最終章 part1



 ユリシカを閉じ込めている小部屋の前を通りすぎる、カツンカツンという足音。彼女はふりかえった。見た事のない黒い服を着た、屈強な男が通り過ぎていく。隣の小部屋の前らしきところで足音はとまる。カチャカチャと金属の触れあう音が聞こえ、ガチャンと音がする。
「さあ出ろ! 薄汚いウジ虫が!」
 ジャランジャランと鎖の揺れる音。そして老人のうめきと咳。
「その汚らしいぼろで触れるな! 《CAGE》の恵みがなければ生きていけぬ屑ふぜいが!」
 ユリシカは、思わず、部屋の格子に向かって走る。だが彼女を拘束するその鎖は、格子にまで届かなかった。彼女は床にしたたかに顔を打ちつけ、脚の激痛に顔をゆがめた。だがすぐ立ち上がり、傍の壁をガンガンたたいた。
「おい、やめろよお! そのじいさんをどうするつもりなんだよ!」
「黙れ、屑め!」
 ガン! と、彼女の小部屋の壁が蹴飛ばされる。続いてカツカツと急ぎ足の音がして、格子の向こうに黒服が姿を現した。
「生かされている分際で生意気な奴!」
 黒服が手にしているのは杖のような細いもの。それがユリシカの体に素早く触れると、強烈な激痛が全身を駆け抜ける。ユリシカは悲鳴を上げる暇なく倒れる。パリパリと全身を駆け抜ける痛み、そしてパリパリとうごめく光。電流を流されたのだ。
「己の立場をよく理解しろ、屑め! さあ来い」
 鈍い音。どさりと何かが床に落ちる音。
「ちっ、ぼろ雑巾にもならんウジ虫が。まあいい」
 ユリシカが見ている前で、床に倒れた老人は無抵抗状態で、脚の鎖によって引きずられていく。
「ま、まてええ……」
 彼女のか細い声は、届かない。
「ユリシカ、元気でな……」
 老人のか細い声も、ユリシカには届いていなかった。
 通路の奥へ消えていく、ぼろをまとったしなびた老人の姿を、ユリシカは見ていることしかできなかった。
「じいさん……」
 全身の痛みがおさまったユリシカは、冷たい床の上に横たわって、泣いた。老いた隣人のためにではない、やがて自分にも訪れるその行く末に怯えているのだ。行く先は分かっている。逝ってしまったら二度と戻れないところだ。
「……もうやだ、こんなところ!」
 この《CAGE》は、地獄だ……。贅沢三昧できる天国などではない……。
「帰りたい、帰りたいよお……」
 床に横たわったまま、彼女は膝を抱えた。贅沢三昧の生活を夢見て《CAGE》を目指して懸命に働いてきた自分が、あまりにも滑稽であった。必死に働いて、時には気晴らしのために安酒を飲んでよっぱらい、二日酔いを抱えながら機械の修理に精を出す……。その生活に戻りたい。もう《CAGE》などどうでもいい、こんな牢獄のような所から出て地上に戻れるのなら、この嫌な場所で春を売ることになっても構わない。
(でも、そんな助け、くるわけないよ……。《CAGE》の人間しかいないのに、あたいの味方なんてここにいるわけないじゃんか)
 助けは来ないのはわかっている。
 膝を抱えて長いこと泣いた。
 そのうち牢獄には静寂が訪れる。
 ユリシカは涙をぐいっと腕で拭うと、起き上がった。
「そうだ!」
 助けを待つのではない、自分から逃げ出すのだ。
 彼女は、母の遺品のヘアピンを外し、脚を拘束する鎖にとりつけられた南京錠をはずしにかかる。誰かきやしないかと時々後ろを振り返りながら、南京錠の鍵穴にヘアピンを差し込んでカチャカチャまわす。額に汗をうかべながら、彼女はそれをしばらく続けた。

 カチリ。

 音がして、南京錠が外れた。
「やった……!」
 大声を上げそうになり、慌てて彼女は自分の口をおさえた。後ろを振り返るが、誰もいない。彼女はホッとして次の作業に取り掛かる。鉄格子の鍵穴を探しだし、そこに、少しゆがんだヘアピンを突っ込む。ずいぶん長い事カチカチやっていると、ついにカチンと音がして、鉄格子の鍵が開いた!
 彼女は再び歓声を上げるところだったが、すんでのところでおさえた。ちょうど、ガタゴト音がして、ベルトコンベアに、汁物を入れた器が流れてきた。
(逃げる前に腹ごしらえだ)
 大急ぎでそれを平らげて器をベルトコンベアに載せると、ベルトコンベアはガタゴト音を立てながら空の器を運んでいった。
 ユリシカは鉄格子ごしに通路をじっと見わたして、誰もいないかを確かめる。それから、鉄格子を握りしめ、上下左右に引っ張る。ギギイと音を立てて、左へと鉄格子が開けられていく。
「よし!」
 ひとひとり分が通れる隙間まであけた彼女は、顔を出して周りを慎重に見まわした後、鉄格子を元通りにして、駆けだした。
(ここに連れて来られた時は目隠しされててどんなふうに歩かされていたか分からなかった。だから適当に進むしかないよ……。でも、必ず何とかしてここから脱出しなくちゃ)
 地上に帰りたい。集落に戻っても、荒らされた自宅はほかの者が住みついてしまっている事だろう。だがそれでもいいのだ。帰る事が出来さえすれば。
(こんなところさっさと抜けだそう)
 とにかく彼女は走る。案内図が無いだろうかと周りを見まわしつつも。しかし、案内板は見つからない。彼女はそれでもやみくもに走る。角を曲がり、階段を昇り、長い廊下を走る。その間、誰にも出会わなかったのを彼女はラッキーだと思っていた。通路の天井から降り注ぐ明かりの中に、点灯していないものがあっても、彼女は気にも留めなかった。
 階段をどんどん昇っていくと、大きな扉の前にたどりついた。分厚い、頑丈なつくりの金属の扉だ。きっと出口か、それとも他の場所への入り口か。ユリシカは扉に耳をつけ、外の音を聞こうとした。だが何も聞こえない。扉が分厚すぎるのだろうと思い、彼女はそっとドアノブに手をかけた。
(お、重い)
 全身の力を込めて、重いドアノブを下へおろす。ガチャリと音を立てて、何かが外れるような音が聞こえる。鍵はかかっていないのだ。ユリシカの胸は高鳴る。この先に出口があるのか、それとも他の場所への入り口に過ぎないのか。とにかく彼女は力を込めて、扉を押した。ギギッと音を立ててゆっくりと扉が開かれ、その隙間から光が飛び込んでくる。
「やったっ……!」
 ユリシカは飛びだした。
 歓喜の表情は消え、体は石にでもなったかのように硬直する。彼女の背後で扉はバタンとしまったが、彼女はその音すら聞こえていなかったに違いない。
「遅かったな、ウジ虫」
 扉の向こうには、黒服たちが立っていた。
 ユリシカの顔がどんどん青ざめていく。言葉が出てこない。
 黒服たちは大笑いをしながらその包囲網を狭めてくる。
「お前が逃げ出した事などとっくの昔に把握していたんだよ。まんまと逃げ出せると思っていたのか、貧民風情が」
 そして、さらに包囲網を狭める。
「楽しかっただろう、管理塔の中を探険できて。だがそろそろ時間だな。さあ、実験室へ来るがいい」
 頭が真っ白になったユリシカは、次に自分がどんな行動を取ったのか、ほとんど記憶になかった。それでも、目の前が真っ暗になり、力が全身から抜けて、床にへたりこんでしまったことだけを、わずかに記憶していた……。


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