第3章 part1
翌朝。
ユーニスは、固い寝台から起き上がった。結局、一つしかない寝台を譲ってもらったのだが、質の悪い布団と固い寝台で、寝た心地がしなかった。体を横たえているだけと言う感じ。寝間着代わりに貸してもらったアーネストのシャツを着たまま、彼は周りをきょろきょろと見回した。
「あ、そうか。ここは僕の部屋じゃないんだ」
アーネストを探すが、狭いこの部屋なのに、アーネストの姿はない。寝台を譲ってくれたのだから床で寝ているのだろうと思ったが、床の上にも姿が見えない。
「おじさん、どこ?」
寝台から降りて、改めて周りを見回すが、やはりアーネストの姿はない。散歩にでも出ているのかと思い、用を足すために浴室のドアを開ける。
「うわああっ」
ユーニスは途端に腰を抜かした。
なぜなら、浴室のマットレスの上に、一匹の狼が眠っていたからだった。
ユーニスの声を聞いてか、狼は耳をピクリと動かし、目を開ける。そして、のっそりと首を動かしてユーニスの姿を見る。なぜここに狼がいるのかと驚いて腰を抜かしたままのユーニス。狼はそれに構わず、くわあと大あくびする。起き上がり、背伸びをして体をほぐしたあと、少し体に力を込める。
すると、その狼の姿が見る見るうちに変化し、二足歩行に変わり、さらには人の姿に変わった。ユーニスは更に目を大きく見開き、この数秒間の光景を見つめていた。
「よお」
目の前に、アーネストが立っていた。だがユーニスは目を大きく見開き、口をぱくぱく開閉させたまま、何も返事が出来ない状態だった。
「何だよ、なに驚いてんだよ。俺だよ」
アーネストが言うも、ユーニスはショックから立ち直るのに十分もの時間を要したのだった。
「何だよ、他の区にはこういう能力持った奴はいないのか?」
洗濯機を作動させ、アーネストは問うた。
「いるわけないじゃん! そんな化け物……」
アーネストは化け物呼ばわりされ、むっとした。日々を《捕獲屋》との戦闘についやす第五地区の住人から見れば、何の能力も持たないのに生活できるユーニスの方がよほどおかしい。
「とにかくっ、この地区にいられるだけでも僕に感謝してもらわなくちゃ」
「なんでお前に感謝しなくちゃならねえんだ」
「おじさんには関係ないよ!」
「おじさんて……アーネスト、で構わねえよ」
朝の七時だったが、早くから外は活気に溢れていた。
「早起きなんだね」
ユーニスはアーネストのジャケットのすそにしがみつきながら、周りを見る。が、時折流れてくる臭いに、首をかしげた。
「なに、この変な臭い……」
「知らねえ方がいい」
アーネストはさらりと流す。しかしその口調の中に、どこか警戒するような響きがある。
「ねえ、それより、何処行くのさ、アーネスト」
「決まってるだろ、朝飯食いに行くんだよ」
一体何処へ行くのかとユーニスは考え込んだ。昨日行った、あの激辛の食堂だろうか。夕飯もそこで食べさせられたので、しばらく口内と食道がカッカと熱を持っていた。できれば今日はあっさりしたものを食べたい――。
「ほれ、着いた」
アーネストは、ある建物の前で立ち止まる。
病院の寮。
ユーニスは建物をしばらく見つめてから、アーネストに問うた。
「え、朝ごはんを、ここで食べるの?」
「おう。どうせ用事もあるしな」
「用事って――うわっ!」
アーネストは素早くユーニスを肩に担ぎ上げ、ジャンプした。あっというまに三階まで跳びあがり、空いている窓の、窓枠にすばやくしがみつく。換気のためにあけてあるのだろう。窓から《捕獲屋》が入ってくることもあるので、無用心といえば無用心。
「よー」
アーネストは、よじのぼって中へ入る。
室内は小さな食堂になっている。長方形のデスクと椅子が並ぶだけの極めて殺風景な部屋で、部屋の中央には、食事配給用の大きな機械が置いてある。
その殺風景な食堂で、一人、スペーサーが朝食をとっていた。
「また来たのか」
食器から顔を上げ、スペーサーは眠そうな表情のまま、アーネストに言う。この男はいつ会っても眠そうな顔をしている。
窓から入ったアーネストは、まずユーニスをおろしてやる。
「いいだろ別に。寮のメシなんざマズくて誰も食わねえんだろうが」
「どうでもいいが、いい加減自炊したらどうなんだ。いつもいつも寮の朝飯をタカりに来て。不味い不味いといいながら、物好きな奴だ」
病院づとめの者は、医師やアルバイトに関係なくここで食事を取る。が、絶対的な決まりではないのと、食事が不味いのとで、食事を取る者はほとんどいない。既製品で済ませることの方が多い。
「いいだろ別に」
アーネストは同じ言葉を再度言って反論する。
「ところでさー」
食事の乗ったトレーを二つ持ってきて、一つをユーニスに渡して、もう一つを自分の目の前に置く。そしてアーネストは問うた。
「オヤって何だ? ユーニスがなんかしつこく言ってるんだけど」
「オヤ? オヤねえ。定義にもよるんだが。何と言ってほしいんだ?」
「親の顔が見たい、とか言うんだよな。でもそのオヤってなんだ」
「親とは、簡単に言えば、子を作り出す個体のことだ。卵が生まれるには、ニワトリがいなければならない。ニワトリが産んだ卵、そしてその卵から生まれたひよこが『子』にあたる。『親』はニワトリだ。だがそのひよこが成長してニワトリになり、新しく卵を産めば、そのニワトリは『子』から『親』になる」
「……よくわかんねえ。けど、俺達にそのオヤっているのか? ひとって、誰かに産んでもらうものなのか?」
「医学的には、誰かから産んでもらわなくては存在できないことは確かだ。どんな生物も、何らかの形で子孫を残す。が、なぜか、我々の体は、その子孫を生み出すための生殖能力が完全に欠けている」
「セイショクノウリョク?」
「まあ、子供を作るための、体の機能の一つとでも言えばいいか。とにかく、その機能が全く発達していないから、我々は子を作ることが出来ないわけだ」
アーネストは呆気に取られた表情のまま。全く理解していない様子。一方、ユーニスは、澱粉糊なのかオートミールなのかよくわからない食事の不味さに舌を出している。
「我々には、『親』がいるはずだ。だが生殖能力の欠けた我々は、どうあがいても子孫を残せない体だ。一体誰が我々を存在させたのか、それ自体がさっぱり分かっていない状態だ」
スペーサーの言葉のあと、ユーニスはちらりと医師に目をやった。どこか警戒するような光が、その黒い眼の中にあった。ユーニスの視線に気づいてか、スペーサーもユーニスを見たが、その青い瞳の中には、疑惑と好奇心の光が見えた。
食後、トレーを片付けて窓を閉める。スペーサーは欠伸しながら自分の部屋に戻っていった。ヨランダの持ってくる、本日の患者のカルテの整理をまず始めなくてはならないのだ。
「で、病院に用事って? まさか、あんなマズイご飯食べるためだけ?」
「ちげーよ。俺はこの病院で、仕事貰ってんだよ」
アーネストが次に歩いていった先が、病院の倉庫。薬品を初めとする様々な医療具がしまわれている場所だ。
「仕事って?」
「足りない薬品を取りに行ったり、薬剤運びをしたりするんだよ」
うすぐらい倉庫の奥から、黒衣に身を包んだ数名の男が現れる。倉庫の管理者だ。
「ちわ」
アーネストが片手を挙げて軽く挨拶する。相手も答えたが、アーネストの後ろにいるユーニスに目をやった。
「何で子供を連れてきたんだ」
「出てきたばっかで、まだ保護が必要なもんだから」
アーネストは言い訳がましく言う。この男は嘘をつくのが下手だ。顔にすぐ出る。ユーニスでさえすぐ分かった。
「まあいいか。とにかく、足りないものがいくつかあるからな、さっそく取りに行ってもらおう」
「うっす」
アーネストはその黒衣の男から伝票らしきものを受け取り、くるりときびすを返して倉庫を出た。ユーニスは慌ててついていく。
「ねえ、どこ行くの」
「決まってるだろ。薬を取りに行くんだよ」
伝票らしき紙をぴらぴらさせながら、アーネストは言った。
「うーん。でもお前を連れてくには、ちっと危ないかもなあ」
「え? でもヤだよ、一人にしないでよ! こんな危ない地区……」
「危ねえ危ねえ言うなら、他の地区へ家出すればよかったろ。ジゴージトクだ」
ユーニスはふくれっつらになったが、大人しくアーネストの後についていった。
病院の入り口のすぐ側にバイク置き場がある。荷物置き場である後部座席にユーニスを乗せ、アーネストはバイクを走らせて、西にある大きな倉庫へ向かった。その途中、この地区の中でも特に薄汚れて入り組んだ場所を通った。
着いた先の大きな倉庫の前でバイクを止め、周囲の安全を確認してから、アーネストは中に入る。ユーニスは彼から一歩も離れまいとして、ジャケットの裾にしがみついている。彼に引っ付いていることが一番安全なのだと分かっているのだ。
倉庫の中は少しカビ臭く、電気はついているがそれでも薄暗い。天井まで届く棚がいくつもあり、そのどれもに箱が入っている。おそらく、アーネストがここへ来た目的から考えて、医薬品の類であろう。
足音が聞こえ、ユーニスは思わず身構えるが、アーネストは平然としている。やがて足音と共に棚の陰から、一人の長身の男が姿を見せる。背丈は二メートル半はありそうだ。その背丈と共に肉体も恐ろしくがっしりしており、日々《捕獲屋》相手に素手で戦う肉体派のアーネストの方が見劣りする。
「来たのか」
極めて野太い声。年の頃は三十を半ば過ぎたところか。アーネストは慣れているのか尻込みもせず、挨拶を返す。
「おう。これ貰って来いって」
病院で貰った紙を渡す。相手の男は紙を受け取り、目を通す。
「分かった」
倉庫の奥へ向かい、わずか数分で、いくつかの箱を持って戻ってきた。重さは軽く十キロはあるだろう。そしてそれらを、まるで紙切れのように軽々とアーネストの前におく。
「勝手に持っていけ」
「おー、いつもながら気前いいな」
「誰かは知らんが、この倉庫の中に勝手に物を置いていってくれるからな」
男はそう言って、また倉庫の奥へと行ってしまった。どうやら、この倉庫の管理をしているようだが、その管理方法は極めてずぼららしかった。
アーネストは箱を、少し重そうに、もって行く。ユーニスも箱を持っていこうと思ったが、見た目以上に箱が重く、引きずるのがやっとだった。
「無理するなよ」
アーネストが戻ってきて、最後にユーニスが引きずっている箱を、軽々と抱えあげた。
外に置かれているバイクの後部座席に荷物を縛りつけ、落ちないように微妙に位置をずらす。残った隙間に、何とかユーニスを乗せ、アーネストはバイクのエンジンをかける。
「帰りは用心しろよ」
「なんで」
「ここへ来るまでに通ってきたところ、あそこがこの地区の中でも、裏通りの次に危ねえ場所なんだよ」
「なんで。誰もいなかったじゃない」
「行きはいない。ここらじゃあ、荷物持ってる帰りに現れるんだよ、強盗が」
アーネストの言葉通り。行きで通った、よりいっそう薄汚れた通りを抜けていると、今度は前方に何人かの能力者が立ちはだかったのだ。いずれも血で薄汚れた服を着ている。アーネストは人数を素早く確認すると、バイクを減速させる。いつもなら多少無理をしてでも突っ切るのだが、ユーニスがいる今なのだ、無理をすればユーニスが落ちてしまうかもしれない。
相手は三人。だがもっといる可能性もある。
「よお、いつもは逃げるのにな。しかもガキつきか」
強盗の一人が腕を振る。すると、その腕が伸びた。伸縮系の能力者だ。
腕が伸びて、積荷を狙う。バイクから飛び降りたアーネストは、素早くその腕をつかみ、相手が腕を戻す間も与えず、ぐいと強くひねった。嫌な鈍い音が響く。腕を捻り折られた相手の悲鳴も聞かず、アーネストはそのまま腕を引っ張り相手をこちらへ無理に手繰り寄せる。そのまま、
「おらよ!」
ハンマー投げの要領で強盗の体ごと腕を振り回し、前方の強盗二人をなぎ倒す。同時に、振り回す勢いで自分の体も半回転させ、背後から近づこうとしていた強盗四人のうち二人をなぎ倒す。ユーニスは目を大きく見開いて震えていたが、後ろに新手がいたと知ると、今度は顔を青くした。
獣のごとく喉を唸らせ、アーネストはバイクの後ろへ回る。まだ荷は手をつけられていない。背後の強盗を迎え撃とうと身構えた。
「!」
覚えのある気配と、ニオイ。
他の強盗たちも、アーネストが感じとったモノに気づいて、わずかに身を固くした。
汚れた建物の陰から、《捕獲屋》が十人、襲いかかってきたのだ。
「《捕獲屋》だ!」
荷の奪い合いだったはずの戦闘は、たちまち護身の戦闘にうって変わった。《捕獲屋》たちはいずれも素手であったが、包帯に覆われているその腕から繰り出される攻撃は、重い。防御するだけでもじんとしびれを感じるほどだ。
(なんだこの腕力は……!)
胸を狙う突きを、両手を交差させて防御する。だがその突きの威力は、能力者に匹敵するものであった。
(今までの奴らとは違う!)
背後から悲鳴が上がる。振り向くと、ユーニスが《捕獲屋》の一人に捕まっていた。
「何やってんだお前!」
アーネストは、ユーニスを抱えたまま逃げようと背を向けた《捕獲屋》を強く蹴倒す。相手が地面に倒れた際に、ユーニスも倒れる羽目になったが。
「何すんのさ。痛かった――」
「やかましい! 捕まっといて文句垂れるな!」
周囲では、強盗たちが《捕獲屋》に苦戦しているのが見える。自分のことで手一杯で、こちらを襲う余裕はないようだ。
アーネストはすぐにバイクのブレーキを解除し、脇にユーニスを抱えたまま飛び乗る。そして強盗たちと《捕獲屋》が気づいたときには、もうバイクは走り出していた。
何とか病院にたどり着く。いつもより疲れた様子で病院の裏手に現れたアーネストと、脇に抱えられたままのユーニスを見て、ちょうど薬品の整理の手伝いをしていたヨランダは目を丸くした。
「あら、一体どうしたの。くたびれきった顔して……」
「ど、どうしたもこうしたも、《捕獲屋》に襲われて――」
息を切らしながら、アーネストは喋る。腕の力が抜け、ユーニスが床の上にずり落ちた。
同情のかけらも見せず、ヨランダは言った。
「で、荷物は?」
「そ、外……」
アーネストの脇をすり抜け、ヨランダは外へ出る。
「あら、全部あるみたいね。でも結構デコボコしてない? 《捕獲屋》との戦闘のせい?」
「そ、そうに、き、決まってる……」
アーネストの呼吸がだいぶ落ち着きを取り戻したところで、荷物を運び入れる。大きな箱がいくつも運び入れられ、中身が所定の場所に収められていく。粉薬、包帯、絆創膏、塗り薬など。ユーニスは多少手伝わされたが、それでも見ているだけの方が多かった。
倉庫の整理が終わると、時計は九時半をまわっていた。
「ところで」
倉庫から出るとき、ヨランダは笑いながら言った。
「あんた、結構懐かれてるのね。べったり引っ付かれちゃって」
言われたアーネストは、ジャケットの裾にしがみついているユーニスを見た。ユーニスは、ヨランダに笑われたことを理解したようだが、裾を握る手を放すつもりはないらしい。
「べったりって言われてもな。自分で自分の身を守れねえんだから、仕方ねえだろ」
「外に出たばかりのあんたも、そんな感じだったかしら」
アーネストは赤面した。
「どうでもいいだろ、そんな事!」
気性の荒いアーネストだが、外に出たばかりの頃は、能力を用いて身を守る術を持たなかった。だから、ある程度成長するまでは誰かに引っ付いて《捕獲屋》を倒す方法を学んでいたのである。
倉庫を出た後、アーネストは一度ジャケットを脱いだ。先ほどの戦闘で、少し傷を負ったようだ。素手での攻撃であったが、《捕獲屋》の、白い布で包まれた指先から伸びる爪の引っ掻きは、妙に痛かったのだ。まるで本物の金属であったかのような痛み。
「あーあ。血がにじんでる。こりゃ知らないうちにかすったな」
逃げるのに夢中で、気がつかなかったが、シャツの脇が破られてそこから血が滲み出ているのが見える。ユーニスはそれを見てぎょっとした。
「うわ、痛そ……」
「ちっと痛えけどな。これくらいの傷、たいしたことねえや」
アーネストは何でもないと言いながら、院内の通路を歩く。そして、
「よー、診てくんねーかー?」
スペーサーの部屋のドアを、ノックも無しにあける。部屋の中には、これから診る患者のカルテをまとめているスペーサーがいた。アーネストの入室に驚いた様子も見せず、眠そうな顔を、彼のほうに向ける。
「ん? またか?」
アーネストのシャツの脇の部分が破れているのを見る。そして、これから診察の時間なのか、すでに準備されている医療器具の一つを出す。湿布のようだ。アーネストは、破れたシャツをまくりあげ、傷口を見せる。スペーサーは傷口を消毒すると、素早くその湿布らしき布を傷口に当てる。数秒後、その布を離すと、不思議なことに、アーネストの脇腹の傷口が綺麗に消えていた。かさぶたもない。
「えっ」
ユーニスは目を丸くした。
「な、何で傷が消えてるの? ただの止血じゃないの?」
「何を驚いてるんだ?」
スペーサーが問い返す。
「ただの治療に、何を驚くんだ。他の地区では、これを治療といわないのか?」
「言うわけないよ! そんな布当てただけで傷が完治するなんて、まるで魔法だよ!」
アーネストとスペーサーは同時に顔を見合わせた。
「魔法? そんなバカなことあるわけねえだろ」
「他の地区では、このような治し方をしないのか?」
二人の言葉に、ユーニスは呆気に取られたのであった。
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