第9章 part2



「ねえ、お隣さん」
 謎の場所へ監禁されたユリシカは、目覚めた後、固い寝台の上に座って壁の方を見ていた。その壁をはさんで、隣の何者かと会話するために。
 コンベアの上に載っている、汁物の入っていた皿はからっぽになっていた。コンベアはガタガタ動いて、皿を片づけた。
 ユリシカは話しかけた。
「昨日はくたびれて寝ちゃって、悪かったけど、あんた誰?」
 ゴンゴンと壁を乱暴に殴ると、弱弱しいコンコンという音の後で、数回のせき込みがあり、最後に返事が返ってきた。
「わしは――まあ名乗る必要もないわい」
「えっ、どうして」
「病を患っちまって、そう長くは生きておられんし、じきに《CAGE》の者がわしをここから連れ出したら最後、わしはここへ二度と戻って来ないからじゃよ」
 ユリシカは老人の言葉を飲み込むのに時間を要した。
「で、でも名前は教えてよ、名乗る必要なんかないなんて言わないでさ。あたい、あんたの事をどう呼べばいいのかわからないじゃんか」
 やや沈黙。
「そうじゃな、だったらただ単に、『じいさん』と呼んでおくれ。それで十分じゃ。わしはもう、七十を越えておるからなあ、あとは死んでいくだけの身じゃて」
 細々とした頼りない声で、隣人は言った。ユリシカは唸ったが、やがて、うなずいた。相手はただ単に名前を聞かれたくないだけなのかもしれない。
「うん、わかったよ、じいさん」
 それからユリシカは言った。
「じいさんさ、いつからここにいるの?」
「わからんのだ。ここは光が当たらないからなあ」
 細い声とため息が聞こえた。
「今年の『選定の日』に、わしは選ばれたんじゃ。わしは海沿いの集落に住んでおったんだが、少し前に体を壊してしまい、日々の糧を得るにも不自由する身になってしまった……。そんな時、『選定の日』の通知で、わしが選ばれたことが知らされてな……」
 息継ぎ。長く話をするのがつらいようだ。
「残る余生を不自由なく過ごすのもいいと思い、家で待っておったんだが、目覚めた時にはこの有様だったというわけじゃ。お前さんは、どうなんだね」
 ユリシカは己の生い立ちを、まず話す。
「そうか、お前さんはユリシカと言うのか。ああ、東の、《CAGE》が最もたくさん廃棄物を落としていく地域に住んでおったか。わしのところは、魚が獲れるためか、《CAGE》はろくに物を落とさなかったがねえ」
 ユリシカの話は続く。一年前に、《CAGE》から転落したと思われるアスールに息があったので、臓器や血液を抜きとって捨てる代わりに、《CAGE》の『選定の日』で選んでもらうために彼を助けた事。彼が良い機械修理の腕を持っていたので、それを利用して入院費や生活費を稼がせた事。去年の『選定の日』で選ばれずに悔しくて泣いた事、それからアスールの態度が急に硬化し、そのうち行方不明になった事。そして、今年の『選定の日』で選ばれて嬉しかったのに、なぜこんなところへ連れて来られた事。
 話が終わるまでどのくらいかかったか。ユリシカは息をついた後、そばの洗面台で水を飲んだ。薬の味しかしない水。ペットボトルのミネラルウォーターのほうが、味がほとんどないだけずいぶんとましだ。
 隣の老人は数回せき込んだのち、フウと息を吐いた。
「そうか……。《CAGE》から転落した者がおったか……。だが、生きていたとは珍しいのう。普通ならあの高さから落とされれば即死しているはずだろうに。しかしあの連中の身につけているものはいい値で売れるから、わしらの集落では死体探しの方に熱を入れておったな。はぎとれるものは全てはぎ取って、使える臓器や血液は全部抜き取ってから、余ったものを細かく切り刻んで、養殖用の魚の餌にすればいいんだからのう……」
 ユリシカの住んでいた地域では、血の一滴や内臓のひとかけらまで奪い取られた亡骸は、そのまま荒野に投げ捨てられて白骨化を待つばかりである。
「死体を切り刻んで食わすの? へえ、そんな利用法があるんだ。あたいの所はすぐに捨てて、後は勝手に骨になっていくのに任せていただけよ。でもヨウショクって何?」
「知らんのかね。食うための魚をわしらの手で育てることをいうのだよ……。色々な設備がいるから、簡単にはいかないものだがね」
 しかし、海を見た事のないユリシカには、養殖というものがいまいち分からない。しばらくユリシカと老人との、故郷の話が続いた。話に華が咲き、時間の経過も忘れて、ふたりは故郷の事を話し続けていた。
「ねえ、じいさん」
 ふとユリシカは話題を変えた。
「あたい、何でこんな夢を抱いてたのかな……。ここに、《CAGE》へ行けば一生贅沢三昧でくらせるって信じて、その願いがかなったと思ったのに、どうしてこんな囚人みたいなところに入れられてんだろう……」
 寝台の上で膝を抱える。
「綺麗な服とか、美味しい食べ物とか、使いきれないたくさんのお金とか、そういうのが手に入るって思っていたのに……。あの噂は嘘だったってことなの?」
「そうじゃ。残念なことにな」
 老人はフウとため息をついた。それが壁越しでも聞こえてくる。
「わしらのところでも、いや、おそらくはこの地上ならばどこでも流れているだろう噂は、何の根拠もない、嘘八百ということだったわけじゃな。《CAGE》に移住すれば、一生安楽に暮らせる。それは、全部ウソだった……」
「でも、どうしてそんな夢を持たせるような噂なんか流れたんだろう……」
「日銭を稼ぐだけで精いっぱいの暮らししかしていなければ、見ぬ土地へのあこがれは強いものだと思うがね。それが、《CAGE》の連中が使い終わった後のゴミとはいえ、わしらの生活の役に立つものを落としてくれるならば、何でも手に入ると言う噂はなおのこと信じられやすい……。《CAGE》が天国のような場所だと言うその噂、わしの若いころから、もう知られておったわい」
 老人は数回咳をした。
「誰がうわさを流したかは、わからん。それでも……わしらは夢を持ってせっせと励めた。懸命に生きていればいつかは《CAGE》の目にとまり、安楽に暮らせると……。それがこんな形で裏切られることになるとはなあ」
 かわいた笑いが、ユリシカの頭を痛くした。
 帰りたい。
 ユリシカはより一層強く、膝を抱えた。地上の、あの貧しい暮らしに戻りたかった。宝の山でガラクタを漁って修理し、売った金で食料や水を買いこんで、時には安酒を飲んで、一日を終える。その日々が急に懐かしくなってきたのだ。
《CAGE》に移住出来れば一生安楽に、全宅三昧に暮らせる。その夢は、完全に打ち砕かれてしまった。現実は――全くの逆。豪華な屋敷や着物どころか、牢屋のような小さな部屋で鎖につながれている。
(アスールが《CAGE》のことを何もしゃべってくれなかったのは、こうなるって知っていたからなの? 選ばれれば楽な生活が出来るっていう甘い夢を見ているあたいのような地上民は、ここしか住むところがないってことなの?)
 わからない。アスールがここにいるならば、今すぐにでも問いつめてやりたかった。どうして本当の事を教えてくれなかったのか、と。
「ねえ、じいさん」
 ユリシカはぽつりと言った。
「あたいたち、これからどうなるんだろう……」
 返答の代わり、咳払いだけが、辺りに響いていた……。

 ユリシカの閉じ込められている小部屋の前に伸びる通路から、カツンカツンと足音がゆっくりと響いてきた……。


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