第4章 part1



 昼食後、アーネストはユーニスにせがまれて、この第五地区の目抜き通りを一緒に歩いていた。
「ね、あれは何? あの建物は?」
「あー、あれは――」
 色々と質問するユーニス。アーネストは答えてやりながら、それでも絶えず辺りに神経を張り巡らせていた。室内に落ちていた《捕獲屋》のナイフ。室内に入ってきたという事は、この近くにもうろついているという事。大勢の住人が行きかう目抜き通りにまで出てくるとは考えにくいが、それでも用心するに越した事はない。
「ところでさ」
 ユーニスがジャケットの袖を引っ張るので、アーネストは反射的に体を固くした。《捕獲屋》の奇襲に備えて神経を尖らせているのだ、いきなり袖を引っ張られ体がびくっと反応したのである。
「え? 何だよ」
「なんだか、さっきからこの変な臭いの風が何処からか吹いてくるの。一体何の臭い?」
「……知らねえ方がいいって」
 アーネストは拒否の意味で手を振る。しかしユーニスは食い下がる。
「ね、教えてよ! 怒らないから!」
「怒るとかそういう問題じゃねえよ。この地区で生活してれば、いやでもこの臭いの正体がわかっちまうよ。外から来たお前にゃ、耐えられないだろうけどな」
「外からって……」
「俺はガキのときからこの臭いに慣れてんだ。それに、正体を知ろうとしなくたって、向こうから正体を見せに来る」
 教えてくれないアーネストに、ユーニスはふくれっ面をした。しかし、アーネストの表情を見て、それ以上聞こうとはしなかった。からかってなどいない、冗談など言っていない。真剣な表情だ。
「わかったよ……聞かなきゃいいんでしょ」
 目抜き通りを抜けて、公共施設の多い区間へおとずれる。図書館、ゴミ処理施設、大病院など。
「あれ、ここにも病院があるんだね」
 ユーニスは、大病院を見る。アーネストは頭をかいた。この病院はどうも苦手だった。
「ああ。この地区で一番でっかい病院だ。でも、俺ここ好きじゃねえ」
「どうして」
「入ってみれば解る」
 別に病気でもないし、怪我もしていないのに、《捕獲屋》侵入防止用の特製鍵がついたドアを開け、中に入る。ユーニスはどきどきしていたが、鍵は何の反応も示さず、大人しく彼を通してくれた。
 大病院の中は、今朝朝食をとりにいった病院よりも清潔であった。壁にはほとんど汚れがないし、床もきちんと掃除されていて、綺麗だ。受付と待合室は少し奥まったところにあり、《捕獲屋》が万が一防止鍵を突破して中に入ってきてもすぐには襲いかかれないように防弾ガラス製の仕切りがついている。その待合室には古びたベンチがあって、診察まちの患者が腰掛けている。
 アーネストが奥を指差す。ユーニスは彼の示している先を見てみた。
 おそらく病院の医師なのだろう。しかし同じ医師であるスペーサーとは服装が全く違っている。私服の上に白衣を着ているだけのスペーサーと違い、この病院の医師は全身をダークグレイの手術着で包み、顔もマスクで半分以上隠していた。
「うへっ」
 ユーニスは思わず目を丸くした。
「だから言ったろ、好きじゃねえって」
 アーネストはユーニスの手を引っ張り、大病院を出た。
「なにあの格好……。これから手術でもやるの」
「違う違う。あれが、医者の服装なんだよ」
 アーネストは言った。
(あの姿を見るだけで気分が悪くなる……。あの『中』で暮らしてたときの、あいつらそっくりだからな)
 頭の中に浮かんできた光景。
 あの白い建物の中で目覚めたとき、周りには、灰色で全身を覆い隠した者たちがいて、彼を取りかこんでいた。そのうちの一人が、怯える彼を抱き上げ、彼の腕についていた札らしきものを剥がし、代わりに青い液体の入った注射器で彼の腕に液体を注入する。痛みで泣く間もなく、猛烈な眠気が襲いかかり、頭の中が眠気につられて溶けていくような奇妙な感覚を憶えた。そして、意識が戻ってきたときには、頭がすっきりしたような感覚と、周りの子供たちの存在があった。
 わずかに、刺すような頭痛がする。
 目の前が、一瞬だけ歪んだように見えた。続いて耳鳴りがして意識が遠のいて――
「どうしたの?」
 腕に触れられて、アーネストは意識を取り戻した。ユーニスが腕を引っ張ったのだ。
「どうしたの、ぼけっとしちゃって。それに、なんだかすっごく汗かいてるみたいだけど……」
 ユーニスに指摘され、アーネストは、妙に激しく鼓動する心臓の運動を感じ取った。なぜかひどく心臓が動いている。ものすごく早く。ヒトからすれば、小動物並の速度だが、能力者の場合はその小動物並みの心拍数が標準なのだ。それをさらに上回るのだから、途方もない速さで心臓が鼓動しているのは間違いない。
「え、何でも、何でもねえってば!」
「な、なんでもないって、そんな汗かいてそんな事言われてもさ」
「だからっ、何でもねえってば!」
 アーネストは半ば自棄になったが、それでも妙に呼吸が荒くなっているのを感じ取っていないわけではなかった。
 そして、ユーニスに腕を引っ張られる直前、意識の薄れ掛けていたアーネストは一瞬だけ見た。

 無数の筒状機械が立ち並ぶ、巨大な部屋を。


「さっさと失せろ、屑が」
 スペーサーは冷たく言って、急所に文鎮の槍が突き刺さった《捕獲屋》を、診察室の窓から放り出した。
 診察が一区切りついたので休憩しようかと思っていたところで、どこから入り込んだのか、《捕獲屋》が現れて襲ってきたのである。結果はもうわかっているとおり、文鎮に干渉して槍に変形させた一撃で《捕獲屋》は絶命し、窓から放り出されたのである。
「全く。部屋が汚れた」
 ぶつぶつ言いながら、部屋の隅にある棚を開け、モップに似た簡易掃除用具を取り出して、血しぶきの飛び散っている床を拭く。わずか一拭きしかしていないのに、血しぶきは全て、しみ一つ残さず綺麗にぬぐわれた。《捕獲屋》との戦闘に備えて、掃除用具はどの部屋にもついている。診察室で戦闘をすることなど、この地区で病院づとめをする医師ならば日常茶飯事なのだ。
 掃除が終わると、手を洗い、消毒する。消臭剤をスプレーすると、すぐに血の臭いは消えた。もっとも、普段から血なまぐさい戦闘がこの地区では行われているのだから、スプレーして臭いを消しても、あまり意味が無いのだが。
《捕獲屋》を放り出した窓を閉め、診察の終わったカルテをファイルに挟んだ。今日の診察はもうお終い。彼の診察する患者は少ない。まだ若手という事で、あまり患者を回されないのだ。
 スペーサーは椅子の背もたれに体を預ける。
(考えた事もなかった……自分がどこから来たのか、なんてこと)
 脳裏に、ユーニスの姿が浮かぶ。
(ヒトは生殖機能が存在しているというが、そいつはどんな具合に発達するものなんだ? 実物を見ないと解らんな。それに、どうやって生殖機能を使って子孫を増やしているんだ?)
 生殖機能が全く発達していない能力者の医学書には、ヒトに生殖機能が存在することしか掲載されていない。どうやってヒトが子孫を作るのかという事柄については何一つ書かれていない。
(いっぺん解剖してみたいな。能力者同様、ヒトにも個体差はあるだろうが、身体の成長がはじまるのもちょうどこのくらいの時期だ。比較する材料としてはちょうど良さそうだ)
 単なる、医者としての純粋な好奇心だ。
(それに、生殖機能を持つヒトがどうやって子孫を作り、その子孫はどこから生まれてくるものなのか、知りたいものだな。ひよこがニワトリに成長しなければ産卵できない。ヒトはどのくらいにまで成長できれば子孫が作れるんだ? ヒトは卵から生まれるものではないとすれば、どうやって……)
 ヒトは女性から生まれるもの。だが能力者にはそのことがわからない。一定の期間ごとに十歳ごろの子供たちが、地区中央の白いドーム状の建物から出てくる。そのドームの中で過ごす前のことなど、何一つ覚えていないのが普通だ。まして、自分自身を存在させた『親』など、名前も顔も、その存在すらも知らない。知る必要もない。外に出た後は、《捕獲屋》に捕まらないように戦う術を覚えて生活するだけで事足りるのだから。
(……)
 先ほどから感じる頭痛。
 風邪をひいているわけではない。この地区の住人はウィルスに感染しないという極めて特別な免疫を持っている。では地区の病院の存在は何かと言うと、《捕獲屋》との戦いで負う傷の治療と能力者が発病する《奇病》の研究だ。《捕獲屋》と戦闘するため、あらゆる種類の治療用具が全部の病院に納められている。そのため、かすり傷から猛毒による瀕死状態に至るまであらゆる怪我に対応できる。
《奇病》とは、能力者なら誰でも患う、謎の病である。病名は、誰もつけていないので、そう呼ばれている。体調は悪くないのに、額の奥が何かでつつかれるような痛みを覚える。痛みは、最初は月単位で訪れ、軽い頭痛程度なので、普段は忘れてしまう事も多い。しかし、痛みの感覚は少しずつ短くなり、痛みも増し、最終的にはそれらが分刻みで訪れる。麻酔で痛みを和らげてやることもできるが、麻酔が切れるとまた痛み出すのである。その激痛に耐え切れずに死ぬ者もいるが、運がよければ頭痛が治り、正常な生活を送れるようになり、二度とその頭痛に悩まされる事もない。
 この地区の医師は、誰一人として、《奇病》の治療方法を知らない。該当する薬もない。血液検査や遺伝子検査を行っても、何一つ結果が出ないのである。不治の病ではないが、治療方法も予防方法も何もわかっていない。一度患ってしまったら、自然治癒を待つしかない。
 そしてスペーサー自身、半年前からこの病を患っていた。今の痛みの間隔は数週間おきであったが、それでも徐々にその痛みの間隔は短くなり、痛みが少しずつ増しているのがわかる。最初はわずかな鈍痛でしかなかったが、今は、脳のどこかを刺されているような鋭い痛みが走る。痛みは数秒ほどでひいていくが、それでも、確実に自分の頭の中を引っ掻き回されているような感覚がある。
(痛みの間隔が短くなってきたな。このままいくと、どうなるか……)
 真面目に考えているはずなのに相変わらず顔だけ眠そうなスペーサーは、窓の縁からひそかに覗いている《捕獲屋》めがけて、机の上に乗っている文鎮を投げつけた。

 額から金属の槍をはやした《捕獲屋》が悲鳴を上げながら、病院の庭へ落下していった。


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