第7章 part2
アスールが行方知れずとなってから、一年ほど経過した。最初のうちこそ、《CAGE》の転落者が失そうしたとして、町を少し騒がしたものの、人々は日々の生活に追われて、じきにそのニュースを頭の中から追い出し、忘れ去っていた。時間は心の傷を癒すと言われているが、たとえ心の傷でなくても、結局のところ、アスールの失踪は一時的なニュースの一つに過ぎないのである。だからこそ、多少時間はかかったものの、結局は「ああ、そんなことがあったな」程度の扱いになっていったのだった。
ユリシカは、いつしかアスールがいない生活に慣れていた。慣れたと言っても、アスールが来るまでの生活に逆戻りしただけのこと。ただ変わった事と言えば、酒場へ顔を出す頻度があがった事くらいだろう。そのつど大量に安酒を飲んでは酔いつぶれていた。
「あ、明日は『選定の日』だ! すっかり忘れてたよ」
スピーカーの修理が終わったユリシカは、ふとカレンダーを見て、声をあげた。いつもならカレンダーにペンで印をつけてその日を指折り数えて待っているのだが、今回はそれをすっかり忘れていたのだ。『選定の日』から逆に数えて三週間前から、印は付けられていない。
「とりあえず、明日の発表を待とう」
そのつぶやきがあまりにも冷めきったものであったため、かえってユリシカは驚いたのだった。
修理の終わったものを、いつもの店で買い取ってもらう。缶詰と水を買いこみ、余った銀貨でおんぼろバイクに燃料を入れる。クズ鉄を赤いテントの店で買い取ってもらい、銅貨数枚をポケットの中でチャラチャラと鳴らしながら、彼女は帰路に就いた。今回はあまり高く買い取ってもらえなかったので、酒場には顔を出さないことにした。
帰宅後、ラジオをつけてニュースを流しながら、彼女は油漬けの野菜と水だけの食事をとった。ラジオはただニュースを垂れ流す。ユリシカはろくに聞いていなかった。
ユリシカは思い出す。アスールがいなくなってしばらくした後、酒場に飲みに来ていた身なりのよい客のことを。一度、後をつけようとしたが煙幕で撒かれてしまい、挫折した。その後、酒場にその身なりのよい客は飲みに来なくなったらしい。彼女は足しげく酒場に通っているが、酒場のおやじに問うても、良い返事を得ることはできなかった。むしろ、お得意様が減って、最初のうちは、ぷりぷりしていた。
あまりにユリシカが足しげく通ってくるようになったので、
「それにしても、あの客にやけにご執心だなあ」
グラスを磨きながら、あるとき、酒場のおやじは言ったのだった。
「玉の輿でも狙ってんのかい?」
「そんなんじゃねーよ」
そう言って、ユリシカは酒を注文していた。顔を出す頻度があがるにつれて、瓶一本をやめ、節約できるように、グラスでのみ頼むようになっていた。アスールが姿を消した最初のうちは、自棄酒で瓶ごと飲んでいたのだが……。
さて、ユリシカは油漬けの食事を終えた後で温かなシャワーを浴び、いつものおんぼろ寝間着を着て、寝転んだ。
「明日、『選定の日』かあ」
明かりを消し、彼女はつぶやいた。窓の外で、ゴロゴロと雷の音が聞こえてきた。いつのまにか彼女は眠ってしまっていたが、再び目覚めた時は、まだ夜明け前であった。時計を見ると、三時。いつもならばもうひと眠りするところであるが、今日は特別な日だ。
「さあ、急ぐか」
外は激しい雷雨だが、ユリシカはすぐ起き出し、いつもの作業着に着替えて、その上からレインコートを着る。何も食べずに家を飛び出し、おんぼろバイクにまたがった後、彼女は目的地へ向かって疾走させた。豪雨が彼女の顔をたたき、稲光が絶えず彼女の視界を眩しくし、雷鳴が彼女の鼓膜を殴りつけてくる。だがユリシカは一心不乱におんぼろバイクを走らせた。
まだ日の出前で暗いのだが、掲示板の前には、大勢の人が集まっていた。ガヤガヤと騒がしく、雷鳴をかき消してしまいかねないほど。ユリシカはバイクを放り出すようにして降り、人混みを懸命にかき分けて前進した。目指すは掲示板の貼り紙。途中で何度か殴られながらも、彼女はやっとのことで掲示板の前に立つ。そして、高鳴る心臓を押さえるように深く息を吸い込んだ後、貼り紙を読んだ。
稲光が彼女の目を焼き、激しい雷鳴が耳をつんざいた。辺りのざわめきが一瞬だけおさまる。
ユリシカは雷に打たれたように、硬直していた。
貼り紙に書かれていたのは、次の内容だった。
『次の者の、《CAGE》への移住を許可する。明日の早朝五時に送迎者を送る。――ユリシカ』
……。
ユリシカは、ポタポタと雨水が絶え間なく滴っているレインコートを脱ぐのも忘れて、家の中に突っ立っていた。
「あたいが――」
まだ信じられなかった。夢でも見ているような気持ちだ。自分の足で床に立っている事が信じられないくらい、彼女は動揺していた。
「あたいが、選ばれたなんて……!」
掲示板で己の名前を見た後、彼女はしばらくその場に立ちつくしていた。周りからは、ユリシカが選ばれた事をやっかむ声があがったのだが、彼女には何も耳に入っていなかった。彼女は放心状態のままふらふらと歩いてバイクに乗り、のろのろ運転で帰宅した。そして、車庫におんぼろバイクを放り込んで家の中に入った今でさえも、放心状態から解放されていなかった。
「あたいが、《CAGE》への移住を――ゆるされた……」
その言葉が自分の口から出たのかも、今の彼女にはわからなかったかもしれない。それほどまでに、あの貼り紙の内容は、衝撃的だった。
念願の、《CAGE》の移住。
この地上民ならば、誰だって、抱いている大きな夢。ユリシカもその大きな夢を抱くひとりであった。
だが今は違う。
彼女は、選ばれたのだ!
その現実をきちんと飲みこむまでに、一体どれほどの時間を要したであろう。
《CAGE》に、住める。あこがれの、天空の都市に。食べ物にも衣類にも金にも不自由せず、生涯遊んで暮らすことすらできるであろう、理想郷の《CAGE》に……!
「あたいは、選ばれたんだ!」
ずいぶん長いことかかって、ユリシカはその現実を飲み込んだ。こみあげてくるその感情は嬉しさと興奮と若干の不安。
万歳しながら、レインコートを着たままで家じゅうを駆けまわる。しばらく無意味な運動をそうやって続けた後、やっと彼女は息をきらして自室にて落ち着きを取り戻した。
「ひょっとしたら――」
アスールが彼女を《CAGE》の住人となれるように取り計らってくれたのかもしれない。いなくなってしまったのは、あの時どさくさまぎれに《CAGE》へ戻ったから(どうやって天空の都市へ戻ったかは考えない)なのではないだろうか。そして、彼は《CAGE》に頼んだのではないだろうか。命の恩人たるユリシカを、《CAGE》の住人のひとりにくわえてやってほしい、と。
「そうだよ、そうに違いないよ!」
ユリシカの胸の中にこみ上げるそれは、喜びだけとなった。
「明日、《CAGE》へ行けるんだ!」
さっそく荷造りを始めるために、まずは邪魔っけなレインコートを脱ぎ棄てる。まず彼女は荷造りのために、家の中で一番大きなカバンを取り出した。その昔、それはスーツケースと呼ばれ、旅行に用いられたものだ。それを開けると、ほこりくさい空気がまず飛び出す。長い事開けていないのだから、当然のことだ。まずは衣類を詰め込む。なるべく綺麗なものを選んで。
「どうせもうここには戻って来ないんだ。財産なんか持っててもしょうがないよね」
たくわえてきた貴金属のしまいこまれた箱を取り出す。開けると、《CAGE》から転落した住人のつけていた金歯や、指輪などの装飾品が目に飛び込んだ。
「でもなあ、捨てるのは惜しいなあ。せっかく貯め込んできたんだし」
すでにコレクションの域に入っていると言ってもいい数だ。結局ユリシカはその箱をカバンにつっこんだ。旅の途中で空腹にならないようにと、缶詰とペットボトルも少し入れる。
(あっちについたら、本物の肉や野菜をたっぷり口にできるんだよね。そんでもって、上等のお酒だってたっぷりと飲める)
早くも想像する。自分が、本でしか見た事のないような豪華な食事に舌鼓をうちつつ、美酒を綺麗なグラスからあおる場面を。よだれが出てきて、腹も減ってきた。そうだ、夜はあけてしまったがまだ自分は何も食べていないではないか。この雷雨のせいで、まだ周りは薄暗く、朝なのかそうではないのか、わからなくなっていたのだ。
缶詰はまだたっぷりあった。ユリシカは油漬けと塩漬けの野菜をペットボトルの水で一気に飲み下してしまうと、荷造りを再開する。外では絶え間なく稲妻が空を裂き、雷鳴がとどろいたが、ユリシカはいっこうに気にせず、目を輝かせてカバンに荷物を詰めていた。
「よし、着替えも入れた。ちょっとだけ食料も入れた。貯めてきた金も入れた。それから――」
確認が終わった後、ユリシカは一息ついた。そのころにはもう昼になっていたので、時計でそれを確認後、昼食をとった。明日の早朝は、この安物の缶詰ともおさらばなのだ、まあ今のうちにこの油っこさをじっくりと味わいなおしておこう。そう思い、彼女はたっぷりと食べた。
後は明日を待つばかりとなり、ユリシカは満足そうにカバンを見た。
「そうだ。あたいがこの家を去ったら、次は誰が入ってくるのかな」
空き家となった場合、誰かが勝手に住み着くのだ。たいていはこの町の、他の住人だろう。あるいは、ほかの町から流れてきた知らぬ誰かであろう。まあ、誰が住みついても構わないが、おんぼろバイクを壊すような事だけはしてほしくない。何故かと言うと、あれはユリシカが自分の手で修理した初めての大型機械だからだ。そのぶん思い入れもある。《CAGE》へ持っていくことはさすがにできないだろう。それでも置いていくからには、後からこの家を使う何者かに、乱暴に使ってほしくないと願うばかりだ。
今度は、別の事に考えを巡らせる。
「町の連中、あたいのことで噂しっぱなしだろうなあ。あたいだけだもんな、《CAGE》への移住が許されたのって」
そう、ユリシカはこれが嬉しくてたまらない。「どうだ、自分は明日からここにはいないんだぞ。お前たちとは離れて、安楽に余生を過ごすんだぞ」と自慢したくてたまらないのだ。さぞかし、住人達は彼女を羨み、やっかむことだろう。一方で、
「ここを離れるんだよな……」
寂しさもこみ上げてきた。生まれた時から暮らしてきた、この集落を、明日の朝に去る。そして、見知らぬ都市へと旅立つのだ。薄汚れた、土埃や機械の油にまみれた集落。銭を稼ぐために、争いながら宝の山へとよじ登り、お宝を物色する日々。修理と鑑定、そして売却して銭を手に入れ、息抜きのために時々安酒を飲んで憂さ晴らしをする。
「そんな日々とも、もうお別れだね」
町に面した窓を見ながら、ユリシカはぽつりとつぶやいた。
遠くから人々がやってくる。十人かそこそこ。おそらく彼女に別れを告げに来たか、あるいは彼女をやっかんで襲いに来た連中だろう。連中の持っているものを見て、とにかく顔を合わせない方がいいと感じた彼女は、カバンを掴んで、地下の修理部屋におりる。その部屋の軽油タンクの中へ隠れた。ちょうど彼女がタンクのふたを閉めてしまったとき、玄関のドアがドンドンと激しい音を立ててノックされた。いやノックというのはもっと優しくやるものであって、これはドアをぶちやぶろうとしているかのようである。実際そうだろう。町の連中が持っているのは、鉄パイプなのだから。
とうとうユリシカの家のドアはぶちやぶられた。
「留守みてえだな。ちょうどいい。急いで物色しろ。どうせあいつは明日旅立つんだから、ここに財産やら食料やら置いといても意味無いだろうよ」
どやどやとなだれ込んできた連中は、派手に彼女の持ち物を物色する。ユリシカは油臭いタンクの中で息をひそめながら、カバンをしっかりと抱いていた。大丈夫、持っていくべきものは全部このカバンに入っている。食料や水も。もしほしいなら、別室に置いてあるものを全部持っていけばいいのだ。未練など無い。やがてこの地下室にも入りこんだ者がいる。修理の終わった機械を物色した後、何かを持ち上げてせっせと運びだしたようだった。
そうして、すっかり静かになってから、ユリシカはタンクから出てきた。おそるおそる階段を上って家の中を確かめる。
「うわ」
思わず声が出た。それもそのはず、荒らされ放題の室内。寝台は外れ、床の上にはぼろぼろの端切れやら服やらが散らかっている。さんざん家探ししたと見え、引き出しは全て床の上に捨てられており、中味が無残にもぶちまけられている。当然のことであるが、まだあとひと月ぶんはあったはずの食料の缶詰とペットボトルは、全部持ち去られていた。
「あーあ。大切なものだけはこのカバンに入れてあるからよかったけど、今夜眠れるかな」
ユリシカは、壊れた寝台を見つめ、ぼそりとつぶやいた。
ユリシカが寝台を床に置いたまま眠りに落ちる頃、外では、未だに雷鳴がとどろき、稲光が空を引き裂いていた。
ユリシカは夢を見ていた。
《CAGE》で、贅沢三昧に暮らす夢を……。
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