第7章 part1
「おお、もうあの日が近づいたか!」
「下層民どもが楽しみにしている、あの日だな」
「そうだ! 奴の事を忘れていた。報告は?」
「おお、今来たところだ。これによると、あの男の元で暮らしておるらしいぞ」
「他に身寄りがないから、仕方ないだろうなあ、ふふふ」
「口がきけない事を除けば、ほかは何ともないらしいぞ。だから、奴はあの男のもとに置いておけば大丈夫だろう」
「下層民どもは、奴のことをどう考えておるかね」
「最初は、《CAGE》から落ちた生き残りとして珍しがられていた。いなくなったときもちょっとゴタゴタがあったそうだがすぐおさまった。そして今では、すっかり忘れられておるようだのう。忘れられている方が身のためだわい、はっはっは!」
「あれを見せてしまったのが、そもそもの間違いだったかも知れん」
「なに、かまわんよ。外へ出さなければいいだけの話だ。奴が見てしまったのは運が悪かったのと、管理が不十分だったからさ」
「じゃあ、下層民へあの日のことを告知するかね」
「そうだな」
「下層民にとっても、我らにとっても、喜ばしいこの『日』をな」
マクベスと共に暮らしはじめてから、どのくらい経ったのか。カレンダーを見ると、およそ一年。そんなに長く暮らしていたとは。すっかりこの暮らしに馴染んでしまって、外へ出る気にはなれなくなっていた。
朝起きて、何気なく今日の日付を見る。部屋のカレンダーには、質の悪いインクで文字が印刷してあり、「売買の日」と書かれている。何を売買するのだろう。マクベスの工場で作られたものを、ほかの場所にこっそり売るための日なのだろうか。しかし、聞いたところで、教えてくれはしないだろう。マクベスは色々と私に隠しているのだ。
朝食の席では、マクベスはいなかった。たぶん、朝も早くからあの工場へ行ったのかもしれない。食事を済ませた後、私は部屋に戻って、読みかけの本を取りあげて続きを読み始める。だが、いくらもたたないうちに本を閉じてしまった。上等の木の机に本を置いて、考える。……すっかり軟禁生活にも慣れ、家の中だけで過ごすのも苦痛ではなくなってきた。マクベスは私を外へ出さぬ代わりに色々と面倒を見てくれる。だが、何のために私の面倒を見ようとするのか、わからない。お情けなのだろうか。それとも、骨抜きになるまで軟禁しておいて、《CAGE》へ後で引き渡すためだろうか。一年も経った今ですら、マクベスへの警戒心はとけないままだ。いや、あえてときたくないのだ。
ゴロゴロと遠くで音が聞こえた。見ると、暗雲たれこめる空から、稲光が空を裂いていた。そして、雨が窓ガラスを激しく叩き始める。今日は天気が悪いな……。
ふ、と思いだす。
私が、《CAGE》を追放される前、最後に見たものを。
管理塔の一室。倉庫と思われるせまっ苦しい部屋に押し込められた、ぼろをまとった人間たち。あの狭い部屋に十人はいたのではないだろうか。体は汚れてやせ細り、異常なまでに目玉が飛び出し、寒いのか或いは恐怖からか、絶えず身震いしていた。あれは、一体何なのだろう。あれを見た後、年寄り連中が嫌な笑いを浮かべながら近づいてきて――それから、どうしたっけ。意識が戻った時は、この地上の病院にいた。意識が飛んでから、地上の病院で目覚めるまでの記憶は全く無かった。転落時の大怪我はともかく、一体何が原因で、私は声を出せなくなったのだろうか。拷問。その言葉だけが頭の中に残る。拷問されたとすれば、一体何故? あの部屋のものを見てしまったからか? あれは、《CAGE》の、触れてはならぬモノだったのか?
眩しい稲光で、はっと現実に引き戻されてしまった。
耳をつんざく、雷鳴。どうやら近くの避雷針に落ちたようだ。
ザーザーと、土砂降りの雨が降り注いでいる。辺りは、まるで夜のように暗くなっている。暗雲は晴れる気配がなく、絶えず雨を落とし続ける。注がれる雨は絶え間なく窓をたたきつづける。時計を見ると、昼前だった。だが不思議なことに、あまり食欲はなかった。それでも、考え事のせいで味の感じられなくなった食事を腹に詰め、部屋に戻って、気晴らしに読みかけの本を取りあげて読もうとするが、やはりそんな気分にはなれないのだった。数ページ読んだが内容は頭に入らず、結局机の上にまた本を置いた。ラジオもつけてみたけれど、面白くもないニュースばかりで、結局スイッチを切った。本当にこの地上では娯楽が乏しい。
マクベスはどこへ行ったのだろう。今度はその疑問が頭の中に浮かんできた。
いないと、何となく気になってくる。私は部屋を出て、彼を探し始めた。玄関から寝室まで、あちこちを探したが、いない。使用人も、なぜか姿を見せていない。食事の時には食堂にいて給仕してくれたのに。
一体全体どこへ行ってしまったのだろう。まるで、この家に私だけが取り残されたかのようだ。いや、本当に取り残されたのだろう……。
稲光が、明かりのついた室内を一瞬眩しく照らし、続いて、無音のこの家の中を、雷鳴が駆け巡った。揺れを感じた。近くに落雷したようだ。明かりが消える。
暗い。
まるで、夜のようだ……。
不安が、全身を駆け巡った。なぜ誰もいないんだ、この家の中に……。
明かりが、ついた。
もう一度探しまわった。だが、やはり、誰もいない……。
「……」
さきほどからぬぐえぬ不安。疑心暗鬼にも程がある。誰かが、私をわざと取りのこして、人目につかない場所から見張っているなどと……。
カチ、カチと、時計の針が時を刻む音が、異様に耳の中に響いてくる。ザーザーと雨の降り注ぐ音が、全身を殴りつけてくる。時折光る雷が、目を焼く。
ガチャリと玄関から音が聞こえた。とっさにそちらへ足が動いていた。誰かが玄関にいる。マクベスか、使用人か、あるいは――盗人か。
「よお。迎えに来てくれたのか」
そこに立っていたのは、マクベスだった。レインコートから雨水を絶え間なく滴らせているが、顔は笑っている。
急に全身から力が抜け、私は後ろの壁にヘナヘナともたれかかった。
「おいおい、どうしたんだよ、アスール。いきなりそんなべそかきそうな顔してよ。半日留守にしてただけなのに、そんなに寂しかったのかあ?」
寂しいなどと言うものではない……。恐怖すら感じていた。
「仕事終わったし、雨がひどいから早く帰ってきたんだが、お前がそんなに俺と早く会いたがったなんて知らなかったぜ、はっはっは!」
マクベスが帰ってきたのと同時に、どこからか使用人が姿をみせ、マクベスから荷物を受け取った。私が探した時にはどこにもいなかったのに、一体どこにいたのだろう。使用人の部屋すら探したはずなのだが……。
時計の針が三時を指すころ、私とマクベスはリビングにいた。
「なぜ急にいなくなったのかって? 今日は年に一度の、すんばらしい商売の日だからだよ。かきいれどきに出かけないなんて、損だろう?」
マクベスは、葉巻に火をつけながら笑った。
「お前に何も言わなかったのは悪かったが、俺は商売人だからな。金の臭いのするところには、急いで駆け付ける、そういうモンだ。ついでに使用人にも午前中だけ暇を取らせたからな、誰もいなくて当然だ」
とはいえ、書き置きも何もなく、置き去りにされたのではたまったものではない。私は不機嫌なまま、茶を飲んだ。外の豪雨はだいぶ弱まっており、雷も遠くで聞こえる程度になっている。しばらくそのまま、無言の時間が流れていく。
「そういえば」
マクベスはポワンと葉巻の煙を空中に吐き出した。
「お前、知りたいと思わないか」
何を?
「お前がかつて一緒に暮らしていた、ユリシカって女のこと」
「……」
「もう一年も経つんだ、さすがに心配になったかあ?」
下卑た笑いが、胸をむかつかせる。
私が何も答えないうちに、マクベスは話し始める。
「あのユリシカって女はな、『選定の日』に、選ばれたのさ。はっはっは!」
選定の日……ああそういえば、聞き覚えがあるな。確か、私がユリシカの本音に気がついた日だった。
「で、あの女は意気揚々と家に帰って仕度をしたそうな」
ああ、そう。
「そして、明日の朝一番に、《CAGE》からの迎えと一緒に、《CAGE》へ行くんだそうな。意気揚々として、家で明日が来るのを待ってるぜ。はっはっは……」
だが、地上からの移住者など、《CAGE》にはいないはずだ。
「そうだろ、お前の顔を見ればわかる。《CAGE》には、地上からの移住者などいないはずだものな。なのに、《CAGE》の上層部は、毎年、地上に通達を出す。これは一体どういう事だろうなあ」
マクベスは可笑しそうにくっくと笑う。私はカップから口を離し、マクベスの口元を見る。何故笑っているのだろう。《CAGE》が地上に年に一度の通達を行う事について、なぜこの男は不思議に思わないのだろう。下層民を《CAGE》へ呼び寄せる為の通知について、なぜ不思議がらないのだろうか。いや、不思議に思う事など何もないのだろう。
明らかに、マクベスは知っている。『選定の日』の本当の意味を。だが、私には何も話したくないだけなのだろう。
「……」
「おいおい、そう睨むなよ、アスール」
マクベスは顔の前で手を振った。
「一年前のあのこと、思い出させてしまったか? それなら謝るよ。すまんなあ」
笑いながら言うな。
「それにしても、やっぱりお前はつめてーよなあ。一年も経つんだから、小指の爪くらいの心配くらいしてやったらどうなんだよ。それとも、臓器と血液を全部抜こうとした女に、同情する余地はないってかあ? がっはっはっは!」
どこに同情しろと言うんだ。
むしろ私は被害者なのだ。
嫌な気分を抱えたまま夕食を済ませ、風呂に入り、ベッドに飛び込んだ。今日は色々と疲れてしまった。肉体的な疲労ではなく、精神的な疲労で……。
窓の外を見ると、まだ雷が遠くで光っているのが見える。今日は一日、ずっと天気が悪かったな。明日は、晴れてくれないものだろうか。
そう考えているうちに瞼が降りてきたらしかった。はっと気が付くと、部屋の明かりは消えて、ついているのはベッドスタンドのオレンジの優しい光だけだ。それを頼りに時計を見ると、夜中の二時をさしていた。遠くでまだゴロゴロと雷の音が聞こえてくる。カーテンを開けると、まだ雨がポツポツと降っており、遠くで稲光が空を裂くのが見える。だが音が伝わるまでにだいぶ時間がかかっているので、やはり雷はだいぶ遠ざかっていると見るべきだ。
廊下の手洗いで用を足した後、部屋に戻ろうとした。ふと、廊下の前方から明かりがもれてきたのに気が付く。こんな時間に誰なのだろう。マクベスだろうか、それとも使用人の誰かだろうか。それとも、泥棒か。あるいは単なる明かりの消し忘れか? そう思いながら、湧きあがってくる好奇心に勝てず、足音をたてないように細心の注意を払って廊下を歩く。
明かりの洩れている部屋は、リビングだ。静かに歩いていくと、音が聞こえてきた。いや、音ではなくて声だ。聞き耳を立てると、それはマクベスの声だった。リビングの近くまで来ると、私はいったん、壁に体をぴったりとつけ、耳を済ませた。ちょうどリビングの扉の傍には大きな植木鉢があって、私の背丈くらいならば、葉の生い茂った観賞植物が隠してくれる。廊下に明かりがつかなければ、私の姿はすぐには見えないだろう。
マクベスの声に耳を傾ける。なるべく声を押さえているらしく、ぼそぼそとして聞きとれないのだが、壁に耳をくっつけて全神経を集中させると、少しずつ聞こえてきた。
こんな晩い時間に、マクベスは何をしているのだろう。そして、話している相手は一体誰なのだろうか……?
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