第3章 part2



 怪我を治療してもらった後、病院を出た。
 ユーニスはアーネストの手を握って歩きながら、なにやらぶつぶつ呟いている。アーネストはそれを気に留める事無く、歩いている。時折、子供をつれた通行人が通り過ぎていくが、この地区では当たり前の光景である。《捕獲屋》と戦って、ある程度実戦経験を積んで独り立ちできるまで、子供たちは誰かに守られているのである。暗黙のうちに出来上がった法律のようなものだ。従って、ユーニスがアーネストに引っ付いていても、誰もおかしいとは思わない。
 この地区独特の空気が、風に乗って流れてくる。ユーニスはその空気を嗅ぐだけで胸がむかついてくるのを感じた。一体何のニオイだろうか。聞いても、何故かアーネストは教えてくれない。知らないほうがいい、と、口を閉ざす。
 目抜き通りを少し外れたところに、一般の店とは違う、露天商がある。様々な食べ物や食器類がごちゃまぜに売られている。ユーニスから見ると、店の商品の内容は貧弱そのものだったが、アーネストから見ると、この露天商の売るものは皆魅力的に見える。
「お、そうだ。今日くらい料理に挑戦してみるか。ちょいと何か買って帰るぞ」
 露天商の品物の内容は、安物の金属食器、瓶詰め、束になったソーセージなどなど。とにかく様々なものが売られている。商店街の店が開き始めて間もない時刻だが、朝も早くから開いている露天商は、売れ行きはあまりよくなさそうだがそれでも活気に溢れていた。
「あれ何?」
 ユーニスは、鉄の板の上に並べられている、黄色い液体の入った瓶詰めを指す。
「ピクルス?」
「ピクルスじゃねえよ。あれの中身は、決まってるだろ、無菌ビョウムシの漬物」
 他の地区から物資と食料を送られてくるこの第五地区で、唯一地区内で生産されている食料。ビョウムシとは、この第五地区にのみ生息する、下水道の生き物である。外見はミミズそっくりだが、丸い目がある。長さは条虫ほどもあり、主食はドブネズミ。最近はこれの卵を特別な場所で孵化させ、無菌のえさばかりを食べさせて酢につけ、ピクルスのように輪切りにして食べる方法が一般的だ。
「下水の虫? げえっ、そんな気色悪いもの食べるの……」
「最初は気色悪いって思うけどな、一度食うと、病み付きになるぜ、これが。結構クセのある味だから」
 アーネストはぺろりと舌なめずりをする。妙に獣じみた動作。ユーニスはそれを見て、額に皺を寄せた。
「化け物じゃん、やっぱり……」
「なんだって?」
「何でもないっ」
 ユーニスが、そのビョウムシの漬物を買うのをひどく嫌がったので、アーネストは買わずにその場を離れた。本当ならば久しぶりに丸ごと一匹食べたかったのだが、ユーニスが嫌がるのだから仕方ない。それに、ビョウムシの漬物は、第五地区でも好き嫌いの分かれる食べ物なのだ。
 普通の店よりも露天商の方が安値のため、乾物をいくつか買う。あまり包丁を使わずに済むものをあえて選んでいるのだ。乾物は水で戻せば食べられるのだから。
 機嫌よくアパートに戻り、ユーニスを抱えてジャンプする。軽々とベランダの柵に飛び移ったアーネストは、ベランダに降り立ち、ユーニスをおろしてやる。それからドアの鍵を開け、ドアを開けた。
 中に入ると同時に、アーネストはうなじがぴりっとするのを感じた。先に奥に入ろうとするユーニスは、アーネストが急に止まったのを見て、振り返る。
「どうしたの?」
 ユーニスには分からないらしい。アーネストは狭い室内を油断なく見回した。気配を探るが、何にも感じられない。
「!」
 この部屋にあるはずがないものを発見し、アーネストはずかずかと部屋をまたぐようにして歩み、床の上に落ちていたものを拾った。
《捕獲屋》の使う、毒を塗ったナイフ。プラスチック製の柄は、冷たい。この部屋に置かれてから、それなりに時間が経っているようだ。鈍く光る刃からは、かすかにだが、毒特有の、酸い臭いが発せられている。
「なにそれ」
 ユーニスが覗き込んだ。アーネストは何も言わず、窓を開けるが早いか、ナイフを放り出した。

「頼まれた本、持ってきたよー。ここ置いておくわね」
「ああ、ありがとう」
 ヨランダが、ワゴンに乗せて持ってきた多数の医学書を、スペーサーのデスクの側に置く。スペーサーが読みたいといったので、ヨランダは書庫から探して持ってきたのだ。
 ヨランダが部屋を出て行った後、彼はワゴンの上から一冊取る。
(なぜ我々の体は子を成せないんだ? 子が存在するためには必ず親となる存在が必要。我々能力者が子を成せない体ならば、どこから生まれた? そして、あの白い建物から出る子供達は、どこで生まれてくる?)
 ユーニスを知ってから、スペーサーは自分の頭の中でこの問いばかりを繰り返していた。外部の地区の者であるユーニス。閉鎖されたこの第五地区にやってきた方法も理由も分からないが、少なくとも、ユーニスは能力者ではない。ヒトなのだ。
(能力者とヒトは何が違う? 外見も成長する速度も全く同じ。違うとすれば能力を持つか否か。そして――)
 望んだ事項のない本をパタンと閉じた。
(子を成せる体か否か)
 本をワゴンに戻した後、彼は、椅子の背もたれに体を預け、思い出そうと努めた。
 あの建物の中で暮らす前、一体どこにいたのだろうか。どれだけ深く思い出しても、まず目の中に浮かんでくるのは、白い部屋の中で、ベッドに横になっていた事。目覚めと同時に、あの真っ白なドーム状の建物の中での生活が始まったのだ。それより前のことなど、何一つとして思い出せない。
 壁にかかった時計を見る。昼前のようだ。
「そうだ、そろそろ――」
 立ち上がりかけ、ドアのほうへ体を捻った時、彼は一瞬だけ目を疑った。
「!」
 この個室が、ほんの一瞬だけ、闇のように真っ暗な部屋に見えたのだ。

「ところで」
 ユーニスは言った。
「料理するって言ったくせに、乾物だけじゃん」
「いいじゃねえか」
 アーネストは弁解がましく言う。水で戻された乾物が皿に載っているだけという、かなり寂しい昼食である。
「そりゃ、あの辛い味の店に行くより良いけど。これ一体なんなの?」
 ユーニスは、薄茶色の、キクラゲともワカメともつかない乾物をフォークでつつく。その乾物は、フォークの先でつつかれると、ぐんにゃりと倒れた。
「ああ、それね。そいつは、キリキリキノコ」
「きりきり?」
「食うと、体がキリキリ捻られるみたいな感じがするから、そう呼ぶんだ。食ってみれ」
 ユーニスはおそるおそる一口食べてみる。最初の乾物のかけらが口に入り、それを歯で噛むや否や、全身がぶるっと震えだした。続いて脇腹が捻られるような奇妙な痛みが数秒間走る。やがて奇妙な痛みがゆっくりと引いていく。
「な、な、何これ……」
 ユーニスの声は震えていた。まだ声に震えが残っているかのようだ。
「だから言ったろ。キリキリキノコだって。変な痛みはあるけど、それが引いたらあとはすっきりするんだ」
 アーネストは何でもないかのようにキリキリキノコを食べている。慣れているのだろう。やがてユーニスは、体中が妙にすっきりするのを覚えた。まるで全身の不純物が全部綺麗に洗い流されたかのような――。
「いい気持ち……」
「だろ?」
 恍惚とした表情のユーニスに、アーネストは笑いながら言った。だが顔に出さないものの、考え事をしていた。
(なんで部屋に入ったんだ? 《捕獲屋》は部屋の中までは入ってこないはずなのに。それに、なんであのナイフが床に落ちていたんだ。忘れ物か?)
 公共施設以外では、《捕獲屋》は屋内に入ってくる事はまず無い。戸締りさえしっかりしていれば、室内にいるだけで身の安全は確保できる。だが、鍵を閉めていたはずのこの部屋の中に、どうやって、そして何の目的で、《捕獲屋》は入ったのか。何も盗まれていなかったし、盗む価値のあるものはこの部屋の中には無い。そして、落としたのか、あえて置いていったのか、毒を塗ったナイフが床の上にあった。
「どしたの」
 ユーニスの声で、アーネストは現実へ引き戻された。見ると、キリキリキノコを全部食べてしまったようだ。
「いや、なんでもねえ」
 アーネストは言った。

「何よもう。結局ほとんど読まずに、返してきて、だなんて」
 ヨランダは、本の積まれたワゴンを押しながら、ぶつぶつ言った。医学書の積み上げられたワゴンは重く、力を込めないと押す事ができない。手で持ち運ぶよりは楽だが、それでも医学書一冊の重さは並の本の数倍あるのだ。
 書庫に着き、医学書を戻す。はしごを使ったり、椅子の上に乗ったりと、あちこちを歩いてどうにか全ての医学書を棚に戻した。
「ふう。疲れた。今、何時かしら?」
 ポケットから時計を出す。
「もう一時なの? ごはん食べてないわ。何か買ってこようっと」
 ワゴンを元の場所に戻し、ヨランダは廊下を歩いていったが、ふと、通路の防弾ガラスの外の景色を見た。
 曇り。鉛色の空と、高い壁。

 注がれる液体の音。
 静かな機械の音。
 排水溝に吸い込まれる液体の音。
 泣き声。

 バシッ!

「!」
 外から聞こえる、《捕獲屋》と能力者との戦いの音で、ヨランダは現実に引き戻された。やがて悲鳴が聞こえ、《捕獲屋》の体が病院の一室から落下していくのが見えた。四階から落ちたのだ、まず助からないだろう。
「あらあら、また《捕獲屋》が入り込んでるのね」
 ヨランダは同情のかけらも見せず、廊下を歩いていった。


part1へもどる書斎へもどる