン、と金属の音がした。そして足音が聞こえ、この場所から遠ざかった。足を引きずるような音も聞こえ、この場所の明かりが消えるのが、まぶたの隙間の光がなくなったことで、分かる。バタンと扉のしまる音が聞こえ、引きずるような足音も遠ざかっていった。後は、雨が降り注ぐ音だけが聞こえていた。
 何とか、目を開けることはできた。足音が聞こえた方向には、ドアがあった。
 あの老婆は、拷問と言う単語を口にした。では、私が何も覚えていないのは、そのせいなのか? あの老人連中の中には、薬学の博士号を持つ者がいたはずだが、私に何か盛ったのか? 胃袋の自白剤反応? 私はあの老いぼれどもに一体何をされたんだ。
 さらに老婆は、声帯が駄目になったとも言っていた。つまり私はもう話す事が出来ないと言う事なのか? 試しに話そうとしてみたものの、どんなに腹に力を入れてもうめき声一つ出てこなかった。あの男女は、私がしゃべれなくとも困らんと言ったが、こちらは困る。言いたい事が何も言えない。あの老婆も、言葉が通じないかもしれないと勝手に決め付けるとは。それ以前に、下層民は皆文盲だと思っていたが、そうでもないようだ。どんな字を書くのだろう。《CAGE》で使われる文字と同じものだろうか。
 稲光と、とどろく雷鳴に、思わず目を閉じた。
 あの老婆は私を金のなる木のなりそこないなどと言っていたが、私をどうするつもりなんだ? 私を人質にして《CAGE》に身代金を要求するつもりでいるのか? もしそうだったら、一秒でもここにいることはできない、早く逃げ出さないと――
 駄目だ、眠い……。もう、起きていられない……。

 ユリシカは、雨合羽を着たままで、宝の山をあさった。雷雨ということもあり、来ている者はそんなにいない。
「銀貨をはらったんだから、今日は五枚くらい稼がないと!」
 毎日口にするのだから、食料の缶詰も水も当然買わねばならない。銅貨一枚でも多く稼がねば、あっというまに貯金は尽きてしまう。
「選定の日までに、あいつを退院させないとね」
 壊れたラジオやスピーカーを拾い上げる。最近はこんなものが多く捨てられている。ラジオの普及率が低い分、高く売れるので彼女には嬉しいところだ。雨にぬれているが、後で拭えばいい。使いものにならないクズ鉄の塊も拾い上げ、ユリシカは宝の山を後にした。急いで修理して店に行かねばならないからだ。
「一度に持てるのはこのくらいだしな。さて、さっさと帰るか。機械の中にまで雨が入ると、簡単には拭きとれないからなあ。また雨が止んだら来よう」
 ビニールシートをかけてそれ以上機械に雨がかからないようにし、ユリシカは帰宅した。
「さて、入院費を稼ぐぞ!」
 機械をなるべく分解して、雨水を拭きとる。分解したついでに、手元にある工具で修理を開始する。ラジオの修理が終わり、スピーカーを直そうとしたところで、
「ああ、もうネジが無くなりそう。買いに行かなくちゃ」
 工具箱に入れてあるネジやナットなど、小さな部品が底を尽きかけている。毎日修理をするユリシカには必要な部品だ。
「でも、あの部品屋のオヤジは、雨の日は店をいちんち開けないんだった。明日、買い物に行こうっと」
 修理を終えたユリシカは酢漬けの野菜の缶詰ふたつと水で昼食を終えた。そのころには雨がやんできており、ぽつぽつと、宝の山へ向かう住人の姿が窓から見受けられた。食後の片づけを終えたユリシカは、急いでバイクに飛び乗り、宝の山へ向かった。修理できないガラクタしかなくとも、《CAGE》のテントで買い取ってもらわねばならないからだ。
 夕方、修理したラジオとスピーカー、修理不可能な鉄くずをそれぞれの店で買い取ってもらう。つるのゆがんだ眼鏡をつけている老人の店は、機械を売るよりも機械を買い取る方がメインといってもいいが、破産しないのだろうかとユリシカはいつも不思議に思っている。ラジオとスピーカーを主に取り扱う店だが、ユリシカ以外にラジオやスピーカーを売りに来る者はごく少数。直せる者が少ないためだ。そのわりにラジオの売れ行きはそんなによろしくない。傷の少ないてのひらサイズの小型携帯ラジオが、銀貨十枚もするのだ。ラジカセならば、下手すると金貨一枚も取られる。ぼったくり商売をしているのだから、買う者などそんなにいない。それでもそれなりに小金を持つ者は、小さなラジオを購入していく。
 もらった銀貨三枚と銅貨二十枚。今回はなかなか質のよい鉄くずが拾えたのだ。修理不可能な鉄くずは銅貨でしか買いとってもらえないが、それでも嬉しいものだ。帰り道、ユリシカは賭場と酒場のあたりで起こっている騒動をちらりと見る。怒鳴り声が通りにまで響き渡り、ブリキの食器を投げつけるカンという音が激しく響いてくる。
「また喧嘩か」
 娯楽の少ないこの場所では、賭博くらいしか楽しめるものはない。安酒を飲み、カードやさいころなどの賭博に興じる。金持ちはラジオを聞くものだが、金の無い者はそれすら楽しめない。酒場で流れるラジオの音楽より、怒鳴り声の方がはるかに大きい。そして、荒くれ者どもが集まってくる、賭場と酒場のどちらかで喧嘩のおきない日は一日もないのだ。
「巻き込まれないうちにさっさと帰るか」
 ユリシカは口笛ででたらめなメロディを吹きながら、帰宅した。


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