第5章 part1



 夕日が沈むと、第五地区はすぐに闇に覆われる。高い壁で囲まれ、太陽の光がほとんど入らないためだ。街灯がともり、メインストリートを歩く人の数が急激に減る。夕方以降は《捕獲屋》の出現率が大幅に上がる。メインストリートでさえ危険な場所になるため、住人達は、日没前に帰るのが普通だ。

 病院。
「だからって連れてこないでよ」
 病院の受付の向こう側にいるヨランダは、明らかに迷惑そうであった。
「しょうがねえだろ」
 アーネストは言った。
「ここしか思い当たる場所はねえんだよ」
 アーネストが知っている中で一番安全な場所といえば、なじみの病院しか考えられなかったのだ。ユーニスは、彼のジャケットにしがみついている。意地でも放す気はないらしい。
「そういわれても、病院は子供を預かる施設じゃないのよ!」
 ヨランダは嫌そうに言いつつ、前髪をかきあげた。その際に微細な音波が発され、耳と脳を刺激されたユーニスは思わず耳を塞ぐ。
 ヨランダがさらに何か言おうと口を開くと、
「いいではないか」
 彼女の背後から声がした。そちらを見ると、
「あ、院長……」
 歳は五十を越えるだろうか、痩せぎすではあるが、ひ弱な印象を与えない老人。この病院の院長が姿を現した。普段は、院内で最も警備体制の厳重な院長室におり、病院の医師たちでもあまり姿を見ることはない。
「いいではないか」
 院長は、するどい声で言った。
「彼も、わざわざ仕事のために《捕獲屋》との戦いで消耗する事無く、通ってこられるのだから、それでいいではないか」
「でも院長……」
 ヨランダの言葉を遮り、院長は言った。
「それに、ここにいてくれたほうが、わざわざ連絡をいれる手間も省けるというものだ。手間を省いてくれるという意味でも、実にいいことだ。なに、寮の部屋ならまだ空きがあるし」
「でも――」
「それにな、最近は《捕獲屋》がやたらと入り込んでくるようになった。その警備も兼ねてもらえばいい。そうすれば、《捕獲屋》の数も減るだろうて」
(確かに)
 ヨランダは思った。急に《捕獲屋》の数が増えた。今までは、数日に一人か二人であったはずの《捕獲屋》が、一日に何人も入り込んでくるようになった。
 ユーニスがこの地区に現れたその日から。
(院内の警備と、身辺警護も兼ねてもらえば、少しは病院の治安も良くなるかもしれないわね)
 ヨランダは少し顔を伏せた。
(以前の『あれ』と同じ事が、また無ければいいんだけど……)

 病院の寮は、病院の裏手にある。病院を一回り小さくしたような、薄汚れた灰色の建物だ。
「これが寮なの?」
 ユーニスは、通された部屋を見て、目を丸くする。呆れとも驚きともつかない声を上げた。
「ただの部屋じゃないか。狭くて――」
「当たり前だろ。けど、これでも設備はいい方なんだぞ」
 アーネストは、荷物を乱暴にベッドの上に放る。住んでいたアパートを引き払い、必要な荷物だけを持ってここに来たのだ。元々衣類程度しか荷物が無いので、ショルダーバッグかリュックサックがあれば、事足りる。
「なんてったって、風呂がついてんだから」
 この地区のアパートには、浴槽のついているものと、ついていないものとに分かれる。アーネストが使っていたアパートは、浴室はあれども、浴槽がついておらず、シャワーだけしかない。その分、家賃は安い。浴槽つきのアパートに住む能力者は、この地区では裕福な者として扱われる。
「浴槽がついてることが、いい設備の条件なわけ?」
「浴槽つきなんて、すんげー贅沢じゃねえか」
 部屋には、ユーニスの背丈程度しかない小さなタンスと、布団の固いベッドがある。ベッドの側にはサイドテーブルが置いてあり、本や眼鏡などの小物を乗せる事が出来るようになっている。部屋の奥には浴室がある。
 この部屋には窓があるが、外の光を取り込むための窓ではない。人の頭が辛うじて出るか否かという狭さ。これは単なる換気用である。ユーニスは窓を開けてみたが、外から入ってくる光はほんの僅か。もう夕日は地平線の向こうに沈み、既に第五地区は街灯がともされている。外の景色を見ようにも、この地区を囲む極めて高い壁が邪魔して、見えるのは町並みと、壁だけ。地平線を見ることは出来ない。
「つまんないの。壁しか見えないや」
「壁しか見えないったって、当たり前だろ」
 アーネストは、ユーニスの襟首を引っつかんで窓から引き離し、窓を閉めた。
「開けっ放しにするなよ。最近の《捕獲屋》は薬物まで使ってくる。部屋ん中に薬でもまかれて動きが取れなくなったりしたらどうするんだよ!」
「……」
 ユーニスはふくれっ面をした。

 病院の一室。
「ほー。で、院内警備を兼ねて、寮に泊まるということか?」
「そう」
 ヨランダが、アーネストとユーニスが病院裏手の寮に泊まる事を聞かせる。スペーサーは眠そうな顔に反して、声は若干トーンが高い。驚いているのだろうか。
「院長命令よ」
「ああ、院長ならやりかねんな」
 スペーサーは、デスクの上の書類をまとめ、立ち上がって背伸びする。その時だけ背筋は真っ直ぐになったが、止めるとまた猫背に戻った。
「それで、今、寮にいるのか?」
「ええ。案内したもの。ま、ここのところ《捕獲屋》が山ほど入り込んでいるから、一人でも警備役が増えてくれれば、多少はこっちの苦労も減ると思うわね。でも――」
 ヨランダはそこで、一旦言葉を切った。
「あの時の『あれ』だけは、起きて欲しくないわ」
 スペーサーは何も言わず、軽く頷いた。

 午後七時を回る頃、スペーサーは寮の自室に戻ってきた。荷物を床に放り投げ、窓の施錠がきちんとしているか確認する。部屋に戻る前に食堂で夕飯を済ませてきたので、今やる事といえば、明日の診察の準備と、風呂に入る事だけだ。
 浴室に湯を張っている間、スペーサーは考えていた。
(あの少年、ユーニスと言ったかな、彼が近くにいるということは、観察が容易くなったということ。が、さすがに解剖までさせてはくれないだろうな。せめて、血の一滴でも採れれば、院内の設備を使って、色々調べる事ができるんだがなあ。しかし、採血させろと言っても、素直にそうしてくれるとは限らない。それに――)
 浴槽の縁に腰掛ける。
(彼が現れたその日から、急激に《捕獲屋》が増えたな。今日だけでも、六人。いや、脳天を叩き潰してやった奴も含めれば七人か。これは偶然なのか? それとも――)
 尻尾が湯に濡れた事に気づいて、腰を上げる。いつの間にか、浴槽に湯は溜まっていた。
 洗面所へ戻って、周囲の気配を探りつつも、服を脱ぐ。入浴中は基本的に隙だらけになるのだ。リラックスして疲れを落とすはずの浴槽は、建物の中でも一番危険な場所ともいえる。
「あーあ、疲れた。さっさと風呂入るか」
 いつもの私服を脱いだその下には、何かで引き裂かれたような、右胸から左脇腹まで走る大きな複数の傷跡があった。

「変ね……。さっきここから《捕獲屋》の気配を感じたんだけど」
 ヨランダは、細心の注意を払いつつ、寮の裏口付近を覗き込む。夜間は基本的に金属の格子が降りている。格子がおろされる前に院内へ侵入した《捕獲屋》はどうしようもないが、外部からの侵入を防ぐ事はできる。《捕獲屋》は基本的に、格子のおろされた公共施設に入ってくる事は無い。朝になって、ガードが手薄になってから現れることが多い。
「気のせいだったのかしら?」
 明かりのついた廊下を歩いて、ヨランダは自分の部屋に戻りつつも、辺りの気配を探っている。今日も一日、受付の手伝いやら、買い物やら、書庫の整理やら、様々な雑用で追われていたのだ。医師よりも疲れている。
「やーね。こんなに《捕獲屋》が入り込んでくるなんて。どれだけ警備強化したって、これじゃ意味無いわ」
 独り言を呟きつつも、その声の中でしっかりと音波が発されている。少なくとも彼女に近づこうとする《捕獲屋》は、皆、音波で脳をやられる。遠距離用の武器を使う者がいるならば別であるが。
 部屋に戻り、まずは気配の確認をし、続いて窓の施錠を確認する。壊されてはいない。《捕獲屋》の気配もない。誰もいないようだ。
 浴槽に湯を張り、入浴する。風呂から出ると、抜群のプロポーションを持つ体にバスタオルを巻きつけ、別のタオルで髪を拭く。
「全く、今日は今まで以上に忙しいじゃないの。散々こき使ってくれちゃって」
 電灯の光を受けて、湯に濡れた彼女のブロンドはより一層美しく見える。そしてこの抜群のプロポーション。これに見ほれない男はいないだろう。普段は病院のアルバイトで忙しく院内を動き回っているため、服装はボーイッシュだが、きちんとドレスや装飾品で着飾れば、大概の男が彼女に声をかけてくるだろう。
 ヨランダは、着替えて、部屋に戻る。《捕獲屋》の気配は無い。なぜか《捕獲屋》は気配を消さない。そのため、気配の察知さえ出来れば、身の安全は五割がた確保できたと言っても良い。
 布団の固いベッドに寝転ぶ。
「部屋の中まで入ってきて欲しくないわね……」
 そのまま、疲れていた彼女は眠りに落ちていった。

「なんで風呂まで一緒に入らなくちゃならねえんだよ」
「いいじゃん」
 ユーニスは、浴槽に湯が溜まっていくのを見ながら、アーネストに言った。
「だってシャワーじゃ物足りないし。それに、あのへんな、《捕獲屋》だっけ、そいつらに襲われたくないし」
「だから室内に入ってくる奴は少ないんだっつの!」
 アーネストは言い返す。
「お前そんなに風呂が好きなのか?」
「あれ? この地区じゃあ、お風呂に入らないのが当たり前なの?」
「当たり前もなにも、シャワーだけで足りる。少なくとも俺はそう思う」
「アーネストは、でしょ。でも僕は違うもん」
 やがて浴槽に湯が張る。元々一人用のため、狭い。二人一緒に浴槽に入る事はできない。
「はいろ、はいろ」
 ユーニスに言われ、アーネストはしぶしぶ脱ぐ。ジャケットとシャツを脱ぐと、その下からは、日々の戦闘で鍛え上げられた強靭な肉体が現れる。ユーニスは思わず見とれた。
「すごいなー。こんなに筋肉質になれるんだ」
 見ていたが、ふと、アーネストの体に走っている傷跡に気づく。腕や胸などに走る傷跡をよく見てみると、槍のように貫通しやすいもので貫かれたような痕がある。銃弾による銃創ではない。いくつかは急所すれすれの場所にあるが、急所を狙って失敗したのか、あるいはわざと外したのか――。
「なに、この傷跡……」
 ユーニスの問いに、アーネストはやや目を伏せた。表情が暗くなる。それに気づかず、ユーニスは呟く。
「あの布を当てただけで傷が治ったのに、なんでこの傷は体に残ってるのかな……」
「どうでもいいだろ」
 力なく答えたアーネスト。そして、ユーニスの後ろ髪を引っつかんだ。
「いたっ。何するのさ!」
「ほれ、突っ立ってると、体冷やすぞ」
 アーネストは、痛がるユーニスを乱暴に浴槽へ突っ込んだ。
「も、何するのさ! お湯飲んじゃった……」
「先入ってろ。俺は後でいい」
 アーネストはきびすを返して、ユーニスの抗議も聞かず、浴室から出た。

(言えるわけないだろ、この傷のこと……)


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