第2章 part1



「よー、急患だぜ」
 またアーネストが病院を訪れる。その肩に、気を失った少年を担いで。
 ちょうど昼食の真っ最中だったスペーサーは、アーネストが突如窓から入ってきたことに驚いてか、手を止めた。デスクの上には、ヨランダが午前中に買ってきたあの袋の中身が広げられている。
 アーネストの入室に驚いてはいるのだろうが、その顔は眠そうなままだ。
「は? 急患? 食事中なのに君はいつも時を選ばない――」
「いいからいいから、診てくれよ」
 スペーサーに最後まで喋らせず、アーネストは少年を寝台の上に横たえた。スペーサーはぶつぶつ言いながらもコードレスの聴診器を取り出し、少年の服装に少し首をかしげながらも素早く服をはだけて聴診器を当てる。
 眠そうな目が僅かに開かれる。
「……外部の者か?」
「そ。でもなんで分かったんだ?」
「心拍数が違うからだ。能力者の通常の心拍数は、ヒトと比較すると数倍の――」
「わかんねーけど、そいつはどうなんだ? 病気か?」
「ただの気絶だ。しばらくすれば、起きるだろう」
 そして、聴診器を片付けたスペーサーは、アーネストが自分の昼飯に手を伸ばそうとしているのを見て、素早くメスを投げつける。飛来したメスに阻まれ、アーネストの手はあと一歩のところでびくっと止まった。
「欲しければ自分で買ったらどうなんだ」
「手持ちがねえんだよ! 一つぐらいくれたっていいじゃねえか!」
「自炊しろ。いい年して」
「やだ。めんどい」
 言い合っていると、ドアがノックもなしに開けられ、ヨランダが入ってくる。その手には、カルテの山を抱えていた。
「今日の午後の分のカルテ、持って来たよー」
 と、そこでヨランダは、ベッドの上に寝かされた少年に気がついた。
「あら、その子誰?」
「……他の地区の奴だ」
 相変わらず眠そうな顔で答えるスペーサー。ヨランダは、へえっとばかりに目を大きく見開いた。
「ほんと? 他の地区って一体どんな人間がいるの? 見せて見せて!」
 物珍しそうに、カルテをデスクに置いた後、ヨランダは少年を頭からつま先まで眺める。年の頃は十二、三。綺麗に梳られた、肩まで延びた髪を首の後ろで束ねている。汚れ一つない真っ白なワイシャツ、紺の背広と半ズボン、革靴。スニーカーかショートブーツが多いこの第五地区では、革靴は珍しい。本物の皮革製品自体、この地区では貴重品に入る。この地区で出回っているのは完全な人工皮革なのだ、当然、多少手入れせず荒っぽく使っても長持ちするが、質は劣る。そして、この少年からかすかに香る、鼻腔をくすぐる良いにおい。良い匂いだとは思うが、アーネストはどうもこの匂いが好きにはなれない。花の匂いに近いが、どこか不自然なきつい匂いが混じっているのだ。鼻が利きすぎるゆえの弊害というところ。
 寝台に寝かされている少年が、意識を取り戻した。ゆっくりと目を開け、続いて自分の居場所を確認する。意識がはっきりすると、今度は周りを見回して――
「わっ……」
 覗き込んでいる三人の姿を見とめるや否や、寝台の上に起き上がった。しかし腰が抜けたのか、それ以上は動かない。目を大きく皿のごとく見開いて、肩で息をしている。
「安心しなさい、何もしないから」
 どこか間延びした口調で、スペーサーは言う。間延びした口調が手伝って、眠そうな彼の表情がより一層緊張感の無いものに映る。しかし少年はわずかに身を震わせている。その怯えた目がアーネストに向けられるや否や、
「ひ、人殺しっ……!」
 壁にぶつかるまで、寝台の上を後ずさりする。
「人殺しって……助けてやったのに」
 アーネストは不機嫌な顔になり、獣が威嚇するように喉をごろごろ鳴らす。機嫌の悪いときの、彼の癖だ。
「ねえ、大丈夫よ」
 アーネストが怒鳴りつけないうちにと、ヨランダが少年に話しかけ、にっこりと笑う。少年はヨランダを見て少しは安心したのか――まだそれでも怯えているが――少なくとも逃げる素振りはやめたようだった。

 少年の名は、ユーニスと言った。外部の地区から来たことは明白だが、何処から来たのか、《都市》の法律によって出入り禁止となっていて、そもそも出入り口の無いはずのこの地区へどうやって来たのかも、口にしなかった。
 ただ、家出してきたと言う。
「ねえ、どっか泊まるところ無いの?」
 しかし、三人は顔を見合わせる。あいにくこの地区には宿泊施設などない。この地区は狭いのだし、一日もあればバイクで地区内を一周出来る。
 そもそもこの地区では、一戸建ての建物自体が少ないのだ。一戸建ての建物は病院や書庫などの公共施設くらいなもので、他は全てアパートなのだから。不思議なことに、この地区は、作られた当初から宿泊施設が存在していなかったし、増築もされていない。そして、能力者たちの人口は千弱であり、それ以上増えすぎることは無かった。《捕獲屋》に捕えられたり、死亡によって人口が減っても、またすぐに元通りになる。
 さて、少年は、三人の反応を見て、口を開く。
「なーんだ。ここがちょうどいいと思ったのに。ぼろっちいだけじゃなくて、宿泊施設すらないの、この地区は」
「宿泊施設? そんなものがなぜ必要なんだ?」
 スペーサーは、理解できないといった言葉を投げる。基本的に能力者たちはアパート住まいなのだ。自分の家を持っている者などいない。そして自室からあまり遠出しないし、遠出しても帰ってこられる距離のため、宿泊施設など必要ない。
 ユーニスは医師の返答に目を丸くした。
「あんたら、旅行とかしないわけ? 遠方に来た客を泊める施設の一つもないなんて、この地区は一体どうなって――あ、この地区は出入り禁止だったか。とにかく、僕は家出してきたんだよ、しばらくかくまってくれる場所ないの? お金は払うから。百万あれば足りるかな?」
 彼がポケットから出したのは、紙幣の束。ちょうど百枚で一束だ。だが、この第五地区で使用される貨幣は、硬貨だけ。金貨、銀貨、銅貨だけなのだ。紙幣など、誰一人として見た事が無い。
 三人はまたしても困惑し、顔を見合わせる。
「ひゃくまん? それ、ただの紙切れだろ?」
 アーネストは言った。
「百万つーたら、金貨何枚になるんだっけ?」
「約千枚だ」
「そうそう、千枚くらいだ。そんな紙、いくら出されても困るんだけどよ」
「金貨、もってないの?」
 三人の返答に、ユーニスはまたしても目を丸くする。しばらく口の中で呟いた後、紙幣をしまう。
「じゃあ、さあ、他に場所ないの? そういえばこの建物、一体何なの、ずいぶん汚いけど……」
 この薄汚れた地区の中では、病院は清潔なほうなのだ。スペーサーは冷たい目をユーニスに投げた。ユーニスはそれに気づかず、続ける。
「え、もしかしてここ病院? だとしたら、あんたはお医者なわけ? 信じられないなあ、そんな清潔感の無いカッコなんかしちゃって。この地区って病院の衛生にも気を使わないの?」
「文句を言われる筋合いはない」
 つきあっていられないとばかりに、スペーサーは診療鞄にカルテを詰め込み、デスクの上に残っていた最後のサンドイッチをひょいとつまみ、食べながら部屋を出て行った。
「あら、まだ診察の時間じゃないのに」
 時計の針は、十二時四十五分を指していた。
「あ、そうそう」
 ヨランダがまた口を開く。
「アタシも行ったほうがいいわね。午後の整理がまだだった」
 部屋を出ようとするヨランダに、彼女の言わんとすることを直感で理解したアーネストが慌てて声をかける。
「おい! 俺に押し付けるなよ!」
「だって、その子はあんたが拾ってきたんでしょ。だったら、あんたが面倒を見るのがスジってもんじゃない?」
 アーネストが次の言葉を言う間もなく、ドアは閉められてしまった。
 また、アーネストとユーニスは二人きりになった。ユーニスは、アーネストを見て、また怯えだしたらしい。わずかに身を震わせた。
 悩み顔のアーネストは頭を掻いていたが、ずかずかとユーニスのほうへ歩み寄り、彼をまるで丸めた毛布のように楽々と肩に担ぎ上げる。口で説得するよりも、体で示すというのがアーネストの方針であった。
「何するんだ、殺人鬼!」
「誰が殺人鬼だ! 俺が殺人鬼なら、この地区の能力者は全員殺人鬼だ」
 アーネストはそのまま、窓から飛び降りる。ユーニスが悲鳴を上げたが、アーネストはお構い無しに、くるりと宙返りして着地した。そして、ユーニスをおろしてやるが、当の本人は腰が抜けたらしく、へなへなと座り込んでしまった。
「何だよ、あれしきの高さから降りたくらいでガタガタふるえやがって」
「あれしきって、三階じゃないか! 下手したら死んでるよ!」
「えー? 俺はお前くらいの年の頃には、もう七階くらいにまで跳び上がってたけどな」
 三階の高さに飛び上がる、あるいはそこから飛び降りるなど、能力者にとっては朝飯前。アーネストの考え方から見ると、三階ごときで怯えるユーニスの方がおかしい。外の地区の奴らはみんな臆病なのかと、疑ったくらいだ。
 それでもユーニスが何とか立ち上がると、アーネストはさっさと歩き出した。ユーニスは迷っていたようだが、後を追った。

 目抜き通りを通り、アパートへ帰りつく。
 ユーニスはあっけに取られた表情で、部屋の中を見た。
「雑だけど、屋根があるだけマシだろ」
 アーネストは、呟くように言った。
 雑どころの話ではない。
 もともと一人用の部屋であるため、入り口の向こうには簡易キッチンと寝台が見える。そのもう少し奥まった場所には浴室用のドアがある。ただでさえ狭いその部屋は、おそろしく散らかっていて、到底足の踏み場など無かった。服は床に投げられたままで片付けられておらず、キッチンのシンクには洗っていない食器がいくつか入っている。寝台の布団は跳ね除けられたまま。
 アーネストは急いで、床の上に散らばっている服を拾い集め、浴室の洗濯機の中へと放り込んだ。それだけでも、散らかり具合はだいぶ半減した。今まで人を自室に入れたことなど無いため、部屋の整頓などしたこともなかったのだ。
(そういえば、冷蔵庫になにかあったっけ?)
 キッチンの冷蔵庫をのぞいてみる。
「げっ……」
 開けた途端に絶句。数日前に買って、そのまま忘れていた既製品が一パック。普段から既製品や外食で食事を済ませている彼にとって、料理など縁遠いものだった。
 冷蔵庫をのぞいたままアーネストが唸っていると、ユーニスが声をかける。
「あのさ、そんなに気を使わなくてもいいんだけど」
「てな訳にもいかねえだろが。俺だって――」
 そこで、アーネストの腹の虫が、食料を求めて鳴った。ユーニスは思わず吹き出す。
「笑うなよ! 俺は朝飯も昼飯も食ってねえんだぞ!」
 赤面して怒鳴ったアーネストは、おきっぱなしで忘れていた財布を引っつかみ、
「何か食いに行くぞ」


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