第5章 part2



 闇が広がっている。だが、その闇はやがて少しずつ赤く染まり始めた。赤く染まってきた闇は、液体のように足元で広がり始める。そして、赤い闇の中に、誰かが横たわっているのが見えてくる。赤は、その誰かの体から広がっている。
 ほかの場所からも、赤が広がり始める。足元から、横から、上から、後ろから、赤が少しずつ迫ってきた。
 悲鳴。
 誰かが叫んでいるようだ。だが、その悲鳴の主は、どこにも見えない。
 やがて、全てが赤く染まった。


 ユーニスは、固い布団の上で目を覚ました。相変わらず布団は固いが、眠れないわけではない。自分がどこにいるのか理解するまで、しばらく時間を要した。
「あ、そうか。ここ病院の寮だった……」
 ベッドの近くで聞こえる獣の唸り声。喉をごろごろと唸らせているらしい。が、どこにいるのかわからない。探せばそのあたりで寝ているのがすぐわかるだろう。ユーニスは寝ぼけ眼をこすりながら、ベッドから降りた。
「ギャン!」
 何か柔らかなものを踏んだと思った瞬間、獣の悲鳴。ユーニスは思わず飛びのいた。
 ユーニスのちょうど足元に、狼が丸くなって寝ていた。それに気づかず、ユーニスは脚を下ろしてしまい、狼を踏んづけたのだ。
 踏まれた狼は起き上がるや否や、怒りの唸り声を上げてユーニスを睨みつけた。ユーニスは、牙を剥いて今にもとびかかってきそうな狼の迫力に負け、思わず後退した。
「ちょ、そ、そんなに怒る事ないじゃん……そ、そりゃ僕が悪かったけど――」
 狼は唸るのをやめ、体に力を込める。すると、数秒ほどで、獣の姿から人の姿に変わる。
「怒るに決まってるだろ! 尻尾踏まれりゃ誰だって痛いんだからな!」
 アーネストは開口一番、ユーニスを怒鳴りつけた。

 相変わらず眠そうな顔のスペーサーが、食堂に姿を現したのは、それから五分ほど後のこと。アーネストとユーニスがなにやら言い争いながら朝食を取っているときだった。
「朝から騒々しいな」
 機械から自分の朝食を取り出す。彼の入室にやっと気づいたのか、アーネストとユーニスが同時に彼を見る。
「何をそんなに言い争っているんだ」
 割って入ったわけではないが、スペーサーの登場で二人の言い争いが中断された事は確かだ。二人はほぼ同時に口を開いたが、先に喋ったのはアーネストだった。
「こいつ俺の尻尾踏んづけたんだぞ!」
「だって、そこにいるって知らなかったんだもん。踏まれたくないならベッドの側で寝なければいいじゃない」
「離れずに側にいてくれって言ったのお前じゃねえか!」
 二人の言い争いを半分聞き流しながらも、スペーサーはユーニスを見る。アーネストとの言い争いに夢中で、スペーサーの視線に気づかないユーニス。
(見た目はヒトも能力者も同じか。違うとすればやはり体内の構造だろうな。ヒトは能力を持たないが、両者の肉体構造に全く違いが無いとすれば、遺伝子レベルで違いが有ると見てもいいかもしれない。つまるところ、生を受けたその瞬間から、ヒトと能力者は既に分けられてしまっているというわけだな。ふむ。詳細を知るには、やはり解剖してみたいものだ)
 その時、腕を振った瞬間に、ユーニスが机の角に手先をぶつけてしまった。わずかに切ったらしく、手の甲に少し血がにじんでいる。
(チャンス!)
 スペーサーは素早く立ち上がり、白衣のポケットから簡易救急セットを取り出す。そして、つかつかと足早に歩み寄るが早いか、ユーニスの腕を取る。
「何するのさ!」
「手当するだけだ。つべこべ言うな」
 乱暴にユーニスの腕を引っ張ると、スペーサーは素早くその傷口にスポイトらしい形の小さな道具を当てる。すると、数ccの血液が吸い取られた。ユーニスに質問する暇を与えず、傷口を消毒し、湿布のような布を傷口へ押し当てる。数秒ほどで布をどけたが、
「?」
 スペーサーは、その眠そうな顔に似合わず、疑惑の表情を浮かべた。
 傷口が、ふさがっていない。
 かさぶた一つ出来ていない。血が出続けている。
「傷が治らない……」
 スペーサーの言葉に、アーネストは、ユーニスの手の甲の傷を見る。そして、目を丸くした。
「何で傷がふさがってないんだ? すぐ治るはずだろ?」
 ユーニスは二人に驚かれた理由がわからない。
「な、何で驚いてるの。こんな布当てただけで、傷が治るわけないじゃない。ちゃんと包帯とかしないと――」
「やはり違うのか……」
 スペーサーは呟いた。
「え?」
 ユーニスが聞き返すも、彼は無視して、スポイトらしい道具と先ほどの布をポケットにしまい、今度は普通の傷用バンドエイドを取り出して貼り付けた。
「これ、僕でも大丈夫かな」
「知らん。一応手当てにはなっている」
 スペーサーはそれだけ言って、食器を片付けた後、そそくさと食堂を出て行った。
「変なの。あれでお医者なわけ?」
「医者だっつの」
 アーネストはそれだけ言って、ユーニスの手の甲に貼られたバンドエイドを見た。軽いかすり傷なら瞬時に塞いでしまう、あの布。ユーニスの傷はごく浅いものだったが、あの布を当てても、傷はふさがらなかった。バンドエイドは他の地区から入ってきたものらしいが、貼ってもすぐに傷がふさがらないので、怪我の多いアーネストはもっぱらスペーサーの治療に頼っている。
「あんな変な布あてるより、こっちのほうがまだいいか。でもこれ庶民の使う治療道具じゃん」
 ユーニスのぼやきの傍ら、アーネストは不審に思い始めた。
(なんで治らない? あれを当てるだけで、すぐに治るはずだが――)

 食堂から出た後、スペーサーは早足で自室へ向かった。
(わずかだが、採血はできた。これだけあれば十分だ。早く解析しよう。設備は病院にしかないからな)
 自室へ戻ると荷物を引っつかみ、病院へ急いだ。
 廊下を急いで駆けていく途中、ヨランダとすれ違う。が、彼は気に留める事無く外へ出て、病院へ向かった。
「何を急いでるのかしら、朝も早くから。まだ行く時間じゃないのに」
 ヨランダは彼の背中を見送った後、食堂へ行く。そこで、食べ終わって食器を元の場所へ戻すアーネストとユーニスの姿を見つけた。
「あら、早いのね。アタシちょっと寝坊しちゃった」
「起こされたんだよ」
 アーネストは不機嫌に言って、ユーニスの頭をぺちっと叩く。それから彼女の脇を通り抜けて、食堂を出て行った。頭を叩かれたユーニスは、膨れ面で頭をさすったが、すぐにアーネストの後を追っていった。
 二人の背中を見送ったヨランダ。
「似てるわねえ。昔のアーネストに……」
 まだ守られていた頃のアーネストの姿が、ヨランダの目に浮かんだ。
 あの男と、まだ幼いアーネストは、何度か言い争いもしていた。見たところ、仲はあまりよくなかったようだが、それでもアーネストは、独り立ちできるその日になるまで、その男の後をついていっていた。何だかんだ言っても守ってもらう必要があった年頃、一緒にいるうちにその男の習慣がうつってしまったのだろう。年少者の頭を叩くのは、アーネストの愛情表現でもあり、怒っている時の表現だ。
 アーネストと、その後を懸命に追うユーニスを見ていると、あの時の光景が、まるで昨日の事のように思い出された。
(いつまでも変わらないのね)
 ヨランダは見送った後、食堂へ入った。

 その日の午前中は、特に何事も起こらなかった。《捕獲屋》は一人も見つからず、とても平和だった。
 午前の診察を終えたスペーサーは、ユーニスから採血した血液を、病院の器具を使って調べているところだった。倉庫の電子顕微鏡をはじめ、いくつかの道具を引っ張り出して自分の診察室へ持ち込み、調べているところだったのだ。
「血液型はBか。ヒトも能力者も、血液型の存在は変わらんのだな」
 昼食をとるのも忘れ、彼は顕微鏡を覗き、メモを片手で取っていた。彼の傍らには既に、ユーニスの血液と、サンプルとして採血した自身の血液とを比較しているメモが散乱している。物の置き場もないほどだ。
「大体は、能力者もヒトも血液構造が同じ。赤血球の数は能力者の方が多いが、それでも両者の差はあまりないか。となると、今度は皮膚か頭髪のかけらでも貰いたいところだな。より詳細な検査が出来そうだ」
 こんな事を言ってはいるが、それでもメモを取る手は休まないままだ。
「遺伝子のレベルで違いを見れば、もっとはっきりした事がわかるかもしれない。あの子は成長段階に入る頃だから、面白いものが見られるかもしれないな。成長途中の細胞はどんなものなのか、拝む事ができるかもしれない」
 顕微鏡のレンズを覗きながらのメモであったが、なぜか不思議と字は綺麗に列を作っている。
 ふと、顕微鏡から目を離す。
「……」
 ズキリと感じる頭の痛み。
 一瞬だけ、頭痛とともにめまいが起きた。
 昨日頭痛を迎えたばかりだった。それなのに、いきなり痛み出した。
「何が原因だ? 何故間隔が急に狭まった?」
 一ヶ月単位から数週間単位、そして毎週から毎日、最後には毎時間、毎分へと狭まってゆくはずの痛みの間隔。だが、今日また訪れた。そして、この痛みは半端ではない。頭が割れそうだった。
 壁にかかった時計を見ると、午後の診察まで後十分足らずだった。
「そういえば昼飯を口にしていなかったな。一口でいいから、何か――」
 立ち上がった瞬間、感じた。
《捕獲屋》たちが、いる。
 それも、この部屋の周りに。
「取り囲まれたか……?」
 スペーサーの額を、冷や汗が流れていった。

 病院内を巡回しながら、アーネストはユーニスにつきあって、あれこれ話をしていた。ユーニスは院内を覗くのに夢中であった。
「へえ。僕の主治医とは全然違うなあ。掃除用具のある病院なんて初めて見るよ。普通はメイドに掃除を任せるものじゃないの?」
「ん? 『めいど』って何だ?」
「え? 知らないの? ええとね、身の回りの色々なことを世話してくれる女の人だよ」
「ってことは、誰かを世話するのが『めいど』なのか?」
「そうなんだけど、う〜ん、説明が難しいなあ。それより、あれは何?」
「あれは書庫。俺には縁のねえ場所だよ」
《捕獲屋》の姿は、今のところ見つからない。
(珍しいなあ。何にも感じ取れない)
 ユーニスと話をしながらも、アーネストは神経を張り巡らせていた。だが、《捕獲屋》の気配も何も、感じ取れない。
「え? ここがトイレなわけ? もっと綺麗じゃないと使う気起きないよ。トイレ用のカバーとかかけてないの?」
「いらねーだろ」
「僕は要るの」
 ユーニスがペロリと舌を出したところで、アーネストは、ふと、自分の耳に飛び込んできた音を聞いた。
 ガラスが割られた音。
 続いて、嗅ぎ憶えのある血の臭いが、かすかに嗅ぎ取れた。
 上の階から。
「!」
 嫌な予感に駆られ、アーネストは、ユーニスを置いて、駆け出した。
「あっ、アーネスト! どこ行くの?」
 ユーニスが慌てて追いかける。だがアーネストはユーニスの方を振り返らなかった。
(まさか――!)
 階段を一跳びでのぼり、廊下を走る。
 嫌な予感がする。
 一刻も早く、あそこへつかなければならない。
 ふと、反対方向からヨランダがカルテを持ったまま走ってくるのが見えた。

 ヨランダは、医学書を返却するためにワゴンを押しているところだった。厚い本が何冊も積まれているので重いが、手で持っていくよりはましだ。
 書庫に本を返し終わると、ワゴンを壁に立てかけて、廊下へ出る。何気なく外を見る。
 相変わらず、外は高い壁に囲まれ、空などほんの僅かしか見えない。目を凝らすと、今日は曇りらしい。
「お昼だっていうのに、やあねえ。あ、そうだ。カルテ持って行かないと――」
 本の返却で忘れていた。午後の診察のカルテをスペーサーの部屋にもって行かなければならない。今日は僅か三名。診察などすぐ終わるはず。ヨランダは駆け足で受付へ戻り、カルテを抱えて、一時までに間に合うよう、走る。
 途中、廊下の窓に赤いしみがついたのを見た。が、彼女はあまり気にもせず、そのまま駆け足で廊下を通り、階段を上る。
 医師たちの診察室が並ぶ階。ここが一番血なまぐさい場所だ。医師が一人きりであるところを狙って、複数で襲ってくる《捕獲屋》が後を絶たない。特にスペーサーは、珍しい、干渉系の能力を持っている。幼少の頃から、彼は他の能力者以上に《捕獲屋》に狙われてきた。独り立ちし、医師となった今でも、彼は他の医者以上に、《捕獲屋》と戦っている。
 ふと、反対方向からアーネストが廊下を走ってくるのが見えた。血相を変えている。ユーニスが少し遅れてついてくる。
 ヨランダは、急に嫌な予感がした。何かあったに違いない。
 まさか――!
 ヨランダとアーネストはほぼ同時に、目的の部屋にたどり着いた。ユーニスが遅れてたどり着く。
 ドアは破壊されている。そして――アーネストとヨランダの予感は、的中した。

「……!」
 部屋の中は、荒らされていた。医療器具や、デスクの上に置かれた書類は片っ端から床に落とされている。部屋の壁や床に大量の血液が飛び散っており、床には、ナイフや捕獲用ワイヤーを握り締めた数名の《捕獲屋》が倒れている。急所を一突きにされているようだ。
 窓は破られてカーテンがはためいている。《捕獲屋》独自の、極めて薬臭い血の臭いが、鼻を突く。
 だがアーネストは、もう一つ、別の血の臭いを嗅ぎ取っていた。そして、その血液の主の身に何が起こったのかも、解った。

 スペーサーは、《捕獲屋》に連れ去れてしまったのだ――。


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